紫香楽宮
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 古代史の中でも難解なのはこの紫香楽宮にまつわる遷都もその一つでしょう。
平城京、恭仁京、難波京、紫香楽宮、平城京と5年間に4度も遷都が行われたのです。
この辺りを考察してから発掘説明会の内容を見ていただくと興味と古代へのロマンを感じていただけるのではないでしょうか。

 恭仁京への遷都は740(天平12)年の事です。
この頃の社会の様子はどんなっだったのでしょう。710年元明天皇の時平城京に遷都があって奈良時代が始まったのはよくご存じの通りです。
そして奈良の文化が花開いていったのでした。古事記や日本書紀が完成もしました。
政界では藤原不比等が絶大な力を持っていました。その不比等も720年63才で亡くなります。
もう一方の雄は長屋王でした。藤原氏とは対立関係にあったようです。その長屋王も729年謀反の企てありということで自殺に追いやられてしまったのです。

この企ては不比等の4人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)らでした。
長屋王亡き後、藤原氏の天下となり、不比等の子である光明子は聖武天皇の皇后となったのです。

聖武天皇と光明皇后は仏教をあつく尊び、仏教に鎮護国家の思いを寄せていたのでしょう。
疫病の流行と飢饉に襲われる中、737(天平9)年に釈迦三尊像の造営と大般若経の書写が命じられたのです。

折しも藤原氏にとっても重大な危機に見舞われたのである。つまり、前出の藤原4子が相次いで亡くなったのです。
代わって政権のトップに立ったのは橘諸兄であり、臣下で力を持ってきたのは吉備真備や玄ムである。
740年、前出の藤原宇合(うまかい)の子藤原広嗣が九州で挙兵した。朝廷での権力が藤原氏から橘氏に代わり、吉備真備や玄ムがもてはやされた事に対する不満からだったといわれています。
反乱は9月3日に始まり10月23日に広嗣が処刑され終息したのですが、ここで聖武天皇の不可解な行動が起きたのです。
この行動が広嗣の乱に密接な関係があると歴史書には書かれているが、仙道はそうは考えていません
確かに、不可解な行動のトリガーになっていることは十分考えられるのでそのことは否定はしません。

不可解な行動とは
740年10月下旬広嗣の乱の終息の情報が平城京に伝わっていないときに、何故か伊勢に行幸してしまったのです。
(んっ!敵前逃亡?いや、そうではない?)
聖武天皇は11月12日三重県の現在伊勢自動車道の一志嬉野インター辺りで広嗣処刑の報を聞いたのです。
伊勢に行くか、平城京に戻るかと思いきや桑名、大垣、関ヶ原、大津へと進んでいくのです。
そして、最後はなんと恭仁京遷都を決めて12月15日に恭仁京に入ってしまうのである。
恭仁京遷都については仙道のニュースコーナの恭仁宮跡Uで取り上げているように橘諸兄の影響が窺えるのです。

そして翌741年には恭仁京造営に力が注がれるのです。さらに国分二寺の造営の詔も発せられています。
一体どれぐらいの人が都や国分寺の建設に直接携わったのでしょうね。
742年も造営は続きます。
この年の8月、また離宮を造ることになりました。この離宮こそ今回仙道が訪れた紫香楽宮なのです。

聖武天皇は742年に2回、743年に2回行幸しています。
4回目の行幸は7月末から11月初めという長期滞在だったのです。この間の10月15日には大仏造顕の詔を出しています。19日には、寺地を開き、行基が弟子を率いて工事に駆けつけています。

聖武天皇の思い入れもただごとではない。
出費もかさみ、ついには恭仁京造営も12月にはストップせざるを得なくなってしまいました。

ところが、明けて744(天平16)年、都を難波京に移すという話がでてきます。
百官人と市人に対して都を恭仁・難波どちらがよいか聞いたところ、官人市人とも恭仁京が良いということであった。
にもかかわらず、閏1月聖武天皇は恭仁京から難波京に都を移してしまったのです。
ただ、分からないのはこの遷都が聖武天皇の意思なのか、取り巻きの貴族の意思なのか不明です。
多分後者と思うのですが、証拠はありません。
仙道が後者と考える理由としては翌月2月24日聖武天皇がまたまた紫香楽に行ってしまったという状況証拠からなんですが、これも移り気な天皇の我が儘と考えれば何ら反論出来ないのです。
ただ、聖武天皇が紫香楽に向かった翌々日の26日橘諸兄が難波宮を皇都とする勅を読み上げていること、大盾と槍が難波宮に立てられてしまったという事実をどう解釈すればよいのでしょう。

