甘樫丘東麓遺跡(146次)                平成19年2月11日
             by 独立行政法人 奈良文化財研究所

 12時から16時までの現地説明会であった。12時過ぎには天候上とくに問題はなかったが、
1時頃からは下の写真のように雨がパラついてきた。この日は何故か甘樫丘を中心に狭い範囲で雨が観測されたという。


 日本書紀第二十四巻にこんな記述がある。
『冬十一月、蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣、雙起家於甘檮岡。
 称大臣家曰上宮門。 入鹿家曰谷宮門(谷 此云波佐麻)。
称男女曰王子。 家外作城柵。 門傍作兵庫。 毎門置盛水舟一。 木鉤數十、以備火災。
恒使力人持兵守家。 大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。
更起家於畝傍山東。 穿池爲城。 起庫儲箭。 恒將五十兵士、繞身出入。
名健人曰東方從者。 氏氏人等入侍其門。 名曰祖子儒者。 漢直等全侍二門』

これじゃ読めないので仙道的に解釈すると
『皇極天皇三年(644年)冬十一月、蘇我大臣蝦夷(そがのおおおみえみし)・子入鹿臣(いるかのおみ)、甘樫岡に雙(なら)べ家を起(た)つ。大臣の家を称して上の宮門(うえのみかど)という。入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)という。
門の傍(ほとり)に兵庫(つわものぐら)を作る。門ごとに水を盛る舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて火の災いに備う。つねに力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。大臣、長直(ながのあたい)をしいて大丹穗山(おおにほのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らしむ。
更に家を畝傍山(うねびのやま)の東に起つ。 池を穿ちて城と爲し、庫を起てて箭(や)を儲(つ)む。恒に五十の兵士を將(い)て、身に繞(めぐら)して出入す。健人を名づけて東方從者(あづまのしとべ)と曰う。氏々の人等、其の門に入り侍る。名づけて祖子儒者(おやのこわらわ)と曰う。 漢直(あやのあたい)等、もっぱら二門に侍(はべ)る。

                  当日配布 資料より取り込み


 甘樫丘は、飛鳥川の左岸に広がる標高約150m、比高約50mの丘陵です。
丘陵の東側では、過去に小規模なものも含めて6回の発掘調査がおこなわれた。
特に1994年の発掘調査では、7世紀後葉から末にかけて大規模な土地の造成をおこなっていることや、7世紀中頃の焼土層が存在することがわかっており、2005年11月の発掘説明会では、7世紀の掘立柱建物5棟と塀1列が確認された。
これが上の『日本書紀』の記載の通り蘇我蝦夷・入鹿の邸宅ではないかと注目されている。

146次の調査は141次調査地と一部重なる形で甘樫丘の東側の麓(ふもと)から北西に入り込む谷地で行われた。



以下は独立行政法人奈良文化財研究所発表の資料をもとに記述いたしました。


「迫力ある敷地構えを見せている視覚的な効果も果たしていたと思われる」と説明ではあったが、これは感覚の問題で、私には丘陵地でこの程度のものなら極ありふれた大きさと思え、これに権力や富の集中の誇示を感じなかったのでしたが。

奈良新聞にも
『「大化の改新」(645年)のクーデターで滅ぼされた蘇我入鹿の邸宅跡とみられる明日香村川原の甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半の石垣が見つかり、奈良文化財研究所が1日、発表した。
大規模な整地が行われて多大な労力が投入したと推定されることから、当時最も権力を持っていた蘇我氏に関連した遺構の可能性が高い。日本書紀に記された入鹿の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」とする説が強まった。
 国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の造園に伴い、約920平方メートルを調査した。石垣は谷筋に沿って、南北方向に長さ約15メートル確認。直径20〜50センチの丸石が高さ50センチから1メートルに積み上げられ、南に行くにつれて高くなっていた。石垣の東側は一段高く土を盛って整地。石垣は傾斜地の法面の崩土を防ぐとともに、威信を示すための視覚的な効果も果たしていたと考えられる。』
と載っていました。

 遺構は大きく3時期に分れ、各時期ごとに土を盛って大規模な整地を行っていた。
鬼(7世紀前半)
 調査地区内の自然地形は南北方向に谷筋が入っている。この谷筋のほぼ中央に石垣を築いて東側に一段高く敷地を造成し、建物を建てています。
石垣は東側の敷地の法面を構造的に保護するとともに、迫力ある敷地構えを見せている視覚的な効果も果たしていたと思われる。  (下写真)




 何故、発表や新聞記事と違う見解かと言うと、例えばこの発掘現場の東側数百mにある同時期の飛鳥京苑池、亀型石の周りを取り囲む石物構造はこの石垣の何十倍ものスケールであるからで、皇極天皇の権力や資力の方が遥かに優っているからです。



挟(7世紀中頃〜後半)
 鬼の段差および石敷きを覆うように全面に盛土をし、中小規模の建物を建て、石敷・石組溝を造りました。
建物には数度の建て替えが認められた。総柱建物が2棟あり、これらは倉庫もしくは高床建物と思われる。

郡(藤原宮期)
 挟の整地土上の盛土をし、炉を作った。
 炉は鍛冶炉と考えられ、鞴(ふいご)も、右写真のように隣り合わせて検出されている。

           下側が炉部、上が鞴である。

 今回、建物跡は8棟発見されたがいずれも大きなものでなく、日本書紀に書かれていた兵庫(つわものぐら)や蘇我氏の建物と確認できるものは何一つ発見できなかった。


蘇我入鹿邸かというロマンは広がるものの、今後の更なる調査でこれらが明らかになってくることを期待したい。
出土物
 出土物としては7世紀代の土器が大半を占めた。
また、他所から混入したと思われる軒丸瓦・垂木先瓦(たるきさきがわら)、鴟尾(しび)片が出土している。
瓦であればもっと多く出土しなければならないし、鴟尾ならば、このような小さな建物には使われないだろうからであろう?

 藤原宮期の炉に関しては、ここで生産されたかもしれない関係品も出土していた。




まとめ
 今回の調査の結果、7世紀を通じての活発な土地利用が確認できた。特に、7世紀前半(鬼)の大規模な整地や石垣の存在は、敷地の造成に多大な労力が投入されたことを示している。
また、7世紀中頃(挟)には再び大規模な整地を行い、7世紀後半にかけて建物を建て替えながら継続的に使用している。
今回検出した鬼の遺構や挟のふるい段階の遺構が、蘇我氏の邸宅に関連する可能性も考えられるが、検出をした建物はいずれも小規模である。
また、以前出土した焼けた壁土に関する焼失建物も、今回の調査範囲では確認されなかった。
今後も継続して調査を行い、遺跡の全容を明らかにする必要があるだろう。



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