長岡京右京二条四坊一・八・九町発掘説明会                                                 平成15年4月26日

             発掘現場  後方の山は小塩山(淳和天皇陵があり、片栗の花が咲く)


長岡京遷都に関わる時代背景について
遷都を行ったのは桓武天皇です。
垣武天皇の母親は百済系渡来人でした。
このことは2001年日韓共催サッカーワールドカップのとき今上天皇が「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べておられます。
渡来人の血を引く桓武天皇が天皇になれた裏には、藤原式家の策略があったからだそうで、その式家出身の藤原種継(ふじわらたねつぐ)という人が黒幕といわれています。(実は藤原種継の母親も新羅系渡来人の泰氏の出でした)
藤原種継の策略というのは『桓武天皇の父は光仁天皇で皇后は井上皇后でした。この二人の間には他戸親王がおり、皇太子だったので、当然光仁天皇の次の天皇は他戸親王になるはずだったのです。
ところが井上皇后の呪詛事件(巫蠱(ふご))の罪で他戸親王は廃太子され処刑してしまうのです』(関連情報はこちら
代わって病に伏した父光仁天皇の譲位を受けて即位したのが桓武天皇(781年)だったのです。
桓武天皇は坂上田村麻呂を用いて東北遠征をさせるなど天武天皇以来の戦闘的性格の持ち主だったのでしょう。
また即位後は実弟の早良親王を皇太子していました。
この頃の社会的思想の中に祟りということが信じられていました。天変地異はすべて祟りが引き起こすものだと思われていたのです。
奈良時代末期、政争が続き、その犠牲となった者たちの祟りが充満しているかの如く天災が相次いだのです。
桓武天皇は、祟りの充満した平城京を抜け出し、すべてを一新してやり直すために新都の建設を思い立ったのでしょう。
桓武天皇の信頼が厚かった藤原種継の進言により新都が決まりました。それが長岡京だったのです。
すぐに長岡京建設が始まりましたが、造営長官だった藤原種継が暗殺されるという事件が起きたのです。
桓武天皇は、その首謀者を藤原氏と対立関係にあった(歌人で有名な)大伴家持と決め付けるのですが、家持はこの事件の一ヶ月前に既になくなっています。
そして弟の早良親王も関係ありとして、長岡京の乙訓寺に幽閉してしまったのです。
桓武天皇もやっぱり人の子、我が子可愛さに皇位を継がせたいと思ったのでしょう。それとも藤原氏と大伴氏の権力争いが絡んでいたともされる事件です。
早良親王は無実を訴え断食をし、護送中に死去してしまいました。
この後長岡京は洪水が起こり疫病が流行って、凶事(母、皇后の死亡)が続いたため、早良親王の「祟りじゃ!」ということになるのです。
そして、たった10年で長岡京を捨て平安京へと遷都することになったのです。


発掘説明会
長岡京の遺跡発掘と聞いて紫香楽や恭仁京の時のように大極殿のような遺跡を思い浮かべる方も多いと思いますが今回はそういうところでなく長岡京全体の作りの中で大極殿からは離れたところの発掘なのです。
それともう一つ、長岡京といっても桓武天皇が新たに未開の土地を開拓して新京を作ったのでなく、このあたりは継体天皇に関係していた部族が住んでいたところでもあり、また弥生人も住んでいたところなのです。
ということは掘ればこういった長岡京期以前の遺跡が出てきても何ら不思議がないところなのです。

