平安京冷泉院跡発掘調査
14年3月26日(火)平日ですが、休日出勤の振替で休みだったもので、京都市埋蔵文化研究所が開催した「平安京冷泉院跡・史跡旧二条離宮現地説明会」に行ってきました。
発掘調査は二条城築城四百年記念整備計画で障壁画収蔵庫などが建設されるのに伴い、12年11月から試掘調査が行われており、今回は2回目説明会です。
本題に入る前に予備知識をひとこと。
冷泉院とは
平安京を造った桓武天皇の皇子にあたる嵯峨天皇(在位809〜823)が平安宮の東隣に創建した離宮。北は大炊御門(おおいみかど)、南は二条、東は堀川、西は大宮通に囲まれた250m四方の敷地を持っていました。
嵯峨天皇は譲位後十数年をここで過ごしたほか、その後も歴代の上皇が居住しています。このように天皇ではなく上皇が住うところを「後院」といいます。
冷泉天皇
誤解しやすいのですが冷泉天皇は950生れ、1011年没です。生れる前に冷泉院は既にありました。
それともうひとつ、天皇の名前と思っているのは諡号のことで、例えば昭和天皇とか大正天皇というようなものです。
平安時代光孝天皇(830〜887)を最後に幕末まで天皇の名前はありませんでした。
天皇は退位して上皇になり、「○○院」と呼ばれるようになります。この○○は普通地名が当てられています。
平安以降、諡号が送られなくなると「○○院」が「○○天皇」と呼ばれることになりました。
さて、いよいよ本題です。
遺構 現在までの調査で、平安時代前期の汀線、平安時代中期〜後期にかけての池堆積土層、汀線、景石、などを検出しました。また鎌倉・南北朝・室町時代の池堆積土層、戦国時代の整地土層、柱穴、井戸、土壙、溝、桃山時代の溝、土壙、柱穴なども発見されています。
説明会のあった場所(1区)では庭園(池)跡を検出していました。
平安後期の池跡 平安後期の州浜
池の堆積土層の上に砂と河原礫を盛り上げ 河原礫が引かれているのが分る。
その陸部に景石が見える。 写真奥のパイプの下に池堆積土層が見える。
写真奥が平安時代前期の州浜の跡。
やはり礫が敷かれている。
平安前期の汀線位置
丸い穴は江戸時代の柱跡
江戸時代の井戸跡
平安時代の溝跡
北大手門近くの発掘現場(8区)
遺物
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