恭仁宮 発掘調査 現地説明会 
                                               13年11月24日                                                       14年12月7日の現説へ
●恭仁京とはなに?
 734(天平6)年1月17日、藤原武智麻呂が右大臣に任命され、737(天平9)年には飢饉と疫病の大流行、さらに武智麻呂以下藤原四子が相次いで没するという異常事態に陥った。
740(天平12)年9月3日、橘諸兄政権のとき藤原広嗣の乱が起こり、時の天皇、聖武天皇は大野東人を大将軍に任じこれに当たらせた。
この戦いのさなかというのに10月29日、急遽伊勢、関東(鈴鹿関・不破関以東)に行幸、これは都への内乱波及を恐逃げ出したというのが通例になっている。
12月15日、聖武天皇は山背国相楽郡の泉川(現木津川)の河畔の恭仁に至っています。翌741(天平13)年正月には恭仁で朝賀の式が行われたというから、既に何らかの建物ができあがっていたのでしょう。
遷都の理由は分からないのですが、この年難波に行幸したとき知識寺で大仏造立を誓ったということ、遷都の後すぐに国分寺建立の詔を発布していること等、仏教との関わり、特に大仏造立との関係は無視できないと考えています。(単純でしょうか)。
それともう一つ、恭仁京は井手(天平十四年に壮麗な別業{別宅、別荘のこと}をつくり自らも井手の里に住んだことから井手の左大臣と呼ばれる)の南東にあり、橘諸兄の勢力圏に都を移したいという思惑がはたらいたことは間違いないでしょう。
しかし、恭仁京が都であったのは744(天平16)年1月までの3年間だけだのです。この間に紫香楽宮を造ったり、難波宮に遷都したり、ついには平城京に戻たりいたのでした。


      (以下現地説明会資料の写しです。)
●これまでの調査でわかったこと
 京都府教育委員会では昭和48年から恭仁宮跡の調査を始め、大極殿や内裏、朝堂院など宮の主要施設の跡を確認し、宮の範囲も東西約560m・南北約750mであることが判明しました。また、宮の内部の構造もわかってきています。
 今年度は、昨年に引き続き大極殿の北側に広がる地区の、範囲内容の確認を目的として調査を実施しました。これまでの調査で、恭仁宮の大極殿北方域には東西に並ぶ2つの施設が存在することがわかってきました(現時点ではこれら2つの施設がなんであったのかはっきりと分かっていませんので、仮に「内裏東地区」 「内裏西地区」と呼んでいます)。
 昨年度は、このうち「内裏東地区」の区画施設の一部を確認し、以下の2点の成果がありました。
1.「内裏東地区」の区画の範囲が概ね想定できました。
  「内裏西地区」より少し広くなります。
   (東西約119m・南北約138m)
2.周囲を区画する施設が「内裏西地区」で見られるような
  掘立柱塀ではない可能性がでてきました。

これらを受けて、この2つの区画のうち「内裏東地区」の範囲と区画施設の構造を調べるために2か所の調査を設定し、調査を行いました。

●今回の調査で見つかったもの
 
第1調査地
 ここでは、「内裏東地区」の西辺区画塀の基壇部分が見つかりました。基壇は、東側が農業用水路によってすでに削られているため、その幅は確認できませんが、長さは南北に約4m分ほどが検出できました。また基壇の西側には南北方向の溝があり、区画施設の外側の水路と見られます。

 
第2調査地
 ここでは、「内裏東地区」の南辺区画塀の基壇部分が見つかりました。こちらでは、基壇が良好な状況で残っていました。基壇幅は約5mで、最もよく残っているところでは高さ約20Cmほどの積み土が確認できます。延長約8m分を検出しています。
 さらに基壇の下部では、基礎固めのための地盤改良(掘り込み地業)が行われていることもわかりました。幅約3.5mの範囲で深さ20Cm程度地面を掘りくぼめ、その中に土を締めながら入れて、軟弱な地盤を固めているものと見られます。
 基壇の南側(外側)にはここでも溝があり、基壇との間だが犬走り状になっていたものと見られます。

●まとめ
 「内裏東地区」の区画施設
・ 南および西辺は今回の調査により、築地塀(ついじべい)であることが明らかとなりました。
・ 東辺は調査では確認できていませんが、南・西辺同様築地塀の可能性が考えられます。また、北辺は過去の調査で掘立柱塀であることが確認されています。
・ このように「内裏東地区」は、正面と両サイドは築地塀で、背後は掘立柱塀で囲まれているものと考えられます。

「内裏西地区」と「内裏東地区」の違い
1. 規 模・・・・・●「西」(東西約98m・南北約128m)
          ◆「東」(東西約110m・南北約138m)
           →「東」の方がやや広い区画になりま
            す。

2.区画塀・・・・・●「西」掘立柱建物塀
          ◆「東」築地塀(北辺除く)
           
「東」の方が堅固な造り。外観にも
             違いがあります。

3. 区画内の構造・・・・まだ、調査が部分的であり、建物
              配置などを比較するには不明な
              部分が多いのですが、「東」では、
              区画内ほぼ中央に、南北に2棟の
              四面庇付建物が並んでいます。

 以上のように、今仮に「内裏東地区」と呼んでいる施設の外観が明らかになったことによって、「内裏西地区」との違いが浮き上がってきました。しかし、どちらの施設が聖武天皇の「内裏」なのか、また、どちらか一方が「内裏」なら、残る一方は何の施設だったのかなど、今後検討しなければならない課題も多く残されます。








































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         今城塚古墳1     清水谷遺跡 







今回の発掘調査は右上の「内裏東地区」の第1調査地区と
第2調査地区です。
説明者の左が基壇が残っている部分で説明者が立っているところが、ちょうど「内裏東地区の南西角に当たります。右下の四角い部分は「内裏」外側の建物の柱跡。
中央やや上の白線が築地塀の合ったと推測されるところ(南側)。ここかから北に西側の築地塀が伸びている。手前は塀の外側の建物の柱跡。
第1調査地区
第1調査地区
          第2調査地区
基壇
掘り込み地業
犬走り
溝のところの地層、土の違いがはっきりと現れている。
      (写真は東向きに撮影)
第2調査地区
           第2調査地区
上記地層部分を西向きに撮影。溝部分が写し出されている。
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