奈良市大安寺の瓦窯跡が井手町で出土      ニュース目次    トップ

2002年5月31日の読売新聞に『「南都四大寺」の筆頭寺院で、七一〇年の平城京造営に伴って建立された奈良・大安寺の創建当時(八世紀初頭)の瓦を焼いたとみられる窯跡が、井手町井手の石橋瓦窯(がよう)跡で見つかり、発掘していた町教委が三十日、発表した。
七四七年の財産目録「大安寺資財帳」に記された山背国相楽郡の荘園の「棚倉瓦屋(たなくらのかわらや)」とみられ、記録がある古代寺院の“瓦工房”が確認されたのは、全国で初めて。』
という記事が載っていました。
大安寺といえば聖徳太子が平群に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)がその草創といわれています。
飛鳥の藤原京で百済大寺、大官大寺となり奈良時代に現在の地に移り大安寺となりました。
現在、寺には大安寺様式といわれる奈良時代の木造十一面観音立像、木造四天王立像、木造不空羂索観音立像、木造楊柳観音立像〔いずれも重文〕など九体の天平仏が安置されています。
本堂は近年再建されたもので、かつての大寺を思わせるのは東西両塔跡のみとなってしまっている。

おや、宇治市の「隼上り」はどうなんだ?隼上りは7世紀前半だぞ!
よく読むと『古代寺院の“瓦工房”が確認されたのは、全国で初めて』の文章の前に『記録がある』という修飾が付いている。
これが全国で初めての正体なんだろう。
それはともかくとして早速取材に行ってきました。























どうやら発掘されている瓦窯は1基でこれしか見つかってないようです。
この辺りは段々畑のような水田になっており開墾されたときに瓦窯は潰されたものと思われます。
土の一部が焼けて赤く変色し、焚(た)き口と思われる部分は解りました。
私見ではありますが、最低でも5〜6基の瓦窯があったものと思っております。
瓦窯の側の灰原(かいばら)(焼き物などで失敗したものを捨てた場所)は50平方メートルの広さで見つかっており、12000点もの瓦破片が見つかっています。

またこんなことも記事には書かれています。『大安寺境内で見つかった創建当時の瓦と同じ蓮華(れんげ)文の軒丸瓦(直径十六センチ、長さ三十九センチ)や唐草文の軒平瓦(幅約三十センチ)計七枚を確認。同じ木型で作られ、粘土の質や焼き具合も一致し、創建瓦と判断した。』
ふんふん。だから大安寺の瓦はここで作られたのと分かる訳か。

でもね。大安寺の境内の中には前方後円墳である杉山古墳というのがあって前方の墳丘部分を利用した瓦窯が6基発見されてたんだよね。
両方の窯で焼いたんだろうか。

今回はちょっとマイナーな発掘で現地説明会もないようです。

ところがです。2002年8月29日の朝日新聞に『井手町教委は28日、平城京の大安寺の創建期(716年ごろ)の瓦を焼いた「石橋瓦窯跡」(奈良時代前半)で、新たに窯跡1基を確認、加茂町に聖武天皇が営んだ恭仁宮(740〜744年)の瓦も出土した、と発表した。失敗作の瓦などを捨てた灰原は範囲がさらに広がり、当時官営寺院の筆頭だった大安寺の資財帳にある「棚倉瓦屋」にふさわしい準官営の大規模な瓦工房だったとみている。
 春の調査地の西隣で600平方bを発掘。春に見つかった窯跡(1号窯)の西1・8mでもう1基窯跡(2号窯)を見つけた。2基はU字形の溝に囲まれていた。その西にも周溝があり、ここにも2基セットの窯があったと推定している。灰原は南北10m以上、東西30m以上に広がる。作業場の可能性のある柱穴を持つ遺構なども確認した。
 今回、出土した遺物は整理箱70箱にのぼる。大安寺創建期の軒瓦のほか、新たに恭仁宮の軒平瓦も見つかった。恭仁宮の瓦と同じ枠で作られた瓦は、有力貴族、橘氏の氏寺の井堤(手)寺や平城宮などに使われており、この地に別荘を営み、「井手の左大臣」と呼ばれた橘諸兄との関係が一層強まったという。
 9月1日午前10時から午後3時まで現地説明会を開く。

 加藤真二・文化庁記念物課文化財調査官の話 大安寺や恭仁宮などの瓦の供給先で、「大安寺資財帳」にある棚倉瓦屋の可能性が高く、注目している。遺構の保存状態もかなりよく、国の史跡指定の価値は十分ある。』

そうだろう。そうだろう。素人探検隊でも、この発見は十分に予想していたものなのだ。

読売新聞には
『「南都七大寺」の一つ、奈良・大安寺の創建当時(八世紀初頭)の瓦を焼いたとみられる窯跡一基が、京都府井手町井手の石橋瓦窯(がよう)跡で出土したと町教委が28日、発表した。5月の調査でも一基確認されており、町教委は「町南部の丘陵は奈良時代の一大瓦生産地だった可能性がある」としている。

 窯跡は幅1.4m、奥行き4.5m、高さ0.7m。前回確認された窯跡から西約2mで、平行に並んでいた。窯の両側面には、補強に使ったとみられる山積みにした瓦が残り、周りの土は焼けたような赤茶色になっていた。さらに周辺の灰原(ゴミ捨て場)からは前回の調査に続き、創建時の大安寺のものと同じ様式の瓦片など数千点も確認された。

 また窯跡そばにある周溝(排水路)からは、奈良時代半ばに一時、都が置かれた恭仁宮(加茂町)造営時に用いられたのと同じ様式の軒平瓦の破片三点も見つかった。

 しかし、前回調査分も含め二基の窯跡の灰原からは、恭仁宮様式の軒平瓦の破片は出土しておらず、町教委は「周溝から恭仁宮様式の瓦片が出土したのは、上の斜面から流れてきたもので、近くに恭仁宮様式の瓦を焼いた別の窯があると考えられる」と話している。』
という記事が出ています。



ここからは6月1日の仙道の記述に戻ります。

折角現地まで来たもので京都府綴喜郡井手町の説明をしておきます。
聖武天皇のもとで権勢を振るった「井手の左大臣」橘諸兄(684〜757)の本拠地で、聖武天皇の謎の彷徨といわれて造営となった恭仁宮からも近く、渡来人も多く住んでいたと言われています。
そして諸兄もこの地に別荘を構えていました。




それともう一つ、小野小町です。
小野小町伝説は日本中にあると言ってよいのですが、中でもこの地の話は有名です。








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