仙道のトライアル           15年10月10日


月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
仙道もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、
やゝ
夏も過ぎ、秋立る鱗雲の空に安宅の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて、取もの手につかず。
ももひきの破をつづり、
自転車のサドルを付かえて、三里に灸すうるより、比叡の月先心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、面八句を庵の柱に懸置。


まじ、こんな芭蕉のような心境で年々衰え行く体力を気にし、老体に鞭打って気力を振り立たせ今回の挑戦となりました。
もともと一度はやってみたいとは思っていたのですが、実際、具体的にこの計画を思い立ったのは今年の4月、とある仏教関係者のMさんとご一緒したときでした。
なんと彼は12年7月17日に琵琶湖1周サイクリングを完遂していたのでした。

仙道の心はグラグラと揺れ動かされました。  「う〜ん、先を越されたか、やるぞ!」 このとき仙道の胸にメロメロと燃え上がる炎を感じたのでした。

このときいっしょに飲んでいたのが我が「歴遊会」メンバーの桃吉さん(後程登場)でした。
多分、桃吉さんもこのとき燃え上がったのでしょうね。

早速4月29日、体力と時間感覚を見るために宇治から奈良薬師寺まで試走を行いました。距離は70km弱でしょうか。でも弱気だったのでしょうね、このときのページを見ると琵琶湖1周は2泊3日と記述してありました。(^。^)

連休もないまま時が過ぎて真夏になってしまいました。30℃を超える炎天下の中琵琶湖1周の実現なんて不可能だろう。
ところが8月13日夏休みの連休中、あせる思いを押さえきれず第2回目のトライアル。このときは3時間程度、湖東からとりあえず琵琶湖大橋まで走ってみようと出かけました。夏休み中だから調子よければそのまま一気に琵琶湖一周でもやってみようかという気持ちもありました。
走っているうちにいろいろ考えるものですね、明日は木曜日、そうなんです働いている家内の休みの日なんです。
そんな日に自分の夢だけを追って愛する家内をないがしろにするなんてできっこありません。
秋まで待とう、18℃まで待とう、自分では「勇気ある撤退」などと気取って琵琶湖大橋から引返してきました。(何が勇気ある撤退やねん このやろう!)

そうこうしている内にお盆も過ぎ、急に肌寒く感じる日が何度か訪れてきました。(今年は異常気象で冷夏だった)
待ちに待った秋の足音を感じるのです。
「機は熟せり」そう思っていたときでした。
中年男達はなにすんねん! なんと桃吉さんが仙道に先立ち琵琶湖1周、歩きの旅を始めたのです。
瀬田の唐橋を出発点にして反時計回りに歩き出したのです。休みの日にJRとバスを使い最寄の駅から歩いているのです。先を越された!(嫉妬、嫉妬、醜い嫉妬)

もう一刻の猶予もない。10月11日からは「体育の日」を含めて3連休。このチャンスを逃すわけには行かない。ここでやらなきゃ男じゃない。

ところが、ところがである。12日は以前から奈良県の葛城山のテッペンで酒を飲もうという会に出席の予定。 どうしよう!どうしよう!
結論は簡単だった。10月10日を休みにしてしまえ!ということだ。

桃吉さんは既に瀬田の唐橋から50kmの新海浜まで歩いているのだ。次回は10月11日新海浜から長浜まで歩くらしい。10月8日行きつけの居酒屋「太閤記」で桃吉さんと一杯やりながら、さらなる焦りと夢の実現に向けて、
そしてまたお互い「あほなオヤジ」と自覚(^。^)しながら11日びわ湖畔で遇う事を約して別れたのだった。

10月10日会社を休んでついに男のロマンを求めてびわこ1周の旅に出発したのだ。

起床は4時30分、気が昂ぶっていたのか真夜中というのに自然と目が覚めてしまった。
この頃は6時を過ぎないと明るくならないから当然真っ暗、家内や子供達を起さないようにそっと寝床を離れて1階に降りてきた。
もう一度リックの中の荷物を確認。忘れ物はなし。
腹ごしらえを済まし、新聞に目を通して6時15分明るくなりだした宇治の町を出発したのだった。

見送ってくれたのは寝ぼけまなこの愛犬ペロだけだった。
「このオッサンどこに行くんだろう?」って感じだった。

左の写真は天瀬ダムのダム湖で何故か一筋の線が見えていた。

宇治の市内からダム湖に至る道が昇り道で一気に80mぐらい登らなくてはいけないし、ここが一番の難所かな?なんて気楽に考えていたけれど、実はさにあらずもっと登らなければいけないところがあったのだ。
天瀬ダムの上まで来れば大津までほぼ平坦な道ではあるけれど、ダム湖沿い独特のぐねぐねした道は長いものです。
それをゆったりした気分で走っていると、あの縦じま模様のヘルメットに足回り60cmはあろうかという、如何にも自転車乗りという感じのお兄ちゃんが「おはよう」といって抜かしていくではないか。
速い! 負けてはならじとその後を全速力で追っかけたのだったが、追いつくどころか徐々に離されていってしまったのだった。
ヤツは日帰りで琵琶湖1周する気なのか?」

