中ツ道発掘 と 藤原宮発掘(第128回)  (2003年6月21日)
                                                                トップ   戻る

ようこそいらっしゃいました。発掘調査説明の前に藤原京について一言述べておきます。
藤原京ってなに?
日本史の教科書を開くと、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、安土桃山、江戸と時代が書いてある。
藤原時代なんてないじゃない。
「そうか、藤原氏が栄え、平等院が建ち、紫式部が源氏物語を書いた時代なのか」と思ってはいけない。
それは平安時代のこと。藤原京というのは飛鳥時代の最後に造営された都なのです。
694年12月持統天皇がここに都を移したのですが、造営は天武天皇が685年頃から始めたようだ。
天武天皇というのは天智天皇の弟で672年の壬申の乱の後、皇位を継いだ天皇で大海人皇子(おおあまのおうじ)のことです。
持統天皇というのは天武天皇の奥さんだったのですが、天武天皇の死後グチャグチャあったのですが、次期天皇に着いたのです。

藤原京建都は大工事でした。山を削り、低地を埋め立て、道路を作り、大木を運び込み、宮殿を建てなければなりませんでした。
これまで発掘された中には、古墳を潰してしまいそこにあった埴輪なども粉々に壊したあとや、「万葉集」によると滋賀県の湖南地方の田上山(たなかみやま)から運んだという。
瀬田川、宇治川、小椋池、木津川と水路を使い、木津で陸挙げしたのち、陸路で奈良山を越え、奈良盆地に入ってからは、佐保川、寺川など再び水路を使い木材を運んだという。

こうしてできあがった都は現在発掘調査が進むにつれて5.3km四方の大きさではなかったかと言われています。
これは平城京よりも大きかったということです。
日本で最初の計画的な本格首都であったこと、当時の世界最大の都市であった唐の長安に倣って都造りを行い、本格的な律令国家を作り上げようとしたこと、興味ある都ですね。
ところがたった16年で平城京に遷都してしまっているのです。

中ツ道(橿原市教育委員会)
さて、発掘ニュースの方に入っていきますが、「中ツ道」とは何?

これは藤原京の地図です。中ツ道の他に上ツ道、下ツ道の3本の北へ伸びる道があったのです。
中ツ道は奈良市北之庄へ伸びる道で平安時代には「御堂関白記」に藤原道長がこの道を通って吉野参詣をおこなったことも記載されているのです。
この地図では中ツ道は東四坊大路とつながっていますが京域が発掘により拡がっていることから、将来的には東二坊大路という名に変わると思います。

この図が今回の発掘地域の全体図です。縦向けに四本の溝がありますね。この内側の二本の溝が当初の溝で道を拡幅して外側の溝の幅にしたと考えられます。
この溝は南から北(図下から上へ)へ水が流れていました。

 これ須恵器の平瓶(ひらべ)と
 いいます。いい感じですね。

この写真は南側から写したもので左側(A)が西側の側溝跡です。
西側溝で内側(拡幅前)のものは幅1.5m、深さ0.3〜0.4m。山地層の影響を受けた砂層堆積ですが、流水量は極少で埋め立てにより埋没していました。
写真の左上になりますが拡幅後の溝が見えています。こちらは幅1.4〜1.8m、深さ0.4〜0.6m。粘土堆積で占められていますが、やはり流水量は少ないようです。


こちらは東側の側溝写真です。
左側が拡幅前で幅1.2〜1.4m、深さ0.5〜1.1mです。
この写真の辺りは人工的に埋め立てられいていましたが、写真の上の辺り(一条大路以北)は流砂層により埋没しています。
右側が拡幅後で幅2〜3mと幅は広く深さは0.6〜1.1m。
自然堆積作用により埋没しています。




右の写真は上の藤原京期検出以降平面図でいうと右上の木簡と書かれている辺りです。
右の写真でも木簡の文字が見えます。
ここで出土したのは下の写真の木簡の他、墨痕跡明瞭なものが18点発見されています。

和銅2年というのは709年ですから平城遷都半年前です。
木簡は現在洗浄中で解読までには至っていないためこれの判読にも興味をそそられます。
左の写真では残念ながら墨痕跡は分からないですが、実物ではうっすらと文字が確認できました。平城遷都まで藤原京は機能していたと考えるべきでしょうね。




右側の写真は一条大路と中ツ道の交差点(北東角付近)です。一条大路は左下から右斜め上に向かっているのが分かるでしょうか。
一条大路は溝と溝の中心距離は8.5mですから道幅は7mちょっとあったと考えられます。当然中ツ道の内側の溝まで続いています。


下の写真同じく中ツ道の東側とと一条大路の交わっているところを北側から撮りました。

説明している方の辺りに橋が架かっていたのでしょうね。
その橋の下に堰状遺構がありました。これから見てこの東側溝には水が流れていたと創造しても酔いのでしょう。

堰状遺構の上流(写真上)からは左のような祭祀遺物が発見されています。
上流から流れてきたのでしょか?橋の下ですから。
また堰状遺構の下流側では金属製人形(ひとがた)が発見されています。どんなものかというと下の写真です。

