石神遺跡第18次調査                    18年3月11日
    独立行政法人奈良文化財研究所 飛鳥藤原宮跡発掘調査部       以下は当日配布資料を中心に作成しました。



石神遺跡とは
 石神遺跡は蘇我馬子が建立した飛鳥寺の北西に位置します。皇極・斉明天皇の時代に、まだ律令国家に組み込まれていなかった辺境の民を招いて餐宴した施設がありました。
1902年に噴水施設の一部と考えられる須弥山石(しゅみせんせき)、石人像が掘り出されました。
『日本書紀』には飛鳥寺の西、あるいは甘樫丘の東の川上(かはら)に須弥山を作り、都貸羅(とから)、多彌嶋(たねしま)、隼人(はやと)、蝦夷(えみし)、粛慎(みしはせ)と呼ばれた律令国家周辺の人々を迎えて饗宴をしたとあり、石神遺跡をこの饗宴施設、現代風にいえば迎賓館としての役割を持つ施設とする考えが有力です。

 石神遺跡の調査は、1981年から続いています。
多数の掘立柱建物、石組の池や溝、石敷などが確認され、
これらは大きくA期(7世紀前葉〜中葉)、B期(7世紀後葉:天武朝期)、C期(7世紀末〜8世紀初:藤原京期)に区分できます。
饗宴施設と考えられるのはA期にあたります。以後、建物の配置が変化していくことから、施設の性格も異なっていったと考えられます。
 遺跡の中心施設は南北約180mの範囲で、南を飛鳥寺に隣接する東西塀(1・3・10次調査)、北を東西方向の石組溝と塀(13・14次調査)で区画しています。遺跡の北には古代の幹線通路である阿倍山田道(あべやまだみち)が東西方向に通ると想定されています。

 さて、この阿倍山田道、推古天皇の宮である小墾田宮(おはりだのみや)に続く道なのです。
小墾田宮については、昭和45年には古宮遺跡のところと比定されたり、昭和62年には雷丘東方遺跡辺りとされました。
この阿倍山田道が発見されれば小墾田宮も雷丘東方の何処かがハッキリするのではないかといわれています。

右図の青色の線が仙道の想像する阿倍山田道の推測線です。




                雷   丘






 今回は石神遺跡北側の状況、及び阿倍山田道の確認を目的に第16次調査の北方に調査区を設定しました。南の第15・16次調査では3本の南北溝が調査され、木簡等の多量の遺物が出土しました。

調査区周辺は7世紀以前には沼地でした。この沼地はA期に整地されたことが明らかになっています。

過去の調査でも確認されている南北溝2〜4は調査区を南北に縦断しており、出土遺物の年代からB〜C期に機能したことがわかります。また3本の溝に先行する遺構として、南北溝2の下層に南北溝1があります。この溝には岸の一部に石組や杭列といった護岸施設が残っていました。B期に機能したと考えます。

これらの南北溝を埋め戻した後に、礫敷および礫を詰めた東西溝1がつくられます。

想定されている阿倍山田道については、今回の調査においても確認できませんでした。

小野妹子に伴われて隋の使者である裴世清ら13名、75頭の馬が推古天皇に謁見するために海柘榴市から歩いてきた道なのに、発見には次回第19次調査を待たなければいけないようです。


左の図は斉明朝の時には庭園や泉水のあったところです。
庭園がいつ頃まで使われたのかは、はっきりしませんが、奈良時代までは維持されたことは確認されています。
出土遺物

 木簡、封緘(ふうかん)木簡、銅製・木製人形(ひとがた)、斎串(いぐし)、舟形・鳥形木製品、鏝(こて)、横櫛、下駄、漆器、琴柱(ことじ)、土器、墨書土器、瓦などが出土しました。
 木簡のうち、「観世音経」と書かれた木簡には「己卯(きぼう)年八月十七日」と年月日が記されています。己卯年(つちのとう)は679年(天武8年)にあたります。
日本列島内における観世音経の存在を記載した史料の中では、今のところ年代が明示されている最も古い例となります。
観世音経が観世音菩薩信仰の基本的な経典であることを考えると、アジア各地に広まった観音信仰が日本にどのように受け入れられたのかを考えるための貴重な史料になります。

 また、祭祀具、建築工具、生活用具、楽器といった多種多様な道具の出土によって、飛鳥の人々の彩りある生活をうかがい知ることができます。中でも鋼製や木製の人形、斎串、舟形・鳥形木製品は、天武朝以後活発におこなわれる祓(はらえ)などの祭祀行為にともなう遁具とみられ、この頃の祭祀の形成と発展を考える際の貴重な資料になります。



まとめ

 南北溝は更に北へ続くことが明らかとなりました。また、多種多様な遺物が出土しました。特に「観世音経」木簡や鋼製人形などの祭祀具には、宗教的な知識や行為の一端が認められます。これらの遺物がどこからどのようにもたらされ、ここに埋まるに至ったのかという点については、周辺の状況を更に明らかにする必要があり、阿倍山田道の確認を含め調査を進めていきたいと考えています。
木簡文字について(参考:現説資料)

『己卯年八月十七日白奉経』
『観世音経十巻記白也』

 長い文章でないから、前後関係から内容を判断することはできません。
しかし、別の木簡に見られた『原五十戸』の4文字などは、石神遺跡第15次・16次調査でも出土しており、『五十戸』は『里』の古い表記で、天武10(681)年以前に用いられたということである。
これに対して別の木簡にある『五戸』は『五保』のことで相互扶助・検察組織とみるようです。
さて、『己卯年八月十七日白奉経・・・・・』ですが
『己卯年』は天武8年(679)。   『白』は「申す」と解釈するらしい。  『奉』は「つかえまつる」「たてまつる」と解釈し、文字の切り場所のバリエーションからと以下のように3案が示されました。

@己卯年八月十七日に以下のことをご報告します。整えることを承りました経について、
 観世音経十巻を記したと申しております、とのことです。

A己卯年八月十七日、経に関する事柄をご報告申し上げます。
 観世音経十巻を(転写・書写したことを木簡に)記してご報告申し上げます。

B己卯年八月十七日にご報告いたします。
 観世音経十巻をお納めいたしましたことを(この木簡に)記し申し上げます。

どう解釈するかは結論を出すことができませんが、今後の調査や研究、発見で明らかになってくると楽しいですね。
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