石神遺跡第19次調査
 以下は独立行政法人 文化財研究所 奈良文化財研究所の現地説明会資料をもとに
  ページを作成いたしました。                 今回の調査面積 約870u



           平成19年3月31日

 今年は暖冬で桜の開花が早いと言われながら、明日香は3月31日このような状況でした。
そんな中、石神遺跡の第19次調査の説明会が開催されました。

石神遺跡とは
 石神遺跡は蘇我馬子が建立した飛鳥寺の北西に隣接するように位置しています。ここには皇極・斉明天皇の時代、『日本書紀』には、まだ律令国家に組み込まれていなかった辺境の民(蝦夷や隼人など)や外国使節を招いて餐宴した施設がありました。
1902年に噴水施設の一部と考えられる須弥山石(しゅみせんせき)、石人像が掘り出されたところです。
『日本書紀』には飛鳥寺の西、あるいは甘樫丘の東の川上(かはら)に須弥山を作り、都貸羅(とから)、多彌嶋(たねしま)、隼人(はやと)、蝦夷(えみし)、粛慎(みしはせ)と呼ばれた律令国家周辺の人々を迎えて饗宴をしたとあり、石神遺跡をこの饗宴施設、現代風にいえば迎賓館としての役割を持つ施設とする考えが有力です。

 奈良文化財研究所では1981年以降継続的に発掘を行っており、7世紀代を通じて建物や広場・井戸・溝などが計画的に配置され、何度も作り替えが行われていた事を明らかにしてきました。
今回の調査では石神遺跡北側の空間利用の解明および、今年こそ発見されるであろうと期待が寄せられていた古代の幹線道路の一つ「安倍山田道」の検出を目的としています。




 これまでの調査では多数の掘立柱建物、石組の池や溝、石敷などが確認され、これらは大きく「7世紀前葉〜中葉」、「7世紀後葉:天武朝期」、「7世紀末〜8世紀初:藤原京期」に区分できます。
饗宴施設と考えられるのは「7世紀前葉〜中葉」にあたります。
以後、建物の配置が変化していくことから、施設の性格も異なっていったと考えられます。

 遺跡の中心施設は南北約180mの範囲で、南を飛鳥寺に隣接する東西塀(1・3・10次調査)、北を東西方向の石組溝と塀(13・14次調査)で区画しています。遺跡の北には古代の幹線通路である阿倍山田道(あべやまだみち)が東西方向に通ると想定されています。

 さて、この阿倍山田道、小野妹子に伴われて隋の使者である裴世清ら13名、75頭の馬が推古天皇に謁見するために海柘榴市から歩いてきた道。
推古天皇の宮である小墾田宮(おはりだのみや)に続く重要な道だったのです。
小墾田宮については、昭和45年には古宮遺跡のところと比定されたり、昭和62年には雷丘東方遺跡辺りとされました。
 左の図は今回(第19次)と前回(第18次)および第2次の調査の位置関係を示しています。
併せて第19次の時期別の遺構の説明図です。
第2次と第19次調査区の間には下の写真のような県道が通っています。

 今回検出した遺構は大きく5時期に分かれています。

T期
 調査区周辺は谷上の地形でした。調査区の東側が高く調査区西側に向って低くなっていました。低い部分は流路になっていたと考えられています。
この流路内には木材を利用した堰状の施設がありました。
この流路が年月をかけて数十cm堆積した後、谷状地形内に杭列で区画を作っています。
また、流路東側で南北方向の斜行溝が作られています。

       写真@  T期の流路。



写真A
一番下層がU期の南北溝1



写真C
V期の東西溝2



U期
巨大な南北溝1が掘られます。
この溝は、石神遺跡第15次調査区からずっと北側に続き、今回の調査区よりもさらに北へ続いていると考えられます。
非常に幅が広く、西岸は調査区の外にあるものと考えられます。
また、この南北溝1へと流れ込む東西溝1があります。





V期
U期の南北溝1を埋め立て、南北溝2・東西溝2が作られます。
東西溝2と南北溝2は調査区北東部でT字状に交わっています。







写真B
V期の南北溝2。(南北溝3のしたにあります)

写真E
左が東西溝4、右側が東西溝3


           写真D
W期の東西溝3と南北溝3の交わっているところ


W期
V期の溝を埋め立て、南北溝3・東西溝3・4が作られます。
この3条溝の関係は郵便マークの〒状になっています。
東西溝3・4の作られた時期の先後関係は分りませんが、このW期が藤原宮期にあたり、第2次調査の東西溝と期を同じにしています。
つまり、この3つの東西溝こそが安部山田道の両サイドの溝に関わっているのではないでしょうか。
 安倍山田道自体はこの時期よりも古くから存在したと考えられます。
藤原京の道幅は中心の南北道路である朱雀大路が17.7m(溝中間距離24.8m)、中ツ道はこれより大きく拡幅され25m、下ツ道は18m、横大路は35m、大路は14.2m、条間路・坊間路は7.1m、小路は5.3mです。