7時30分南郷洗堰が見えてきた。参考までに写真を2枚載せておきます。左は8月13日今日のためにトレーニングと実体験をかねて琵琶湖大橋までサイクリングに出かけたときの洗堰です。雨がよく降ったので放流していたのでしょう。右の本日の写真と全然水位が違うでしょ。

南郷洗堰


右の写真の真ん中左の白いものは釣り人です。



ここを過ぎて瀬田の唐橋を通過する頃には車の往来が激しくなってきた。いっけねェー。通勤ラッシュだ。道幅もそんなには広くない。信号で止まっている車も追い越せない。
平均時速5km/hぐらいかな?予定より遅れるな。 浜大津の近くで琵琶湖沿いの道に入ると車の通りはなくなった。そして右手には遊覧船が見えてきた。

浜大津港である。
8時になったので休憩もかねて港の中を散策してみる。
写真を撮っていると朝の散歩の人が珍しいものでも見るように私を遠くから眺めていた。


犬だけが人なつっこい目をして寄ってきた。
「君にあげるものはないよ、飼い主さんが見ているから」



筋肉の疲れ具合を見てみるとさほどでもないか。喉も潤し再び自転車に。
港から10分ほど北上したところに唐崎神社というのがあった。なんとこの神社は持統天皇の時代に建立したもので由緒あるものらしい。
この神社の境内に近江八景のひとつである唐崎の松がある。












辛崎の松は花より朧にて  松尾芭蕉

ささなみの志賀の唐崎さきくあれど大宮人の舟待ちかねつ  柿本人麻呂

八隅しし吾が大王の大御船待ちか恋ひなむ志賀の辛埼  舎人吉年

氷りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く  大江匡房

夜もすがら浦こぐ舟は跡もなし月ぞのこれる志賀の辛崎  丹後

唐崎神社では毎年7月28日と29日に「夏越の祓(なごしのはらえ)」の「御手洗祭」があり罪や穢れを払う「茅の輪」をくぐりの神事が行われる。

水分補給をして再び自転車に。
軽快に北に向かうと5分程で明智光秀の造った坂本城の址があった。光秀の石像や説明文があり、光秀に対する滋賀県民の思い入れを感じました。

まだまだ疲れてないぞ。しかし気温は既に22度。体は汗でべっとりとなってきた。坂本城址を後にして更に北へ向かいました。
このあたりの道は国道161号線で車や大型車がビュンビュンと通過して怖いところでした。当然にサイクリングが出来るような側道はありません。
気温22度というのはそんなに暑いわけではないですが涼しいはずがありません。
仏教関係者のMさんは7月17日というから30度以上の暑い日だったんだろう。それを思うと今日は楽な日なのだ。
20分ほどで浮御堂の道路標識が見えてきました。ここも近江八景のひとつ寄らねばなるまい。

浮御堂

朝なので逆光で巧く写真が撮れませんでした。

「堅田の落雁(らくがん)」として知られる景勝地で正式には海門山満月寺という。
長徳年間(995-999)に恵心僧都源信が、湖上の安全を願い千体の阿弥陀様をおさめたのが始まりとされている。


鎖明けて 月さし入れよ 浮御堂   芭蕉

比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋  芭蕉

浮御堂に着いたのが9時ごろだった。ここは堅田というところで古い町並みが今も残っていました。街道沿いの町であり漁村でもあったのでしょう、郷愁を誘ういい雰囲気が残っていました。
この町を見てやろう。
本福寺・伊豆神社・光徳寺を回って看板の地図を見ると「勾当内侍の墓」なる文字が目に入った。少し前まで仙道は勾当という言葉を知らなかった。
お付き合いいただいている箏曲生田流正派大師範『雅号・麻井雅仁紫(あさい まさとし)』様にお教えいただいた歴史の話の中に「当道職屋敷」というのがありました。
「当道職屋敷」とは中世のころ目の不自由な人たちの職能集団です。
当初は琵琶法師が中心でしたが、近世には筝曲・三弦・鍼灸・按摩・金融業なども行っていたそうです。
当道職屋敷の制度には大きく分けて検校・別当・勾当・座頭の4階級があったそうです。
音楽に疎い私は「すわ、勾当だ!大発見をしたような気持ちになり早速向かうことにしました。ところがもっと地図を頭に入れておけばよかった。なかなか見つからないのです。

