淳和天皇陵                                        トップ

上の写真は阪急電車東向日駅からバスで20分、南春日町で下車したところから淳和天皇陵がある小塩山(アンテナの立ってる方)を見たところ。

バス停前には季節柄、筍が売られていました。お昼御飯用に「だし巻き卵」も1本買ってイザ出発です。
下は竹林を過ぎると道は細く険しくなっていきます。


淳和天皇とはどういう天皇だったのだろう。
前回の系図をもう一度使用しますが、平城天皇、嵯峨天皇の異母兄弟ということが分かりますね。

桓武天皇の第三皇子で、嵯峨天皇によって皇太子に立てられ823(弘仁14)年譲位を受けて即位しました。
833(天長10)年、嵯峨上皇の第二皇子、正良親王に譲位しています。

嵯峨天皇の時には薬子の乱等色々事件があったのですが、平安遷都後4代目の天皇の御代ともなると政治的には安定してきており、事件らしいものは無く平穏のうちに過ごした天皇だったのでしょう。

平安京の右京四条二坊十一町から十四町の淳和院に住み、紫野雲林院町に離宮も造っていました。
菅原道真が編纂した史書「類聚国史」にはこの離宮の庭の池で遊魚(釣り?)などをしてらしいということが書かれています。
功績としては勅撰漢詩文集「経国集」、前出の史書「類聚国史」、「日本後紀」、「経国集」、 「新撰格式」、「秘府略」、「令義解」を撰上させています。

さて、天皇陵ですが奇怪な話があります。それは「日本紀略」によると「淳和天皇は死に臨んで葬儀を簡略にすること。また死後、自分が鬼となって祟らないように、骨を砕き、粉にして山中にバラ撒くこと」と言い残しています。
そしてその通り事が運ばれました。
ですから向日市物集女町には火葬塚がありますし、物集女町南条には柩を運ぶ車を埋めたとされる車塚古墳があります。
この車塚古墳は平成7年1月16日このあたりを歴遊会で探索中に、たまたま教育委員会の人だったのでしょうか、(古墳の見回りだったのか)一緒に玄室まで入れていただきました。

646(大化2)年に「薄葬令」という詔が出されており、葬儀については簡略にするようにということなのですが、天皇ともなれば、やはりそれなりの規模で行われていました。
しかし、散骨葬というのは例が無く、かなり思い切った方法といわざるを得ません。

おそらく天皇は死後の自分の体のことを想像してこの方法を思いついたのではないでしょうか?
というのは、イザナギ・イザナミ神話にあるように、死後身体が朽ち果て腐り、蛆がわく姿を想像したからではないかと思います。
だからこそ火葬後、骨を砕いて、バラ撒くことと言い残したのでは無いでしょうか。
ですから本日行った大原野西嶺上御陵(おおはらのにしのみねえのみささぎ)は天皇の亡骸があるわけではありません。
大原野西嶺上御陵は、標高642mの小塩山の山頂にあって長径52m、短径39mの楕円形の墳丘だそうですが 、外側から見る限り形はよく分かりませんでした。
経塚といった感じのものでしょうか。



さて、今回の歴遊会のもう一つの目玉はこの小塩山に咲いているという「かたくりの花」なのです。
この「かたくり」の名前にひかれて今回の探索地を決めたのです。
それでは、ここから下はかたくりの花の写真をご覧下さい。

「かたくり」というのは
コナラなどの落葉樹の下で3月〜4月に葉を広げ花を付けます。
コナラが繁ると葉は枯れ地下茎だけになります。
このような植物群はスプリングエフェメラル(春の儚い命)といって、ニリンソウなど数種が知られます。(現地説明板より)

写真右のように群生して咲くのも特徴なでしょう。





この他にも山つつじが綺麗でした。



さっ、いよいよ帰りです。冒頭でも書きましたようにここは京都の筍の産地として有名なところです。
オジサンが筍を掘っていました。
「オジサン、筍ちょうだい」2本買って帰りました。

柔らかい筍ですよ。

















                  第91回(京都市嵯峨)      第93回(比叡山)     





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送