場 所     京都市西京区大原野石見町
期 間     2003年1月〜継続中
調査面積   約6000平方m
調査主体   (財)京都市埋蔵文化財研究所

検出した主な遺構
1.長岡京期の遺構
  溝     一条大路南側溝の推定線南で、調査区東西全域にわたり約270mを確認。
         溝幅は最大1.3m、最深0.5m
         この溝については新聞等で『これまでの調査結果から推定される位置とは、最大で南へ8mずれている
         ことが分かり、市埋研は「土地を有効利用しようとして、同大路を含む長岡京の西北角地域のみ、
         わざと大路の位置をずらしたのでは」とみている。
         しかし、過去の左京域での一条大路の調査に基づく条坊復元図とは、大路の位置が違っていることが
         判明した』
         『この溝が同大路の南側溝であれば、左京とは南に8mずれている。
         側溝の南にある築地塀のさらに南側の溝としても、2m南にずれていることが分かった。
         長岡京の他の地域や平安京の大路ではこれほど大きなずれはなく、市埋文研は「丘陵に囲まれた地
         域のため、限られた空間を宅地利用など有効に利用しようとしたのではないか」としている』
         というような記事が載っていました。。
         まっこのあたりの見解はどう解釈すればよいのでしょうね。単純に土木技術の幼稚さによる誤差なのか
         意識的にずらしたものなのかは推測の域をでません。
         「丘陵に囲まれた地域のため、限られた空間を宅地利用など有効に利用しようとしたのではないか」
         という説については一条大路が一番北の端の大路ではないため何も段階的なずれを作る必要は考
         えられず、どうかな?と思います。


  建物    東西3間×南北3間以上の北庇建物。柱間は2.65m間隔


  井戸    円形縦板組の井戸(直径1m堀形3×4m)。堀形の四隅の柱穴があり上屋があったようです。


2.古墳時代の遺構
  竪穴住居 南北4.2m、東西3.5m、柱穴4ヶ所と炉を北側中央で検出
         側溝が0.2m〜0.3mの幅で残存


  掘建柱建物 2間×2間の総柱建物



3.弥生時代の遺構
  方形周溝墓 墓壙の本体は削平されてましたが、周溝部分(最大幅1.5m、最深0.6m)が残存


4.縄文時代の遺構
  甕棺墓群   縄文時代晩期の舟橋式の鉢を横向きに埋納した甕棺墓がほとんどで5基検出




「今回の調査では、縄文時代晩期から中世までの各期の遺構・遺物が発見され、平安時代以降として確認されていた上里遺跡(この発掘現場の東北東すぐ)がさらに遡る遺跡であることを明らかにすることが出来た」とのことが資料に書かれていましたが、上里遺跡のことは知りませんので??? 何故明らかになるのかな?
・縄文時代晩期の甕棺墓群の発見:墓域の規模や範囲は今後の課題ですが、近隣への墓域の広がりと集落の存在が予想される。
・古墳時代中期の竪穴住居群検出:京都盆地での古墳時代集落の変遷を知る上で重要な資料となる。
・一条大路南側溝(?)を東西270mにわたり検出:従来の条坊推定線からは南にずれ、右京域の一条推定線について検討を与える結果となった。
・右京二条四坊一・八・九町域では南北方向の小路推定地で、関連する遺構が検出できなかったことで、小路が作られなかった可能性があると考えられる。

資料に依れば以上のようにまとめられていましたが、さらに大胆な推測を試みますと長岡京は建設から10年という短期間の間に平安京に遷都されました。
長岡京自体は大きさでいえば東西4.3Km、南北5.3Kmという平安京に匹敵する規模であり10年といえば当時の土木技術では完成していなかったのだろう。
大極殿の周りおよび前方ならいざ知らず大極殿の西(右)の山手に続く今回の発掘現場は工事が進んでいなかったのだろう。
その証拠として縄文時代・弥生時代の遺物が長岡京期の遺構と同じ地層から出てきていること上げておきたい。
長岡京の町作りが完成してそこに人が住んで普通の生活が営まれていたなら、これら古代の遺構(竪穴住居跡等)は潰されていたであろうし、長岡京期の遺物がもっと発見されていることだろう。
従って今回発見された270mにもおよぶ溝は一条大路の側溝というよりは山手から流れてくる水を単に導水したものと見ることはできないだろうか。
これが仙道の見解なのですが・・・・・・・。如何でしょうか?





              これも長岡京期の遺物です。






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