この金属製人形は長さが9cm、同じ京域から出土したものの中では最長の長さであり、一度に6点が出土したことにも注目が集まります。
やはり祭祀に使われたものではないでしょうか。
その他の出土品としては以下のようなものがあります。

左はフイゴの送風口です。これから考えられることはこの辺りで鍛冶関連の工房があったのではないかと思いますが、今回の発掘ではその施設は発見されていません。
右の写真は数ある出土品の中から私が選んだものですが、美しい曲線が気に入りました。上の方の平瓶といいなかなかレベルの高い職人さんがいたのですね。

参考に写真のコレクションの中に上ツ道が写っているものがありましたので載せておきます。
この写真は藤原京の今回発掘現場から北東へ4km程いったところです。右側の木が茂っているところは卑弥呼の墓ともいわれている倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の箸墓古墳です。





藤原宮(奈良県文化財研究所)

飛鳥藤原調査も128回を向かえたのですね。今回の調査は資料図2の区域東西・南北とも32m×32mの広さです。

上図1,2,3で分かるように藤原宮の中心部には周囲に回廊を巡らせ、大極殿、朝堂院、朝集殿という区画に別れています。
この構造は平城京でも平安京でも同じです。(後述 6図参照)
大極殿には天皇が出御し、朝堂院では親王や大臣以下の臣下が着座し、儀式・政務に当たったのでしょう。
朝集殿はこれら官僚、公務員が定時になるまでここで待っていて情報交換などをしていたのでしょうか。
今回の発掘は朝堂院と朝集殿との間だのところです。

今回の発掘は第4図の通りです。これを写真で見ると以下のようになります。
写真の見方は赤い棒のようなところが朝堂院東面回廊の柱跡、クリーム色は朝集殿院東面回廊の柱跡になります。

左の写真は石溜のところから西側に向いて撮影したところ。
上の写真は第4図で「朝集殿院東面回廊」と縦書きされているところを南側から北向きに撮影したところです。
青い紐の部分は雨落溝部分を表しています。
図にない溝のようなものが沢山掘られているのは土質の変化を見るもので建物跡とは関係ありません。

これらの写真は西側から朝堂院南面回廊とその北側の雨落溝部分です。

左は第4図で朝堂院東面回廊の上部(北側)から撮影しました。


以上をまとめてみると
朝堂院を囲む礎石建ち瓦葺回廊の東南隅部分の様子が分かってきました。
恐らく他の回廊の例から基壇上に柱筋が3列に並び、中央の柱筋に間仕切りの壁や連子窓が入る複廊(ふくろう)と呼ばれる構造でしょう。
 今回の調査ではほぼ想定通りの位置で北から延びてきた回廊が、調査区のほぼ中央でL字形に折れて南面回廊となり、西方に続いているのが確認できました。
礎石は残っていませんでしたが、礎石を安定させるために置いた挙大の根石や、それらを据えろための穴、それらを抜き取った際の穴を14ヶ所で発見しています。
 回廊の側柱筋から約2m離れて雨落溝があり、いずれも粗い砂がうすく堆積しています。幅0.5〜1.1m程、深さ は5〜15cmです。雨落溝の砂の上面には多量の瓦が投棄されています。
朝堂院回廊の基壇ないでは掘立柱穴15ヶ所を検出したということでしたが、桁行・梁行方向ともに柱の中間位置にあり、また近接している2つの穴がある部分が多く、説明では建設と解体にともなう足場と思われるということでした。

 朝集殿院回廊も礎石事態は残っておらず根石も殆どありません。柱位置も明確ではありませんが、復元できる柱間寸法は、梁行3.6m、桁行3.0mで桁行よりも梁行の柱間寸法の方が大きいという複廊としては異例の構造です。

うえの写真にも撮った石溜は幅2m、深さ40cmですが用途と作成時期は明らかではありません。



今回の成果としては北面回廊と何面回廊棟通り間が318.2mと言われていたのですが、今回の調査で実際は321.3mということが分かりました。
さらに朝堂院回廊は南北方向で0°32'ずれています。つまり321.3mで約3mずれていることになります。

参考までに藤原宮の大きさを考えるために以下の表を添付しておきます。そうすると一番大きいことが分かります。    

宮名 南北 東西
前期難波宮 262.5m 231.8m
藤原宮 321.3m 233.5m
平城宮中央区 285m 214m
平城宮東区 285.2m 177.0m
恭仁宮 125m
後期難波宮 178m 159.8m
長岡宮 158.9m 158.6m
平安宮 254m 193.5m





大極殿跡
朝堂院跡

以下は朝堂院跡から見た大和三山です。藤原宮からはこんな風に見えていたのです。

天香具山
耳成山
畝傍山



            ニュース目次    長岡京(15年4月26日へ)     平城宮大極殿院       トップ



SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO