奈良県五條市                               


 1月26日朝7時55分に家を出て10時過ぎJRの大和二見駅に付きました。ヒヤーっと寒く下の写真では分りにくいのですが、山の白いところは雪が残っていました。




■井上内親王 他戸親王(いがみ(いのえ)ないしんのう おさべしんのう)(読みは異論あり)

 井上内親王といえば祟った人ということで当ホームページの「歴史おもしろやかた」で扱おうとしました。
しかし、調べていくうちに女性であり、あまりにも可哀想で扱えなかった人物です。
ここで、改めてその生涯を見てみましょう。


左:宇智陵
  (井上内親王)

右:他戸親王陵

















●略歴
 井上内親王は聖武天皇と県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)の間に生れた皇女で、同母弟に安積親王(あさかしんのう)、同母妹に不破内親王がいる。
聖武天皇といえば皇后が光明子であの奈良の大仏を建立した人物です。
安積親王は聖武天皇の謎の彷徨の途中、恭仁京から難波宮に遷都の時に脚気?で死んだとされています。


井上内親王の記録としては、「続日本紀」、「水鏡」、「類聚国史」などの後世の物語や記述から研究され推測されていますがやはり推測は避けられません。以下は史実に基づいていますが私の推測が入っていますので、その点はご了承お願いいたします。
717(霊亀3)年生れ。
721(養老5)年9月11日、5歳の時、卜定(ぼくじょう 占い)により伊勢斎王になることが決定される。
   6年後の神亀4年、11才で伊勢神宮に仕える。
744(天平16)年閏1月13日26才の時、前出の安積親王が薨じ、喪により斎宮を退下する。
   帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃となる。
751(天平勝宝3)年、他戸親王を出産(水鏡では761年45才の時、当時初産が45才なんて信じられない)
754(天平勝宝6)年、酒人内親王(女)を出産している。
道鏡に肩入れして万世一系の天皇家を危うくした(血のつながりのない道鏡を次期天皇にしようとした)称徳天皇が770(神護景雲4)年8月に崩じ、井上内親王の夫の白壁王が11月に即位し、時同じくして皇后となる。
771(宝亀2)年、子の他戸親王が立太子した。




●策謀
 井上内親王は斎宮となったほかここまでは順調なといえば伊勢神宮に失礼かも。この後がいけなかった。
藤原百川という人物がいたのでした。この人は悪者という事になっています。(私は知りません。多分悪者にしておかないと井上内親王の悲劇が生れないからなのですが、道鏡を失脚させ光仁天皇を擁立している善良なひとかも)

この藤原百川という人物は光仁天皇を擁立するにあたって、大市立太子の宣命が起草されたが、百川らが偽の宣命にすり替えたと「水鏡」に記述されています。
 さらに、百川は娘の旅子を夫人にした山部親王(光仁天皇の子で他戸親王の異母兄 桓武天皇)を立太子にするため光仁天皇の子、他戸親王の皇太子を廃しようとしたのである。
そりゃ天皇を擁立したというより天皇の義父、後には天皇の祖父といわれる方がいいのに決っていますから。

それでは、その手口というと現代では信じられないようなものです。ただ、時代背景が現在とは違っていたからできた技だったのです。

 奈良時代や平安時代、崇りや呪いは至るところに実在すると信じられていました。人の変死や伝染病の流行、天変地異は間違いなく祟りのせいだったのです。飛鳥、奈良、平安時代は驚くほど多くの人々が政争に巻込まれて殺されています。恨みを持って死んでいった人の祟りが充満しているのです。
だから自分で呪うのみならず巫女を雇って人を呪い殺そうということはあり得ることで、これは立派な犯罪だったわけです。
今で云えば井戸に毒物を投込むようなことと同じ行為なのです。

百川の手口はまず、井上皇后が息子の他戸親王を早く天皇の位につけさせるため、光仁天皇を呪い殺してしまおうと屋敷に巫女を集めて呪いをかけているというのです。(「霊安寺御霊大明神略縁起」によれば、人形を御井に投げ入れた。)