聖武天皇が移った紫香楽宮ではさらに都の建設は進んでいきます。そして大仏顕の詔を出して1年あまり経った11月13日には大仏の体骨柱を立てています。
続日本紀の11月13日の条に「甲賀寺に初めて盧舎那仏の像の体骨柱を建つ。天皇、親ら臨みて手らその縄を引きたまふ」と記載されています。
そして、11月17日に前の元正天皇(元正太上天皇)が難波宮から紫香楽宮に移りました。
元正太上天皇といえば仙道が恭仁宮跡Uで発表したように恭仁京の大極殿の内裏西地区に居た人物ではないでしょうか。
聖武天皇、元正太上天皇の二人がそろえば実質都は紫香楽ということになるでしょう。
そして、翌正月元旦(745年1月1日)大盾と槍が立てられ紫香楽は名実共に皇都となったのです。

ところがである。
745年5月5日聖武天皇は紫香楽を発ち、5月6日恭仁宮に立ち寄り5月11日に平城京に4年半ぶりに戻ってしまったのです。
そして再び都が平城京となったのである。
この5年の間だの聖武天皇の行動をどう解釈すればよいのだろう。



上の話で興味を持っていただけたでしょうか?
それでは平成14年12月14日15日の信楽町での発掘現地説明会の紹介を致します。
この日は2箇所で説明会がありました。
1つは滋賀県教育委員会による鍛冶屋敷遺跡であり、もう一つは信楽町教育委員会による宮町遺跡です。
知識として史蹟紫香楽宮跡というのも説明しておかなければなりません。
そうでないと初めて訪れた方には誤解が生じてしまうからです。
先ず史蹟紫香楽宮跡というのは紫香楽宮跡ではないのです。これも無理からぬ経過があるのですが、早急に名前を改めていただきたいものです。
ここは、甲賀寺跡だからです。結論付けるのはまだ早いといわれるかも知れませんがおそらく間違いがないでしょう。
そうなんです。ここに聖武天皇が造ろうとした大仏が建つ予定だったと仙道は考えています。
左の図を見て下さい。下手な絵で申し訳ないのですが、紫香楽の遺跡の位置関係を書いてみました。
宮町遺跡は西北東の三方は山でここが北の端に当たります。
後述しますが、建物跡、出土木簡等でここが紫香楽宮跡と見て間違いありません。
そうすると史蹟紫香楽宮跡は何なんだろう?
甲賀寺だったんですね。
多くの礎石が丘陵地に見えており、江戸時代から注目を集めており、大正時代に紫香楽宮跡として指定されてしまったため現在でもこの名の儘となっています。
「史蹟紫香楽宮跡」は紫香楽宮跡ではないということを覚えておきましょう。



鍛冶屋敷遺跡
今回は当日配布の説明文から抜粋してみることにしました。
 紫香楽宮の日本史上での位置づけについての論点は多岐にわたりますが、その中の大きな一つが、743(天平15)年の「大仏造顕の詔」です。
『続日本紀』によると紫香楽で発せられたこの詔には、国中の銅を尽くして仏像を作り、大きな山を削って仏殿を構えると宣言されています。
この詔の4日後には甲賀寺の造成が開始され、翌744(天平16)年には仏像の「体骨柱」が建てられたことを記しています。
つまり、「大仏造顕の詔」をうけて、甲賀寺の造営が開始され、巨大な金銅慮舎那仏の製作が開始されたとみることができるのです。紫香楽宮が仏都と呼ばれるゆえんであり、甲賀寺が紫香楽宮の象徴的存在であったといえるのです。しかし、聖武天皇は天平17年には紫香楽宮を放棄して平城宮に戻っており、甲賀寺での金銅慮舎那仏像の製作は頓挫し、東大寺において受け継がれることになりました。
 ただし、745(天平17)年5月に聖武天皇が紫香楽を去った後も甲賀寺の造営は続けられていたようです。
8世紀後半には近江国分寺になっていたとも考えられています。

●鍛冶屋敷遺跡の既往の調査
 鍛冶屋敷遺跡は、甲賀寺の東北方向約400mの丘陵縁辺部に位置します。
炉壁などが採集されており、江戸時代から甲賀寺に関わる鋳造工房であったことが想定されていました。
第2名神高速道路路線上で平成12年度に実施した試掘調査においても、奈良時代中頃の土器類と共に銅の溶解炉、銅の湯玉が出土しており、鋳造工房が存在したことが判明していました。








