恭仁宮跡U                         14年12月7日


恭仁宮は仙道のニュースには2度目の登場であるが前回で説明の足りなかった部分も補いながら、今回(14年12月7日)の現地説明会の解説をすることにします。

先ず恭仁京について
 奈良時代は710(和銅3)年元明天皇によって平城京に都が移ったことに始まりましたが、794年平安遷都まで平城京が都であったわけではない。
それから30年たった740(天平12)年12月15日、聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)の泉川(木津川)の河畔に新都建設を始めました。
翌741年正月には恭仁で朝賀の式が行われたとされています。
この地に何故、都が造られたかは不明ですが、主に以下の理由ではないかと云われています。
  1.たびたびの疫病の流行(藤原4兄弟の死亡等)から平城宮を離れる必要があった。
  2.740年9月3日光明皇后の甥である藤原広嗣が九州で挙兵した。
    これは聖武天皇のワンマンさで玄ムや吉備真備ら本来貴族でない人物を中央政界で
    重用し、貴族の間に不満が広がった。
  3.橘諸兄は京都府南部の井出に勢力を持っており、藤原4兄弟の死後、不比等の政策を
    覆し、不比等が造った平城京を捨て井出の隣に都を移そうとした。
等々が考えられています。

しかし、恭仁宮は744(天平16)年、わずか3年あまりで廃止されてしまいます。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになります。
さらに恭仁京があった期間内の742年紫香楽宮の造営が行われ聖武天皇は2つの宮を行ったり来たりしています。
「国分二寺(国分僧寺、国分尼寺)建立の詔」を出したのが恭仁宮、「大仏造立の詔」を出したのが紫香楽宮なのである。

京都府教育委員会が発掘調査を始めたのが昭和48年からですので今年で30年になります。
本日の説明で発掘調査できたのは恭仁宮全体のせいぜい10%程度ですから、全容解明はまだまだ先のことになりそうです。

恭仁宮は東西約560m、南北約750mの大きさで周りを大きな土塀(大垣)で囲ってありました。
今回の発掘の場所は前回に引き続き写真右上の内裏東地区の赤色部分です。
黒い部分は建物跡になります。


このように大極殿の北側に二つの内裏が存在するのは恭仁宮だけのものです。









昨年度の調査ではこの内裏東地区の概要がはっきりしていませんでしたが、今年度の調査ではこの内裏東地区の大きさを特定するのが目的出した。
そこで、今回の調査で分かったことを整理しますと
  1.内裏東地区の東側も西側・南側と同じく築地塀(ついじべい)で基壇構造も
    同じであった。


上の写真は左の写真の地中部分の基礎部分です。
下部の黒い部分が地面を掘り下げてその中で土を突き固めた堀込み地業です。
その上が土を盛り上げた基壇積み土なのですが、写真では分かりづらいですね。




  2.東側の築地塀の東側にも昨年発見された溝と同じく溝が発見されました。
左写真の下部は発掘された溝で上部はその断面です。
分かりにくいので仙道が断面の地質の違うところに白線を付けてみました。














  3.北側は前回までの調査で掘立柱塀(板塀)があることは分かっていましたがこれが
    東側の築地塀まで続いていた。
    しかし、築地塀がこの掘立柱塀のところまでか確認できていないため内裏東地区
    の北側の端は確認されていない。




掘立柱塀は左写真のようなものと考えられています。
柱の直径は20cmぐらいで左の写真の黒い部分の穴の大きさは120cmぐらいです。
上の写真はこの部分の水平断面と云うことになります。











右の写真は内裏東地区の南側の築地塀内側の地層断面です。
下の黒い部分が740年頃の地表でしょう。
その後何回(4回?)か土が盛られ?現在の地表は上部の草の生えているところです。
恭仁宮跡の辺りは現在緩やかな棚田になっており、このように地表から1mぐらいの深さに当時の地表があったり、既に削り取られて当時の地表が無いところもあります。
当時を解明することは難しいと思いますが考古学ファンにとってはロマンであり発掘が進んで全容が明らかになることを希望して止まないものであります。




さて、今回の現説に当たって新聞等には『恭仁京は、聖武天皇が奈良時代(740−744)に置いた都。天皇が住んでいた内裏が、東西2カ所に分かれていたのは恭仁京だけで、同文化財保護課は「内裏の構造や大きさの違いは、住んでいた人の権力差に由来すると推定される」としている。
恭仁宮跡調査専門委員長の中尾芳治・帝塚山学院大教授(考古学)は「東地区には、西より格が高い人物がいたと考えられ、聖武天皇が東に、先代の元正天皇が西にいた可能性が有力」と話している。』
というような記事が載っていました。
そうかも知れませんね。
というのは天皇は薨去する事により、次の天皇が決められるのが普通であり、聖武天皇は先々代の元明天皇の皇太子である。
当然に元明天皇の次は聖武天皇の筈であるが、実際には元正天皇(女帝)となった。これには藤原不比等の影がちらつく話があるが、今回は発掘ニュースなのでこれには触れないことにしておきます。
恭仁宮が出来上がったときには元正天皇は退位していましたが薨去した訳ではありません。
だから恭仁宮に先代の天皇の内裏を造ったとしても不思議ではないですね。
それでは次期天皇になるはずの安積親王の住まいというのはどうでしょう。
この考え方だって可能性はありますね。
安積親王は聖武天皇が桜井頓宮(かりみや)への移動中、脚気で恭仁宮に戻り、そして死んだとされています。
聖武天皇の謎の彷徨の間のことです。恭仁宮にありながら紫香楽宮を造った人ですから安積親王の住まいだって考えられないことはないでしょうか。




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