宇治市木幡西浦遺跡 現地説明会 2007.4.7 |
調査期間 2007.1.19〜4.22(予定) |
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遺跡について 西浦遺跡は、宇治市木幡西浦から内畑の旧巨椋(おぐら)池岸と奈良街道の間に広がる、古墳時代後期から室町時代にかけての集落遺跡です。 平成3年以降5回の発掘調査が行われ、古墳時代から室町時代の住居跡や墓などが発掘されています。遺跡の東側には、藤原氏の墓所である木幡古墳群(宇治陵)や関白藤原基房の別業松殿跡、藤原道長創建の浄妙寺跡、あるいは道長を中興本願とする能化院などがあり、藤原氏と縁の深いところでもあります。 |
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調査内容 今回、調査地は遺跡の北端にあたる場所で駐車場として利用されていました。 調査区は建築計画に合わせてコの字形に配置し、表土および旧茶畑耕土を重機で排除し発掘を進めました。遺跡は後世の撹乱も少なく、全体として良好な状況でした。 当日配布資料を使用 |
D調査区を西から撮影 右端に幅4m以上の東西を区画する大きな溝が確認できる。 左の図で時期別に説明することにします。 飛鳥時代 C・D調査区で確認できた一辺5m程の方形竪穴住居01〜03で、建物軸を西に振っています。 この時代、既に渡来人が日本に住み、朝廷の宮殿も建っており、木幡の近くの隼上りでは「豊浦寺」の瓦を焼いています。 また、この地の南には二子塚古墳も作られているには5m四方の竪穴住居とは、支配階級との生活レベルがかけ離れていたのでしょう。 |
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奈良時代 竪穴住居周辺で確認できる一辺50cm程の方形堀方を持つ掘立柱建物101〜103が奈良時代のものです。 101は総柱で倉庫の可能性があります。竪穴住居と同様に建物軸を西に振っています。飛鳥時代からの集落が継続しているもので掘立柱の建物に発展してきたものでしょう。 平安時代 平安時代後期の11世紀後半から13世紀の各種遺構が調査区全体で確認できました。 上の発掘遺構概要図下部の東西区画大溝、C調査区で確認された一辺3.5m、深さ5m(それ以上調査されていない)以上の大型の井戸01、各調査区で確認した30〜40cm程の円形堀方を持つ掘立柱建物01〜06が確認されました。 建物は今回の調査区の関係(今後この場所に建つマンションの基礎部のみ)で全容が分らない部分がありますが、掘立柱建物01のような庇を持つ大型建物や、03のような総柱、02、04のような間仕切りや庇を持つ建物など様々な形態があります。 建物軸はいずれもほぼ正方位となっています。 奈良街道沿いの広い区画地内に整然と建てられる様々な建物や井戸の立派さから考えて地域有力者の館が想定できます。 さて、11世紀前半といえば源氏物語が書かれた時代です。 特に、最後の「宇治十帖」では薫君・匂宮・中の君・浮舟がこの遺跡の東側の街道を行き来していたことになります。 藤原氏の菩提寺の浄妙寺や墓所である木幡古墳群もこの近くです。それなのに「宇治十帖」にはこの辺りの記述はありません。 また、「平家物語」巻第9の「宇治川の戦い」でも木曽義仲軍の仁科・高梨・山田勢五百余騎がここを通ったと思います。 平家物語にも登場しない木幡。何かミステリアスなものを感じるのは私だけでしょうか? 室町時代 C・D調査区で確認した区画溝とその中の中世墓A〜Cと区画溝や墓周辺からは五輪塔の一部や石仏が見つかりました。 街道沿いに墓地が構えられたのでしょう。 織豊〜江戸 調査地北部で確認した深い濠が掘られた跡が確認できました。 濠の幅は7m、深さは4mもあり深いものです。戦国時代ということから、この濠の目的は私見ながら防御を意図したものと考えられるのではないでしょうか。 濠内は東西50m、南北25m以上でさらに北へ続いています。 16世紀に掘られ、100年間ほど埋まりながら存続し、江戸中期に一気に埋め立てられました。 遺物から見て寺院ではなく居館と考えられます。城に匹敵する濠には戦国時代の威風が感じられますとのことでした。 これも今後の調査を待たねばならいでしょう。 |
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出土品 | ||
木簡、木球 |
平安時代の土器 (楽焼) |
江戸時代の硯 |
平安時代の器 どの器にも波型模様が施されている |
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石神遺跡第19次調査へ 宇治川護岸遺跡(太閤堤)
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