 銅の湯玉(スラグ)表面はガラス状に光っていました。


●鍛冶屋敷遺跡の発掘調査成果

 平成14年8月から約2000uを対象に実施した発掘調査においては、試掘調査の内容と同様の奈良時代中頃の鋳造工房の姿がより具体的に明らかになりました。
 現時点で検出している主な遺構は、溶解炉9基(既に破壊されているものの存在が推定できるものが5基)、鋳込み遺構11基、建物5棟です。
 遺構の前後関係から大きく3つの段階を経ていることがわかります。

 第1段階は、一辺1mの掘方に直径30cm程度の柱を据えた1×8間(4m×30m)以上の南北に細長い掘立柱建物が作られています。
柱掘方には遺物が混入していないことや、遺構の前後関係からみても鍛冶屋敷遺跡において最初に構築された遺構である可能性が高いものです。
この建物の果たした機能は、現時点では明らかではありませんが、次年度以降の調査成果をふまえて検討する必要があります。

 第2段階は、黄色土の盛り土によって第1段階の据立柱建物を埋め込んで、溶解炉と鋳込み遺構をセットにして配置するものです。
約7m間隔で直径1m弱の溶解炉と一辺1m以内の円形・方形・六角形の鋳込み遺構がセットとなって8基が50m以上にわたり、約15mの間隔をあけて東西2列に整然と配置されています。
なお、溶解炉の間には1×2間(2〜2.5m×2.4〜30m)の掘立柱建物が配置されています。この掘立柱建物には炭などが置かれていたようです。
この様に整然と鋳造関係の遺構が検出された事例は今までになく、注目されます。


 第3段階は、第2段階の鋳込み遺構を破壊しつつ、一辺4.4〜5.0mの大型の鋳込み遺構が設けられます。
南側は六角形の台座、北側が梵鐘を鋳造していたことが判明しました。
六角形の台座は、一辺約1.0m、内径は約2.0mです。梵鐘は、直径1.8mで、高さを推定すると2.7m程度のものとなります。奈良時代までの梵鐘の中では東大寺の梵鐘に次ぐ大きさです。
この梵鐘は甲賀寺鐘楼にかけられたものと想定できます。
また、中型(中子)が落下した状態で出土しており、他に類例がないことから注目されます。
なお、これらの遺構は、下部のみ鋳型で埋められていますが、1m以上にわたって自然に堆積していったことがわかります。
このことから、作業後に埋められることなく放置されていたことがわかり、鍛冶屋敷遺跡での鋳造作業の最終段階であったと考えられます。
梵鐘鋳造遺構の調査事例はこれまでにもありますが、その他の大型の鋳造品を製作した工房は現時点で類例が無く注目されます。
 年代を推定し得る資料は決して多くありませんが、出土する土器類は奈良時代中頃のものであり、搬入品が大半を占めることから紫香楽宮が機能していた時期(740〜760年台)にほぼ限定できます。


●調査成果のまとめ
 鍛冶屋敷遺跡は、甲賀寺において用いられる大型の銅製品を製作する官営工房であったことが明らかとなりました
この様な状況で生産を行っていることがわかる調査事例は今までになく、古代の鋳造技術や官営工房の具体的なあり方を考える上で非常に重要な知見を得たことになります。
また、巨大な慮舎那仏を安置すべく聖武天皇によって発願された甲賀寺の造営過程を知る貴重な手がかりを示すものです。
ただし、約2000uの調査区の中に大型の銅製品を製作する工房の一部のみの存在を明らかにしたに過ぎません。
寺院造営にあたっては、その他の金属工房や木工、漆工、瓦工など数多くの部門が存在していたことを考えると、甲賀寺造営工房そのものは更に広がっていたことが容易に推測できます。




宮町遺跡

ここが本当の紫香楽宮跡です。
朝堂院の建物跡が第29次、30次の調査で明らかになりました。



●建物T ・・・ 桁行9間(37.1m)×梁行4間(11.9m)
 30次調査の第2トレンチで東西3間×南北4間を確認した東西棟の建物で、昨年度の第2トレンチで確認した建物・の西半にあたります。
庇と梁行の柱間寸法は3m弱(10尺)、身舎(もや)の桁行寸法は4.5m弱(15尺)を測り、柱の線形は一辺約1.0m、柱の痕跡は直径約35cm弱あります。
この建物は、昨年の調査で推定したとおり東西脇殿の中軸線上に配置されていることから朝堂区画の主要な殿舎と判断できます。






