名勝旧大乗院庭園発掘調査(第374次)      平成16年9月25日
  すべて奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部資料(365次、374次)をもとに作成




旧大乗院庭園について
 名勝旧大乗院庭園平城京左京四条七坊十三・十四坪、現在の奈良市御所馬場町に位置します。
大乗院は、一乗院とならび両門跡とよばれた興福寺の門跡寺院です。大乗院は1087(寛治元)年に興福寺の北方、現在の奈良県庁舎のあたりに開かれました。
時は平安時代末期、南都北嶺と呼ばれ僧兵が跋扈していた時代、平家が滅びの道をひた走っている1180(治承4)年12月、奈良東大寺、興福寺の堂塔伽藍から僧坊にいたるまで焼き尽くしたのは平重衡である。武士として戦いで殺し合いは仕方あるまい。しかし仏寺を焼き払うのは人にあるまじき行為だった。一ノ谷の合戦で敗れ源氏に捕われの身となったのち仏に帰依したという。
この南都焼き打ちによって大乗院も焼失し、翌年に元興寺の子院である禅定院がおかれていた現在の場所に再興されました。

 その後、1451(宝徳3)年には徳政一揆による火災で再び堂舎の大半を焼失し、翌年より尋尊大僧正の尽力によって、建物と庭園も復興されます。
このとき庭園の作庭を任されたのが室町時代を代表する庭師・善阿弥でした。善阿弥は室町時代を代表する作庭家で、足利義政に仕え、京都の東山慈照寺(銀閣寺)の庭園も彼の手によるものと言われています。室町時代に作庭された庭園の基本的な姿は江戸時代のはじめまで続いたと考えられており、その後は中世のコンセプトを基礎にしながらも、豊かな経済力を背景に庭園の改修が繰り返されました。そして明治時代初頭まで大乗院庭園は「南都随一の名園」と謳われました。
各時代の庭園の実態は、池の有無、形状、構造など、現在も不明な点が数多く残っています。

 明治に入ると、神仏分離・廃仏毀釈の流れの中で、大乗院も1868(明治元)年に廃絶となります。廃絶後すぐに御殿は個人宅に転用されますが、明治16年には御殿をすべて取り壊し、跡地に飛鳥小学校が建設されました。
また、明治20年頃には荒池の造成にともなって、大乗院跡北辺でも掘割をとおすなどの大規模な土木工事が行われたようです。飛鳥小学校は明治33年に現在の紀寺町に移転し、大乗院跡は荒地となりますが、明治38年には外国人用のホテル建設の話がもちあがります。そして明治42年、奈良ホテルが開業し、テニスコートなどが作られました。
昭和33年には国鉄の宿泊施設が建設されましたが、平成15年の名勝追加指定にともない撤去され、現在に至ります。



調査の経緯
 奈良文化財研究所では、旧大乗院庭園を管理する(財)日本ナショナルトラストの委嘱を受けて、国指定名勝旧大乗院庭園の復原整備にむけた資料を得るため、1995(平成7)年度から継続的な発掘調査を実施しています。
発掘調査は、本庭園の中心である東大池の岸辺にそって進め、1998(平成10)年度からは、東大池の西側を対象として、西小池跡地、ならびに御殿跡の調査を行っています。

 今回の調査(下図の青線部分)は、西小池(にしのこいけ)中央部が推定される地区(北区・約510u)と昨年度、江戸時代の岸の下層において平安時代とみられる遺構を部分的に確認した東大池西南部(南区・170u)で行っています。
北区は近代に埋め立て西小池の実態を解明することを目的とし、南区は前回検出した下層遺構の時期と範囲の確定を目的とします。
調査は7月26日より開始し、現在も継続中です。

              発掘調査全体図



調査の成果


                            この図では左が北です。


北区
 江戸時代に描かれた「大乗院四季真景図」では、東大池の西に変化に富んだ景観を持つ「西小池」が描かれています。
しかし、現在は埋め立てられ、入り江状の窪地を残すのみです。北区はこの「西小池」と西方の陸地部分の確認を目的にとしています。
今回の調査では複雑な汀線を持つ池と、池内の大小二つの島、岬などを検出されました。これらは「大乗院四季真景図」の他、「興福寺旧大乗院庭苑図」をあわせ検討すると、西小池中央部と、池の中央に位置する「ヲシマ」と称される島、「ヲシマ」の南西に位置する小島、その対岸の岬に相当する。
また、庭園の西側は、文献資料や絵図により各時代を通して御殿などの建物群が存在していたことが知られていますが、これらについては現在検討中とのことです。

 今回の説明はご覧のように平城宮跡発掘調査部
遺構調査室の文部科学技官 大林さまでした。
説明の経験は浅いもののしっかりとした口調で分かりやすい説明をしていただきました。
顔は分からないと思いますが美人ですよ。
     (発掘ニュースと関係ないか?)





