宇治「太閤堤」の遺構                     19年9月8日
                                                発掘機関    宇治市歴史資料館


 古代から近世に至るまでの土木工事の天才は豊臣秀吉であるといってよいだろう。
織田信長は美濃の斎藤龍興を攻略するための拠点となった墨俣(すのまた)城は一夜で造ったとされている事実や、高松城の水攻めも土木工事の結果だろう。応仁の乱で荒廃した京都の町を平安京以来の正方形町割を短冊形町割りに変更し、周囲に御土居を築いて立て直した。これほど地形と土木を巧みに利用した武将は他にいなかったのである。
秀吉は晩年近くになって桃山城を建て、その城下に全国の大名屋敷を配置して伏見の城下町を築いた。この伏見の南側には巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる巨大な沼地が存在していた。
秀吉は、この池に流入していた宇治川に堤を築いて伏見の町へ導き、河港として整備している。さらに木津川、桂川にも堤を築いて流路を固定させ洪水の被害を減らすことに成功した。
この堤の上に道路を築き、大坂街道や大和街道を通している。現在近鉄京都線はこの堤を利用して造られたものである。
これらの堤を「太閤堤」という。
 9月6日朝刊の読売新聞によると、
『豊臣秀吉が1594年(文禄3年)、伏見城を築城した際に宇治川に築いた総延長12キロの大堤防「太閤堤(たいこうづつみ)」の一部とみられる石積みの護岸跡が、京都府宇治市で見つかったと、同市歴史資料館が5日発表した。

 天下統一後の秀吉の絶頂期に諸大名らに命じた大土木工事で、同館は「太閤堤が広範囲に出土したのは初めて」としている。

 同館によると、護岸跡は長さ75メートル、幅5・5メートル、高低差が2・2メートル。積み上げた直径30〜50センチの粘板岩が流されないように直径約20センチの松くいで固定。斜面上部は、すき間なく石を張り付けている。』

となっていた。

勿論、読売新聞だけではなく、全国紙や北海道から九州までの地方紙にも同様の記事が載ったようだった。


 でも、ちょっと待てよ!左の写真を見ても分るように、
これは「堤」というよりは「護岸」というのが正しいだろう。
気になったので、「大辞林」で「堤」を調べてみると
『池・川などの水があふれ出ないように、岸に沿って土や石を高く盛ったもの。土手。堤防。』となっていた。


実際、太閤堤には盛土石垣もあり、護岸だけではないのであるが、今回発掘されたのは太閤堤の一部だろうということで、
「堤」というふうに表現されていることを付け加えておくことにします。

 新聞発表と同じように、護岸遺跡は南北75mで極めて保存状態がよく、江戸時代後期に洪水により埋没したものと考えられる。

護岸の規模は幅5.5m、高さ2.2mである。
積み上げた粘板岩は天ケ瀬ダム付近の粘板岩を利用しており、大きさは直径が30〜50cmで、秀吉が前田利家らに築かせたことが分っている槙島の太閤堤と同じである。

水につからない斜面上部(馬踏:ばふみ)は、すき間なく石を張り付けている。
これについて、市教委は「権力を示したいという秀吉の思いの表れでは」とみているとのことである。

護岸の構造は下図のように傾斜30度の法面の下端の径20cmの松杭を打ち、割石を盛り上げて水流に備えていた。




 太閤堤は1594(文禄3)年に左岸の「槙島堤(まきしまづつみ)」から工事を開始したとの記録はあるが右岸の記述はなく、現在まで存在は分からなかった。



 左の写真は川の流れに対して垂直に突き出して護岸を守る機能を持たせた「石出(いしだし)」である。
石積みの堅固なもので、下流の護岸に当たる水の勢いを弱める役割を果たすものであるが、実際、江戸時代の「宇治郷総絵図」にも宇治川に突き出している「石出」を確認することができる。


 上の写真は石出の上流側。激しい水流の為に石出が壊れているのを確認することができる。


左の写真は石出の下流側。石組みが当時のまま壊れずに残っている。



まとめ
 太閤堤は豊臣秀吉が伏見城築城に伴い、宇治川の流路を変更し、城下に物資を送りやすくするために、1594(文禄3)年から築堤し始めたものといわれている。
しかし、川や沼という動的な自然に対する構築物であるがゆえ、近世の人間生活と自然との狭間ゆえ、現代社会にその姿を殆ど残してはいない。
昭和54年の宇治川堤防の工事の際、左岸に埋没していた槇島堤が発見されたが、現在の河川堤防と重なり合っていることが多く、下の写真のように本格的な調査は行われなかった。
今回宇治川右岸についても、太閤堤の一部であると思われる護岸整備工事跡が発見されたことから、宇治橋から豊後橋(現、観月橋)までの約5kmにわたって同様の護岸が続いていたと考えられるのではないだろうか。
戦国時代から安土桃山時代にかけて各地で河川の流路を変えるような大規模な河川工事が行われたが、これほど大規模な工事はなかっただろう。
秀吉から命じられた前田利家らの大名が工区を分担して築いたと考えられるが、工法などはほとんど解明されていないため、当時の技術水準を知るうえで貴重な発見と言える。

 また、この発掘現場から1km程上流には、「秀吉が伏見城を築いた時、宇治川の水を城内に引くために地下水道を引かせた。その水の取水口にカモフラージュのための亀石を置いた」という伝説があり、これまた面白い話である。
さらには、この辺りは、私の推測では木曽義仲軍と源義経軍が争った場所で、「平家物語」に書かれている「宇治川の先陣争い」が演じられた場所であることも付け加えておきます。

最後に以下に巨椋池にまつわる堤の図を参考にしてください。

当日配布資料より転載   





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