16年度井手寺跡(京都府綴喜郡井手町教育委員会調査)           17年2月6日




 京都府井手町では、現在、井手寺跡の範囲・内容確認のための発掘調査を実施しています。井手寺跡の発掘調査は平成15年度から4ヵ年計画で実施する予定で、2年目にあたる今年は約180uを発掘しました。(当日配布資料より)


本題に入る前に井手寺についてひとこと。
 『源平藤橘』という言葉がある。これは源氏、平氏、藤原、橘の4家だけが摂政関白を出すことができるということを意味する言葉です。
ついでながら、幕府を開いた征夷大将軍は源氏からしか出ないのはご存知でしょうか。
そのためこれらの4家とは関わりのなかった豊臣秀吉は藤原姓を徳川家康は源姓を一時期名乗っています。

今回、焦点となるのは『橘』姓です。
 敏達天皇と春日薬君娘の間の第一皇子が難波皇子。その孫の美努王(みののおおきみ)と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の間に葛城王が生まれまています。
この県犬養三千代は文武天皇の乳母でもあったのですが、夫の美努王が694(持統8)年、大宰帥に任ぜられ筑紫に行っている間に県犬養三千代は藤原不比等に奪われました。
                                (仙道も発掘に没頭していたらこんな事にならないか気を付けておこう。 作者 注)
そして生まれた子供が安宿媛(光明子 聖武天皇の皇后)だったのです。
つまり葛城王光明子は異父兄妹だったのです。
県犬養三千代は708(和銅元)年11月、元明天皇より橘宿禰の姓を賜わり県犬養橘宿禰三千代という長ったらしい名前になりますが、736(天平8)年葛城王は母の橘宿禰姓を継ぐことになり橘宿禰諸兄(橘諸兄 たちばなのもろえ)と改名しましたのです。
翌年、流行病で権勢をほしいままにしていた藤原不比等の子の藤原4兄弟が死ぬと橘諸兄は大納言に昇進、さらに翌年、右大臣に就任し、743(天平15)年、国政の最高位である左大臣に登りつめ、以後政界のトップに立ったのでした。
この時の天皇は聖武天皇で、聖武天皇といえば謎の遷都を行ったことは仙道のニュースで取り上げた恭仁京に記載したとおりです。
橘諸兄は平城京の北、山背国の井手というところに別業(別荘)を定め、自らもこの井手(玉井頓宮)に住むことにしました。
それ故、井手の左大臣と呼ばれていたのです。
この玉井頓宮には元正天皇(上皇)も行幸し
     橘の とのの橘 やつ代にも 吾は忘れじ この橘を
と歌を詠まれています。

その由緒ある『橘』からは曾孫に平安時代の三筆である橘逸勢(はやなり)、また逸勢の従妹の嘉智子は檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)となり、橘氏公は仁明天皇のもとで右大臣を務めましたが橘諸兄を頂点としてその後は衰微して行ったのでした。



発掘現場
 井手寺は橘諸兄が橘家の氏寺として建立した古代寺院です。創建当初、「井堤寺(いでじ)」でしたが、それが転化して井手寺となりました。
井手寺のあった辺りは、明治以降に開墾され、現在では、井手寺の建物跡がどこにあったのかわからなくなっています。
15年度の調査では壇上積基壇上で4つの礎石据付穴が検出されています。
今回はこの建物と関連があると考えられる石敷きが検出されたことが一番の成果でしょう。

             北側から見たところ                                 西側から見たところ
 この石敷きは西側が真っ直ぐになっており、見切り石とみてここが石敷きの西端であると説明されていました。
問題はこの石敷きが何なのかということですが、新聞では「建物に通じる道か、庭園の一部だった可能性がある」と報じられていました。
当日の説明では「建物に通じる道」説が有力な気がしました。上の右の写真からも上方向(東)に石敷きが延びているようでこの先にも建物が存在している可能性を持っているわけで、庭園の一部というのは如何なものでしょう?
石敷きは幅約2.3m、長さ約7mで、これらの石の大きさは直径30〜40cmで約210個が、所々は抜き取られていたものの敷き詰められていたことは間違いありません。
ただ、左の写真の右下部分は石が抜き取られてたどうかの確認はされていませんでした。

この石敷きの南側はせり上がっており(下の写真)、ここに建物があったのか、或いは水辺への張り出し部分とも考えられ、結論は以降の発掘調査を待たなければならないでしょう。


壇上の高み

石組みか?石積みか?
上左側の写真はせり上がり部分の南側。
上右側の写真はさらに、その南側。
下左の写真は上右の写真の南側部(右上部)です。
このありの石はどう見ても敷き詰められたものではありません。


タルキサキ瓦とはこのようなものをである。
花の文様を刻み3色の釉薬で着色した
飾り瓦のこと。               

実物の瓦はこのようなもの。






昨年出土したもの

土師皿

今年は17点のタルキサキ瓦が出土しました。
粘土板に線刻で花文をあらわし、さらに釉薬で彩色しています。
緑、白、褐(黄)色の釉薬が確認できます。
素地には非常に質のよい、きめ細かい粘土を用いています。
このように釉薬が施された瓦は、平城京の大寺などの出土例があります(大安寺、薬師寺、西大寺)。
なお、文様を線刻であらわし、釉薬で色を塗り分けたものは、井手寺のみです。




大量の軒丸瓦と軒平瓦


左右どちらの写真も沢山の丸瓦や平瓦があります。前述のタルキサキ瓦もここで発見されました。 
これは建物が壊れた時に瓦が積み重なったようにも思えますが、実は壊れた建物の瓦がここに捨てられたものと考えられます。
というのはこれだけの瓦があっても同一固体の瓦が少ないのです。上のタルキサキ瓦以外のものは単独で出土しています。
つまり別の場所にあったものがここに捨てられたということを意味しているのです。
この多くの瓦は恭仁宮跡で出土した文様と同じものも多くあります。
 写真では分かりにくいですが白っぽく写っている物の中には凝灰岩の加工した欠片が散見されました。  
これは寺の基壇の側面等に使われた物でしょう。橘氏の凋落と共に寺も全面的に廃絶したものと考えるのが妥当ではないでしょうか。

 写真の奥の平らな部分は小石で作られた石敷きです。
これだけでは全体の大きさが分からず、したがって用途も不明です。 今後の調査を待つしかないでしょう。
以下は発掘された瓦です。



今回の調査で分かった事(当日配布資料から引用しました)
今年度の調査では、昨年検出した壇上積の基壇を持ち、大きな礎石の据付穴で形成された建物に向うであろう石敷きを検出しました。
その規模は石の大きさ、幅から官寺に匹敵する伽藍規模である可能性が考えられます。しかしながら、石敷きを庭園遺構の一部とも考える事ができ、井手寺跡周辺にどのような建物や建造物が存在したのか、今後の調査への課題が提起されることとなりました。
出土した大量の瓦、鮮やかな色合いを残す線刻の三彩タルキサキ瓦の出土は、その建物の壮大華麗さを示し、この地に勢力を持った橘諸兄という人物の権勢の大きさを示すものと理解できます。
 今回の調査成果からは、井手寺が平城京の大寺に匹敵する寺院であったことが想像できる一方で、伽藍配置や寺域の確認に課題をのこすこととなりました。



付録:
 今回の調査地域から約100m南にある井堤寺の礎石


当日の受付風景




          名勝旧大乗院庭園へ        第381次平城宮東院発掘


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