東大池に対して西小池は思ったほど大きくなく小さいものでした。
写真上方向が北です。 東西岸間は15m、南北は調査区外へ続いています。
ヲシマ
 左の写真は中央にヲシマがあり「大乗院四季真景図」でいえば赤○部分です。
南北9m、東西5mの島で、今回の調査で全容が分かりました。半球状に地山を削り残し、さらに上に土を積み造成しています。池底からの高さは約0.4m。周囲に石を巡らし、一部に石が集中するとこが見られます。北および東岸では基底部に石や土を押さえるために長さ約1.7mの木材を多角形になるように並べ、杭ではさみこていしてありました。

石溜まり
ヲシマ南より手前に割り石が集中しているところが石溜まりです。この南端は近代のコンクリート基礎によって壊されています。
「大乗院四季真景図」ではヲシマ、小島、岬のそれぞれの間に「連リハシ」と書かれた石橋が描かれていますが、この橋の基礎部分という気がしました。
説明文には『「連リハシ」に相当する可能性もあります』となっています。

上の写真の左側です。

魚溜まり
 中央に凹んだところが見えますが、これは魚溜まりと説明がありました。
池の北部で、池底を深さ約0.3mに掘り窪めた遺構です。南北約4.5m、東西約3mの楕円形で周囲を22本の杭と竹の柵(しがらみ)で囲んでいます。
堆積度からは蓮の実や、その他の植物遺体を出土していますので、植裁地だったのでしょうか。
説明では池の清掃時や避暑・避寒の際の魚の溜まり場所と考えられますとなっていました。

それにしては小さすぎる、浅すぎるというのが私の考えなのですが。


西岸

 左の写真で色が薄くなっているところが西小池の西岸です。
この西岸は調査区の北部で西に入り込み、南部で東に回り込んで舌状の岬を形成しています。
池底は地山を削りこんで造成しており水深は岸と池底との関係で約0.2m以上と推定されています。
地山が礫層となる部分では、これを池底の礫敷きにみたてており、一部白玉石を敷いています。





近代の井戸
 内径約0.8mの石組の円形井戸。石組の上端から0.4mの位置で南に続く土管を組み込んでいます。
石組は更に深く続き、深さは不明です。
この井戸の約3m南にほぼ同規模の土坑を検出しています。周囲を石・瓦・漆喰で固め、中央に漆喰製の長辺0.7mの枡を据えています。
これら2つの遺構の関係は現在調査中です。




小島
写真右下の突起のようなものは「大乗院四季真景図」の青○の小島です。
小島は南北約2m、高さ0.3mで、東半は近代のコンクリート基礎によって壊されていました。「ヲシマ」と異なり、粘土質の盛土によって造成されており、2つの島は造成時期が異なる可能性があります。島の周囲は護岸の石を据えています。


現場で説明をする遺構調査室の文部科学技官様




南区
東大池の西南隅部で上の発掘調査全体図では左下部の青線で囲まれたところです。
2003年度、近世の遺構面確認後、下層で礫敷きと見られる状況を確認されており、今回その礫敷き部分を再度確認のため調査する事になりました。
 見学者の立っているところから10cmほど下の面が江戸時代の地表面です。
その下1.6mぐらいのところに明らかな礫敷きが確認されます。
石の大きさ約30cmの石組でこの上の面より上では江戸時代の遺物が出土するのに対して、下層では確認されていません。
このことから江戸時代に盛土がなされたと考えるのが妥当でしょう。

説明では江戸時代の岸ということでした。
茶褐色の積土で形成した東大池西南隅の陸部です。現在の東大池の岸辺にくらべ直線的な平面形をしていて、『大乗院殿境内図』に描かれた状況とよく一致しています。

庭園全体を見渡せる建物でも建っていたのでしょうか?


下層の写真です。
3〜5cm程度の小石と、拳大ほどの石からなる礫敷きが確認されます。
礫敷きには12世紀前半の土器が含まれており、大乗院移転以前の池底の礫敷きと考えられます。

というのは冒頭でも述べたように、この地はもと元興寺の禅定院(1058)でしたが、南都焼き討ちにより大乗院が移転してきています。
これが1181年。徳政一揆により消失したのが1451年。
善阿弥作庭を始めたのが1463年
12世紀前半の土器といえば禅定院の頃。
この時、既に庭園が存在していたのでしょうね。


明治以降の大乗院庭園の変遷は
明治1〜5年    神仏分離・廃仏毀釈の流れの中大乗院は廃絶、御殿は個人宅となる
            この頃、園内の多く建物が取り壊し、または売却される。
明治7年      建物の一部を学舎(更新舎・のちに鵲小学校と改称)とする
明治16年     建物の跡地に、飛鳥小学校が開校
明治20年     率川をせき止めて朝香山の北に荒地を造成、大乗院阯の北辺に掘割をとおし、排水路とする
明治33年     飛鳥小学校移転
明治38年     外国人用ホテル建設が決定(奈良市・都ホテル・関西鉄道の三者の間でホテル建設の覚書をかわす)
明治42年     奈良ホテル開業  以後、昭和30年までならホテルの敷地として利用される
昭和33年     国鉄の保養宿泊施設が建設      旧大乗院庭園、国指定名勝に指定される
平成15年     名勝の追加指定を受け、保養宿泊施設が撤去される



出土遺物 

飛鳥小学校の頃の遺物と思われる
石筆、石盤、硯、一銭銅貨

明治以降のレンガ

江戸時代の陶器

沢山墨書されています
練習に使用されたのでしょうか?

江戸期のキセルと刀子
上部は寛永通宝


遺物の周りは考古学ファンでしょうか
多くの人が取り囲んでいました

発掘された瓦
右下の軒丸瓦は室町時代以前の瓦です。特徴は巴文の頭部が離れていることと外側の珠文が荒いことです。
鎌倉期の同様の瓦では巴文の頭部が引っ付いていて外側の珠文が細かいのが特徴です。
ついでながら、蓮弁模様は飛鳥期から平安時代までです。花びらの多い方が後期になります。
江戸時代になれば家紋瓦が出てきます。






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