もし、第2次調査の東西溝と今回の東西溝4が一本の道の側溝であるとすれば21〜22mの道幅であり、時期も同じということで、これが安倍山田道であることは十分考えられます


3月29日の京都新聞夕刊には
『古代の国道「山田道」か
幅18メートル、遺構見つかる 。

 奈良県明日香村の石神遺跡で、古代の国道「山田道」とみられる7世紀後半−8世紀初めの道路遺構が見つかり、奈良文化財研究所が29日、発表した。

 道幅は最大で約18メートルとみられ、国内初の本格都城・藤原京(694−710年)のメーンストリートだった朱雀大路に匹敵する規模。7世紀後半は中国を手本に藤原京の造営が始まった時期で、当時の都市計画や政治情勢を考える資料になりそうだ。

 発掘されたのは、東西方向に走る道路の南側側溝。これまでの調査で北側側溝が確認されるなど山田道とみられる遺構はいくつか見つかっているが、道幅など規模が判明したのは初めて。

 日本書紀は613年、推古天皇が「大道」を整備したと記述。横大路など朝廷が維持管理した交通幹線の一つとして山田道もつくられたと考えられている。』

という記事が載っていました。

しかしながら、この道の南側の溝が2本あるのに対して、北側は1本であるということは、道を移動させてのか拡幅したのか、あるいは縮小したのかが解明されない。
これを解決するためには今回の発掘現場の北側を走る県道の下を発掘するしかないのでしょう。
X期
W期の溝の廃絶後、南北溝4がつくられます。
また、礫集中部が存在し、これらは昨年度の調査区から連続しています。


写真F
礫集中部


写真G


まとめ
 東西溝2・3・4は現県道付近に位置が想定される「安倍山田道」との関係が考えられます。
まず、V期は7世紀後半にあたり、この時期に大規模な整地を行い、南北溝1を埋め、新たに東西溝2を作っています。これは、安倍山田道の南側溝と考えることは妥当と思われますが、確たる証拠はなく、県道の北側の東西溝または県道下にあるかもしれない北側溝をもってしても、まだ安倍山田道と認めるわけにはいかない。
後は、道幅、東西の方向にどこまで続いているのかで判断すべきだろう。

 また、今回の調査により、谷状地形を埋め立てた後の数度にわたる空間利用の変遷を追うことが出来ました。古墳時代以降、飛鳥地域が宮殿や寺院を配する政治・文化の中枢として整備されていく過程を遺構の変遷から読み取ることができそうです。





出土遺物
 今回は木簡の出土は少なかったと言わざるを得ません。
遺物の大半は7世紀代の須恵器や土師器でした。その他に曲物(まげもの)・舟形木製品・琴柱(ことじ)・コマ・人形(ひとがた)・鉄鏃・刀子(とうす)・瓦・動物骨・種子などが出土しました。
また、南北溝4からは墨書のある檜扇(ひおうぎ)が出土しました。

       上長押釘卅隻 之中打合釘二 長七寸 五丈
  上部に切り込みのある荷札状の木簡です。
 「上長押(なげし)」とは柱と柱をつなぐ水平材のうち上部のもので釘によって柱に固定されています。
そうした上長押に用いる釘30本を進上するときに使用された木簡です。
裏面には切り込み部の左右を結ぶように地肌が薄くなっている箇所がみえ、これは紐が掛けられていた痕跡と考えられます。
おそらくは釘30本を紐で束ね、さらに木簡に括り付けていたのでしょう。
割り書きには、長押釘30本のうち、2本は「打合釘」(両端を尖らせた釘)で、長さが七寸(約21cm)のものと記されています。
下部の「五丈」とは約15mのことで上長押の長さと考えられます。

正月四日志紀未成
上端折れで右下部も欠損しています。
「志紀」は河内国や大和国などに知られる地名で、これらの地に由来する氏族と推測されます。「未」は「末」の可能性もあります。


檜扇
檜扇
左の写真は洗ったもの。
要の部分には木製の芯が通っていました。芯の太さは1mm程度で実用に耐えたか疑問を感じるものでした。

右の写真は掘り出されたときの状態。



掘り出されたときの檜扇





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