これをもって772(宝亀3)年3月2日、井上皇后は巫蠱(ふご)の罪ありということになって皇后を廃されたのです。しかし、百川の本当のねらいは他戸親王の皇太子を廃することである。
井上皇后の呪いは度々あり、「類聚国史」によれば、他戸親王は暴虐甚だしく、光仁天皇とは不仲であった。
ここをついて百川は「呪いをかけた井上皇后と同類の息子の他戸親王を幽閉しよう。」と光仁天皇に働きかけたのであろう。

 5月27日には他戸親王から皇太子を廃し、翌773(宝亀)4年、難波内親王を厭魅(えんみ)の罪により大和国宇智郡没官(ぼっかん)宅に幽閉された。
奈良からこの地へ流される時、井上内親王は懐妊しており、五條市岡町を越える峠で男児を出産しています(ちょっと信じがたいのですが年齢は57才です)

そして775年4月27日母子共に薨じている。これは同日ということから当然暗殺されたものと思われる。
その後7月から8月にかけて鼠の大群が現れたり大粒の雹が降り、飢饉となった。
10月6日には地震発生、翌年9月には瓦や石、土の塊が降るという怪異が20日間続き、更に翌年光仁天皇と山部皇太子が甲冑をつけた100人ほどの人に囲まれた夢を見たという。

これらが井上内親王の怨霊の仕業と考えられ、光仁天皇は776年には600人の僧に金剛般若経を読ませ霊を慰め、翌777年、勅使を差し向け、墳墓を改葬し御墓と称し墓守を置いているし、その後、800年に勅使葛井王を下向し、皇后の位に復し、早良親王を崇道天皇と追称、御墓を山陵と追称している(類聚国史)。霊安寺に「御霊信仰」の起源となった御霊神社を建立している。

 五條市では井上内親王に、白壁王のことを思い出させまいと、白い壁を建てることを控えているということです。






 全ての家が黒い壁というのではなく、当然に白い壁の家
 もありましたし、特に蔵は殆どが白い壁でした。
 ただ、他の地域と比べて、黒い壁が多いように感じました。

 参考に五條市の旧家・町並の写真を下段に載せてます
 のでご覧下さい。












●御陵神社
 
  祭神   井上内親王
        天照皇大神
        譽田別尊(応神天皇)
        保食神(お稲荷さん)
        八王子神
        大屋比古神(大綾津日神)

  由緒   前述の井上内親王、他戸親王の通り。

       詳しくは知らないのですが五條市には御陵神社と呼ばれる神社が21社もあるそうです。




 御陵信仰とは
  怨霊の祟りから逃れるための信仰で京都には上御霊神社というのがあって、
 この神社は平安遷都の折りに非業の死をとげた早良親王(祟道天皇)の怨霊を鎮めるために
 桓武天皇の勅願により御霊を祀る社とされました。
 のちに光仁天皇殺害の容疑で投獄された井上内親王、他戸親王、謀反を企てた首謀者として
 捕らえられ伊豆に流された橘逸勢、大宰府に左遷された火雷神(菅原道真)、吉備真備・僧正
 玄ボウに敗れ太宰府に左遷された藤原大夫神(藤原広嗣)等無念の死を遂げた8人の神霊を
 合祀し、祭神八所御霊とされている。
 こういった「怨霊」による祟りを鎮め災いを起させないようにするのが信仰の目的です。





