島庄遺跡 第31次 石舞台古墳東側隣接地 18年3月11日
県立橿原考古学研究所 現地説明会資料を参考に作成しました。
日本書紀 推古34年5月の条
『飛鳥河の傍に家せり。 乃ち庭の中に小なる嶋を池の中に興く。 故、時の人、嶋大臣と日ふ』
この記述が蘇我馬子の邸宅が「明日香村島庄」付近であると推定される根拠となっています。
また、草壁皇子の「嶋宮」も同じ場所にあったと考えられています。
今回の説明会が行われた左写真の現場は、一昨年(下の写真)の発掘説明会のとき、位置や7世紀という時期が蘇我馬子の邸宅や嶋宮とも重なることから、蘇我馬子の邸宅跡ではないかと騒がれたところです。 この写真は16年3月13日の写真で、黄色の建物群が7世紀前半から後半に推定されることから、蘇我馬子や嶋宮との関連性が注目されているところです。 |
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今回の調査は多武峰(とうのみね)に向うバイパス道路の計画に先立ち、遺跡の有無確認調査だった。 棚田の中ということもあり、幅2m、長さ74mという細長い2つの調査区となっていました。 日本書紀 推古記には 『蘇我氏諸族等悉集 為嶋大臣造墓 而次于墓所』(628年) の記述が見えます。 『蘇我氏の一族がことごとく集まり、嶋大臣(蘇我馬子)の墓を造るため墓の近くに泊まった」 その宿泊施設【墓所の廬(いお 小屋のこと)】跡と思われる柱穴・柱列が石舞台古墳の東で検出されたのです。 読売新聞の記事には 『墓所の廬は、馬子を継いだ蝦夷や、馬子の弟の境部摩理勢(さかいべのまりせ)らが泊まり込んだところで、前庭には宮殿広場のように小石が敷き詰められた立派な建物だったようだ』 というふうに書かれていました。 第1調査区では大型柱穴が出土しています。写真→ |
第1調査区 |
柱穴の大きさは一辺1.8m、深さ1.8m、径30cmの柱痕跡がありました。 写真→ 底の方に丸い穴が見えていますが、これが30cmの柱穴です。 他にも7世紀前半の土器も出土しています。 日本書紀には推古天皇28(620)年、欽明天皇を葬った桧隈陵(ひのくまのみささぎ)の周囲に土を積み上げて山を造り、氏ごとに大柱を立てさせたという記述があり、同時期の馬子の墓も廬を作り、巨大な柱を建てていたのかもしれませんね。 (参考 欽明天皇桧隈陵) (参考 実際の欽明天皇陵と言われている見瀬丸山古墳) |
628年、推古天皇が亡くなると蘇我蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を次期天皇に推し、馬子の弟の境部摩理勢(さかいべのまりせ)が山背大兄王をそれぞれ推し、激しく対立しました。 そして日本書紀には 『爰摩理勢臣、壊墓所之廬、退蘇我田家、而不仕』 『摩理勢は墓所の廬を壊し、私有地に引きこもって出仕しなくなった』の記述があり、後に蝦夷側に殺害されたとなっています。 この後の蘇我蝦夷、入鹿親子の権勢の強さは天皇家をも凌ぐようになっていき、645年の大化改新で、入鹿は暗殺され、蝦夷も自害、蘇我氏本家は途絶えることになったのです。 |
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第2調査区 |
第2調査区でも大型柱穴が1基出土しました。 一辺1.6m、深さ1.5m、径30cmの柱の痕跡がありました。 調査区の幅が狭いため全体の大きさは不明ですが、少なくとも2列確認できます。 北側の柱穴列は、柱穴の大きさが一辺0.5m前後、柱間が 1.7m前後で、5間ぶん確認できています。 南側の柱穴列は柱穴の規模や柱間距離は北側の柱穴列と同じですが、2間ぶん確認されました。 しかし、北側と南側の柱穴列が同一の柵になるのか、別の建物になるのかは不明です。 また、北側の柱穴列に接して砂利敷きが出土しており、柱穴列との関係が濃いものと思われます。 また、砂利敷き部分より7世紀前半の土器が出土しています。 最南部に存在した溝 |
第2調査区の石積み |
南側柱穴列 |
北側柱穴列 |
北側柱穴列に接する砂利敷き |
今回出土した柱穴列の方向は、これまで島庄遺跡で知られる建物群の方向のいずれもとも異なり、石舞台古墳の主軸とほぼ一致しています。 出土土器が示す7世紀前半は、石舞台古墳の築成時期とも合致しています。 大型柱穴には高い柱が立てられていたと思われ、前述の通り桧隈陵の周囲に氏族ごとに大柱を建てたという日本書紀の記述を参考にすれば石舞台古墳に対して建てられた大柱の跡と想定することも可能でしょう。 まだ、これだけの発掘事実では何とも言えませんが、石舞台古墳と密接な関係のある遺構かも知れませんね。 以上、現地説明会資料を参考に作成しました。 |
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