飛鳥京跡第155次調査                    18年3月11日
(奈良県立橿原考古学研究所 飛鳥京跡第155次調査 内郭中枢の調査2005の現地説明会資料を参考に作成しました。)

 この写真は天武天皇、持統天皇の桧隈大内陵(ひのくまおおうちのみさぎ)です。
今回の発掘は天武天皇、持統天皇の飛鳥浄御原宮の発掘がメインですから、発掘説明会前に行ってきました。


第155次説明会資料から
予備知識
飛鳥時代までは大王(天皇)の即位の度に、宮城(宮殿)の位置が変わっていた。
その中で、飛鳥京は奈良県高市郡明日香村岡に位置する宮殿遺跡で、舒明・皇極・斉明・天智・天武・持統の5人6代の天皇の宮殿がほぼ同じ位置に置かれたところなのです。
そのためこの遺構は、通常3時期に分けて説明されます。
T期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630年〜)
U期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(いたぶき) (643年〜)
V期は斉明・天智天皇の後(のちの)飛鳥岡本宮(656年〜)と天武・持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはら)宮(672年〜)
に区分されています。
したがって、ここを発掘するときは、当時、掘り下げて工事をしていなければ、現れるのは上からV期、U期、T期と順次現れてくることになります。


 第155次調査の大きな発見は、第151次調査で発見された天武天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮」(672〜694年)の正殿とみられる飛鳥時代最大級の建物跡の北隣から、同規模の建物跡が新たに見つかった。
橿原考古学研究所はこの建物を「北の正殿」と呼び、天皇の私的空間だったと発表しています。

第155次は左図の赤い部分ですが、151次・153次はその南側の部分です。
現地に行ってすぐに気が付いたのは第151次のと同じだと言うことです。
ただ、明らかに違うところは下の写真を見ても分るように第151次は建物跡の南側に一面を覆う石敷きが発見されているが、今回は全くないことです。

第155次の説明会の写真(北側調査区)

第151次の説明会(16年3月13日)

                南側調査区
 この部分では上層部であるU期、V期の部分は削平されており、直接T期の建物跡が発掘された。




(*右上から)
 ただ、確かに第153次の調査の時の写真を見ると下写真のように北側の東西石組溝の北側に石敷きが見えている。
  
           第153次調査資料から
だから、南建物の北側には石敷きがあった。それが何処まであったかは不明だが、アスファルト道路の辺りまでだろう。

 さて、今回の第155次の調査ではこの石敷きが中世以降畑として使用されたため石敷きが削り取られたとの説明であった。
果たしてそうだろうか?

疑問点
 第151次調査の時のように整然と敷き詰められた石敷きが、今回第155次の建物跡の南側に、同様に敷き詰められていたとすれば、あまりにも綺麗に取り除かれすぎてはいないだろうか?
第151次の東西石組溝を見れば明らかなように、石敷きは溝上部に接して敷かれている。
第155次では石組溝の側壁は完全な状態で出土している。
石敷きが捲(めく)り取られたのであれば、石組の側壁の一部も取り除かれているところがあって当然だろう。
そしてまた、石組溝の内側(建物側)の石も大きく取り除かれていて当然であろう。
確認のために、下にもう一枚の写真を載せておきます。
東西石組溝は完璧に残っており、人影(左下部)部分に石敷きがあって、この部分の石だけが取り除かれたいうのは納得がいきませんね。(*左下へ)


18年3月8日の読売新聞には
 『日本書紀によると、浄御原宮には、天武天皇が親王・諸王を招いた「内安殿(うちのあんどの)」と、
  遊戯や饗宴を催した「大安殿(おおあんどの)」、諸臣が集まった「外安殿(とのあんどの)」があったと記され、
  橿原考古学研究所は、今回の建物を内安殿、南側を大安殿、塀を隔てて南側にあった建物を外安殿、
  区画外の「エビノコ大殿」を大極殿とみている。』

と報道されてました。

幢幡(とうばん)施設跡
 北調査区で検出されたものに、掘立柱建物1および2があります。建物1は東西4間(約12m)(151次検出の同規模建物かもしれない8間・24m)。南北4間(約12.2m)。
北と南に庇をもつ切妻建物と発表されました。

建物1の南西隅と北西隅には、幢幡(旗竿)施設があります。
建物1の西では、建物2が検出されました。
この建物は南北4間(約12.2m)、東西は1間以上です。
建物1と柱筋を揃えているのも第151次検出の建物と同じです。建物1と2は廊状建物でつながっています。

これらの特徴が151次と155次の両建物に共通していることから対になるように全く同じ構造をした建物群が南北に配列されていたとみて間違いはありません。
どちらも正殿と呼ぶべき性格を持った建物と考えますが、南のものは内郭という天皇の私的空間の中でも公的な建物、今回みつかった北の建物は、宮の中での性格が異なっていたものと推定されます。
 この辺りのところを毎日新聞では
『同研究所は、二つの正殿跡は、柱の並びがそろうことなどから、ともに斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656〜67)として同時期に建設され、天武・持統天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672〜94)で再利用された後、藤原宮遷都で廃絶したとみている。
中略
 また、南側の下層から、掘っ立て柱建物跡1棟(東西9m以上、南北9m以上)が見つかった。焼け跡があり、日本書紀に焼失の記録がある舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜36)の遺構とみられる。』


 毎日新聞の後半の記事については南の調査区(左写真)のことで、掘立柱建物を検出しています。T期の建物で正方位に対して20度前後振れています。
柱穴も大きく、柱の抜き取り穴には大量の焼土や炭が詰まっており、この建物は焼失したものと考えられます。


 イヤー、明日香の発掘は楽しいですね。
平成16年3月の時には整然と敷き詰められた石敷きに感動を覚えたものでした。
平成11年6月には今回の調査区の北西100mの位置で飛鳥時代の苑池遺構の説明がありました。
酒船石、亀型石そしてこの苑池の石造物(流水設備、噴水?)の関連も気になるところです。
皇極天皇の時代に一大土木工事、宮殿の建築が進み都としての体裁が整ってきたのでしょうか?
しかし、飛鳥京は狭かった。それ故、天武・持統天皇をして藤原京造都に走らせたのだろうか・・・・?


               平城宮朝集殿(18/3/4)         島庄遺跡第31次調査へ 


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