出島の灯台

この堅田という所は琵琶湖の最狭部に位置し、明治8年に建てられた他に類を見ない木造の灯台です。
4本の柱の中心に支柱が立っている形式で大正7年まで光源にランプが使用されていました。
現在は当然のことながら電球となっています。
高さは7.8mです。
野神神社
(勾当内侍の墓)

勾当内侍は後醍醐天皇に仕えていましたが、美人で箏も巧かった。
南北朝時代の武将新田義貞はその妙なるが故、勾当内侍に惚れ込んでしまったのです。
後醍醐天皇に許しを得て夫婦となったのですが、義貞は、足利尊氏に敗れ、越前に逃れる途中、勾当内侍をこの地に残していったのでした。
義貞は、2年後藤島で戦死してしまうのですが、そのことを伝え聞いた内侍は、悲しみのあまり琴が浜に身を投げたのだそうです。
内侍の死を哀れに思った地元の人たちは、内侍をまつる石積みの塚を築き、その霊を慰めてきたのがこの神社と祠の後ろにあるお墓なのでした。

堅田だけで1時間ウロウロしたことになった。次は小野だ。
小野と言う地名だけでは何も気付かないでしょうけど、小野こそは小野妹子、小野篁、小野道風、小野小町を輩出したところなのだ。
しかも妹子の墓があるという。
ん?小野妹子の墓って大阪府太子町の推古天皇陵の近くではなかったっけ? まっ古代の有名な人の墓は全国いたるところにあるから仕方ないか。
取り敢えずは行ってみよう。
ところがなんだこれは、結構登らなくではならないじゃないか。ヒィーヒィー・フゥーフゥー、なんでやねん、琵琶湖1周のサイクリングの寄り道にしてはしんどすぎるぞ。
オリャー!

小野妹子神社

鳥居は2ヶ月前に出来た新品?だった。

この後ろに右の石棺があった。



唐臼山古墳ですが小野妹子の墓といわれている。
この古墳は西側の封土が流出して箱形石棺が露出しているものだった。





小野篁神社

小野小町の伯父さんで

和田原
八十島かけて
漕ぎ出ぬと
人には告げよ
あまの釣り舟
と詠んだ歌は有名
小野道風神社

柳に蛙が何度も跳びつこうとしているのを見て、人間努力が肝心と書に励んだという話は教訓として語られている。

小野篁の孫で三蹟の一人。


小野妹子神社から住宅街の道に出てきて地図を見ていると犬を散歩させている若妻に会った。 唐臼山古墳がまさか妹子の墓と思わなかったからどこにあるのですかと聞いてみた。
お話好きな方なんでしょう。いろいろ教えてくれて、さらに小野道風神社までの道も教えいていただきました。
「今日は長浜まで行くんや」と言うと驚いて、「途中まで送っていってあげよう」、「あかんあかん、そんなことしたら目的が達成できひんがな」
そんなやり取りをしてお礼を言ってお別れしたのであった。



えらいこっちゃ。11時を回ってしまっている。出発してからもうじき5時間になるのに未だ今日の工程の3分の1ぐらいしか進んでへん。
国道161号線を横切って再び琵琶湖畔に戻ってきた。車も人も通っていない。ここで時間を稼がなくっちゃ。
どうしても夕方の6時には長浜に着きたい。
その思いがペダルを踏む足に伝わったのだろう。足が軽くなりビュンビュン飛ばしました。
汗が流れて落ちてくる。
前を見るとはるか彼方に近江舞子(左写真中段右側)が見えているあの辺りで軽めの食事しよう。
比良を越えた辺り(だったかな?)からサイクリングロードが現われた。
これはしめた!時間稼ぎが出来るぞ。

快適である。調子がよかったので食事もせず近江舞子を通り越して南小松までサイクリングコースを走りました。
喉が渇くのでスポーツドリンクをゴクゴク。
飲んでも飲んでも汗になって出て行くだろうと思ったのだけど、ここが間違っていた。
勿論水分は吸収されていくのだろうけど、飲む早さに比べて吸収は遅い。
結局、胃の中は水分だらけになってしまった。
これではレストランに入っても食べられない。
したがって南小松から161号線に入ってコンビニに入って軽食を買うことにした。

コンビニに入ってみるとおにぎり、弁当、パン、サンドイッチ・・・・・。  何にしようかな?
何故かしら急にオムライスが食べたくなってきた。
それにアイスコーヒーも。
コンビニの店員さんは頭から湯気があがっていますよだって!  さもあらん。

