今城塚古墳第10次調査 平成19年3月4日 調査主体 高槻市教育委員会 調査面積 300u |
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毎年2月、3月の恒例のイベントになっている今城塚古墳の発掘現地説明会。 今年は近年にない暖冬で梅も盛りを過ぎて、暖かな日和の中で行われたことは、考古学ファン特に高齢者の方にとっても、説明会開催側の人にとっても「いい日」となりました。 さて、今回も毎回のように今城塚古墳の説明から始めましょう。 場所 : 大阪府高槻市郡家新町 築造 : 5世紀中頃〜6世紀前半 形状 : 前方後円墳 全長190m 高さ18mと推定されていたが・・・。 横穴式石室 被葬者: 継体天皇 ほか2名 継体天皇とは日本書紀では 男大迹尊(おおどのみこと)、古事記では哀本杼命(おほどのみこと)として異称が記述されている。 生年は不明であるが没年は継体天皇25年、日本書紀では82歳、古事記では42歳の時である。 在位期間は武烈天皇が死亡した武烈天皇8年以降で、継体天皇25年(531年)まで。 父は彦主人王(ひこうしのおおきみ 応神天皇5世の孫)で 母は振媛(ふるひめ:垂仁天皇7世の孫)。 皇后は手白香皇女(てしかひめみこ 仁賢天皇皇女・武烈の妹)となっている。 この天皇が奈良県櫻井市の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に入るまでに実は@樟葉宮(くずはのみや 大阪府枚方市楠葉)A筒城宮(つづきのみや 京都府京田辺市)B乙訓宮(おとくにのみや 大阪府三島郡)と3度も宮を替えている。 このあたりを、何故なのかもう少し探ってみよう。 戦前の皇国史観では、天皇は神武天皇以来今上天皇に至るまで万世一系であるとされていた。 しかし、「古事記」「日本書紀」の研究から日本古代史の見方が変わってきた。その研究成果を紹介しておこう。 『古代には血統を異にする三つの王朝が入れ替わって成立したという王朝交代説もその内の一つである。 実在した最初の天皇とされる崇神天皇からが古王朝(三輪王朝、イリ王朝)。 応神天皇からが中王朝(河内王朝、ワケ王朝)。 継体天皇からが新王朝と呼ばれ、考古学の時期区分である古墳時代の前期(4世紀)、中期(5世紀)、後期(6世紀)に重なっている。 「古事記」「日本書紀」には、応神天皇より続く血筋が第25代の武烈天皇の死で途絶えたとき、越前の国にいた応神天皇の5世の孫である継体天皇が即位したと記されているが、その間の系譜にはまったく触れられていない。 このような記述の仕方は異質であるとされる。 継体天皇が即位した場所は上述の通り「楠葉宮」で、それまで都が営まれてきた大和や河内から遠く離れている。 しかも継体が大和に入ったのは即位から20年後であることから、対立する勢力が大和にいたことをしめしている。 継体という諡号(しごう)は跡継ぎの意味だが、「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」の嗣の字には血縁関係のある継承の意味があっても、継の字にはそれがない。 つまり継体天応は前天皇と血のつながりがないこと、氏族を異にしているのではないかと推測できる。』 と考えられている。 しかし、異論も多く、今回分った3段築成は大和王権が誕生した奈良盆地東南部の巨大前方後円墳とも共通するもので、前期、中期からの連続性を示すことを取り上げ。前王朝を打倒して樹立された新王朝と言うのは無理があるかもしれない。 今城塚古墳については、これまで内堤から巫女や武人、大刀などの形象埴輪が元の配置のまま大量に出土しており、大王(天皇)の葬送儀礼や古墳祭祀を解明するうえで貴重な資料と評価されている。 宮内庁では今城塚古墳の西約1.5Kmにある太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定しているが、考古学上は「真の継体陵」とすることで学界の定説になっていることも確かなのだが。 |
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