■栄山寺
  今回訪問予定に入れていたのですが、雨が降ってきたため行くのを取りやめました。

 創建は719(養老3)年、藤原鎌足の孫、藤原南家初代武智麿呂が開創である。
武智麿呂680(天武9)〜737(天平9)7月25日。母は蘇我連子の女。同母弟に房前・宇合(うまかい)、異母弟に麻呂がいる。
武智磨呂の月命日の4月25日に祭があり、このとき薬師如来座像(重要文化財)と木造十二神将(重要文化財)を公開している。
それでは武智麻呂を少し見てみましょう。
701(大宝1)年、内舎人に任官となり、翌年、中判事となったが、大宝3年辞任。
704(大宝4)年、大学助となる。この当時の大学というのは13〜16才で入学し、明経、明法、文章(もんじょう)、算の4教科で官人になるためのものでした。
しかし藤原京遷都など大事業が続いたため大学は荒廃していったのでした。武智麻呂はこの状況から大学を再興させるのに尽力した人物だったのです。
729(神亀6)年の長屋王の変では舎人親王らと共に長屋王邸に派遣され、長屋王を尋問している。長屋王はこの期に及んでどんな弁明をしても一切無駄であることをよく知っており、舎人親、武智麿呂らの尋問は長屋王を葬るための形式にすぎないものだった。
ということは藤原南家初代ということもあり、藤原氏の中でもそれなりに実力者であったことがうかがえる。長屋王の自刃ののち大納言に昇進し、734(天平6)年、従二位右大臣まで登り詰めている。
737(天平9)年7月25日、天然痘で死亡。ただ死亡後、太政大臣となっている。





■天誅組
 1863(文久3)年8月、尊皇、攘夷、倒幕がさけばれている幕末期のこと、13日、朝廷は「来る8月20日、天皇は攘夷祈願のために大和へ御幸される。続いて攘夷親征のために伊勢神宮に参拝される」と発表した。これは尊皇攘夷派の長州藩による工作で、御幸・参拝に乗じて江戸へ攻め込み幕府を倒そうという策略であった。
 この機をうかがっていた倒幕急進派の中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本圭堂らが、皇軍の先鋒となる為、8月14日に京都をたち幕府天領の五條へ入りました。
そして8月17日、天誅組の志士30人は五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺害し、桜井寺に本陣を置きました。
しかしこの動きとは別に、公武合体派の薩摩藩・会津藩らはクーデターを計画。8月18日、薩摩系の公家の中川宮は、三条実美ら長州系の公家に御所への出入り禁止を孝明天皇の名で命じ、長州藩の御所の護衛を解いてしまった。
いわゆる、八月十八日の政変である。
こうして尊皇攘夷派の長州藩は敗れ、天皇の大和御幸は中止となってしまいました。







そうすると天誅組の挙兵はその大義名分を失ってしまって、その後天誅組は十津川郷士の応援をえて高取城を攻め、続いて吉野郡各地で戦いましたが、1万人を超える幕府軍の前に翌9月、東吉野村で壊滅したのです。
これは明治維新に向う最初の武装蜂起で、倒幕の先駆けとなったところに意義があり五條市が明治発祥に地と言われる由縁です。
















■赤根屋半七宅跡
 元禄8年(1695)12月9日、大坂・千日寺で、赤根屋半七と女舞三勝の心中事件 がありました。
歌舞伎や浄瑠璃ファンの方ならご存じと思いますが、お園さんが舞台に出てきたところで、鐘がごーんと鳴って、「今頃は半七様どこにどうしてござらうぞ。・・・」の名場面。
竹本三郎兵衛により「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」として作られた浄瑠璃で有名なあの半七さんの家を発見して驚きました。
「ああッここか」という感じです。
説明には『赤根屋の家業は油屋または米屋、または材木屋などと言われているが、いずれも確証はない。ここは悲恋のすえ、大阪難波千日寺の墓地で遊女美濃屋三勝と心中して果てた赤根屋半七が住んでいた宅跡である。
当時の記録によると元禄8年(1695)12月9日、二人は互いの紅裏絹の帛紗縮緬で結び合わし、共に咽喉を掻き切って死んだという。
二人の哀しいはかない恋は、すぐさま「三勝半七艶容女舞衣」として歌舞伎の舞台にのぼり、ついで「三勝半七浮名の雨」など、矢継早に劇化・上演され、現在も大阪文楽劇場でその物語が演じられている。』
と書かれていました。




この他旧家の写真を掲載しておきます。



 左上のつっかえ棒のようなもの名前は知りませんが
 これも五條市の旧家の塀の特徴でしょう。


 左は1607(慶長12)年棟札をもつ日本で一番ふるい
 栗山家住宅。











曇りのち雨という天気でしたが、五條市鄙びた感じと落着いた雰囲気があり、山あり川ありでいい町でした。







            第78回(建仁寺)              第80回(滋賀県長浜市)


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