●建物V ・・・ 桁行7間(24.9m)×梁行5間(14.9m)
 30次調査の第3トレンチ北東隅で検出した建物で、29次調査で建物の東半(桁行3間×梁間5間)を確認していることから、桁行7間(84尺)×梁間5間(50尺)の大きさを測る7間二面の東西棟の掘立柱建物と推定できます。
桁行寸法は3.56m(12尺)間隔、身舎の梁間寸法は2.48m(8.3尺強)、庇の梁間寸法は3.71m(12.5尺)を測り、柱の掘形は一辺約1.1m、柱の痕跡は直径約35cm弱あります。
この建物の注目すべき点は、桁行と梁間の柱間寸法が普通よりも長く、建物の奥行が15m近くあります。
これまでの紫香楽宮関連遺跡の調査でもこれだけ奥行の深い建物は見つかっていないことから、朝堂区画外の北方にも主要な殿舎があったことを示しています。
他の遺跡の類例から考えても、平城宮跡の聖武朝の内裏正殿(内裏U・V期)(7間×5間・東西27m×南北15m)や長屋王邸(I・U期)の正殿(7間×5間・東西23.4m×南北15m)、長岡宮跡の推定東院正殿(7間×5間・東西21m×南北18m)などに限られ、いずれもが当該建物の立地する区画の正殿であることからも注目されます。
また、建物位置が「朝堂」の中軸線よりも約23.2m(約78尺)西寄りに配置されていることから、朝堂区画建物と並存していたか、さらに検討する必要があります。

●塀T ・・・ 南北12間(35.64m)以上
 29次調査の第3トレンチ中央で検出した塀跡で、朝堂北塀の北側から柱列が伸びています。
柱間隔は3.0m弱(10尺)を測り、柱の掘形は一辺約1.0〜1.2mあります。
塀の方位は座標北から約3度西に傾き、朝堂北塀の朝堂中軸線よりも西へ4.88m(約16.5尺)のところへ位置します。(建物Vの南北軸で朝堂中軸線までの距離を測ると5.72m(約19尺))

●塀U ・・・ 南北3間(5.94m)以上
 30次調査の第3トレンチ西半で検出した塀跡で、朝堂北塀の北側から柱列が伸びています。 
柱間隔は3.27m(11尺)を測り、柱の掘形は一辺約1.0mあります。塀の方位は座標北から約4度西に傾き、朝堂北塀の朝堂中軸線よりも西へ44.64m(約150尺)のところへ位置します。


この他これまでに出土したものは土器類、木製品、種子類、木簡があります。
土器類は平城京で発掘されるものと同種類の他、畿内、東海、北陸のものが出ており、各地から集まっていたことが分かります。
木簡については4000点以上にも及びますので貴重な文も読まれています。
天保14年10月には「東海、東山、北陸三道の25カ国の今年の調庸等は、みな紫香楽宮にたてまつらしむ」というのが発見されています。
調庸というのは税金のことです。
本来、都に運ばれるものですが、東海、東山、北陸三道の分が紫香楽に運ばれていたということです。
その他荷札や伝票のたぐいも出土され、木簡の削り屑((再利用のため削る)も多く、官人の存在を伺い知ることができます。



聖武天皇がこれだけ短時間に都を遷都していったわけを考えてみよう。

紫香楽宮というのはどう考えても都としては平野部分が小さすぎる。
紫香楽に大仏を造顕しようとしたのは仏教による鎮護国家中心をこの地で実現しようとの思いがあった。
恭仁京建設中に紫香楽宮の建設を始めている。
難波京では聖武天皇が紫香楽に移動した2日後の744年2月26日に難波宮を皇都とする勅が出されている点。
これらから実は遷都ではなく皇都の機能的分散を図る意思があったのではないだろうか。
つまり複数の都が存在して互いに有機的に結びついた都、機能がそれぞれ違った都を造ろうとしていたと考えられないだろうか。
この考えが聖武天皇の脳裏に浮かんだのは中国唐の高宗が都を長安におき副都を洛陽にしたというようなこともヒントになっているのではないだろうか。
これも仙道独自の大胆な発想かも知れませんが否定もされないと思っています。


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