そのコンビニの駐車場で暖めてもらったオムライスを一人食べていると、奇人・変人のようなやつがいるって感じで見られているような気がしました。

あまり食べられないだろうと思っていましたが、結局全部残さずオムライスを食べ終わるとエネルギーが全身に回ってきたのだろうか、体が楽になってきてもう少し食べられそうになってきた。
もう数キロ走って様子を見てみよう。次の休憩場所を白鬚神社と定めてゴミの始末をしてシュッパーツ。
5キロほど走った白鬚神社の手前にコンビニがあり、再びそこに入ってみた。 今度は軽くサンドイッチにした。飲み物はミルクコーヒーとした。

最近はリポビタンDを始めドリンク剤がコンビニで売られている。  買ってみたい衝動に駆られながら薬に頼るなんてという気持ちもあり買いませんでした。

白鬚神社

祭神は猿田彦、長寿や縁結びの神様として信仰を集めているという。
右のように安芸の宮島を思いださせる琵琶湖の湖上に立つ朱塗りの大鳥居が特徴です。
創建は垂仁天皇の頃とされていますが、現在の本殿は、豊臣秀頼と淀君の寄進を受け、1603(慶長8)年に再建されたものです。
境内には旧拝殿の絵馬殿のほか裏の小高い丘には外宮、内宮が立ち並んでいる。


白鬚神社の鳥居を眺めながら第2回目の昼食をとり終えたのが12時45分頃だったろうか。休憩も十分取ったことだったし、予定していた時刻からは1時間ほどの遅れとなっている。
この後頑張れば何とか6時までに長浜に着けるだろう。
さぁ、次の予定地は乙女ガ池と大溝城址だ。
そして、高島町の町並みを見てから萩の浜の湖周道路に進むことにする。私事ながら母親の父(つまりお祖父さん)がこの町の出身だからチョット気になる場所でもある。
それと百貨店の高島屋の創業者もここの出身だと聞いたことがある。
この写真は高島町の造り酒屋さんなんだろう。
「酒林(さかばやし)」と呼ばれている杉玉が軒に吊るしてありました。




町並みを見てから萩の浜に向かい更に新旭の風車村に行く
予定だったのですが、時間の遅れが気になって近道だろうと
思われる道を選んでしまいました。

これがいけなかった。琵琶湖の近くまで出てきたとこまでは
よかったのだけど、道が左に左に曲がっていく。
おかしいとは思いながら十字路があれば右にターンをしたの
ですが琵琶湖にはでられない。
太陽の方向が右や左に移動してどうも一定方向に進んで
いないことは分かりましたが正しい道に辿り着けなかった。
しまった!
そうこうしている内に安曇川と思われる川に出会い下流の方向に進路を取りました。
これで、湖周道路にでられると思ったとき一安心しました。
でも、この不安な時間帯で急に疲れがどっと出てきたような気がします。
結果的にはそれほどのロスはなかったと思うのですが、いったい自分がどこを走っているのか分からないという情けない状態でした。

1時半ごろやっとの思いで風車村に着きました。
ここでは予定から遅れが気になり、公園内をぐるっと1周しただけでゆっくりすることはしませんでした。


喉が渇く。 お尻が痛い。時間がない。足も痛くなってきた。
そろそろ、不安になってきたのです。
6時までに長浜に着けるやろうか?
無謀なことをしているんやろか?

兎に角前に進むしかない。自転車を置いて帰るわけにはいかへんにゃ!
そう自分に言い聞かせて自転車に跨り痛む足でペダルを漕ぎ出しました。
  もう、寄り道はしやへん。
ここからは本当に真剣になってきた。サドルから腰を浮かせることも度々、これはお尻の痛さ対策とスピードアップのためなのです。
今津を過ぎ、マキノも過ぎ海津大崎までの20km弱はノンストップ。

左はマキノでの分かれ道、道標案内は福井県が出てきた。
いよいよ琵琶湖最北端の町、西浅井だ。
右は海津大崎から見た竹生島です。
1日目の最大の難関はこの先の大浦から始まった。
疲れ切った体で山登りなのだ。
ギヤを落して軽くはしたものの辛い、しんどい、助けてほしい。
登り道をゆっくり進んでいると、道端で小学生が遊んでいた。

なにやら聞こえるゾ。
「あのオッチャンに付けてやれ」「?」何をというのだろう。
棒の先になんだか分からないけど引っかかっているものがあった。 田舎の子は元気だ。 その棒を持って追いかけてくるのである。
「こらー、なにすんねん」顔で笑いながら言ったものだから、更に追いかけてくる。 疲れているのに必死で逃げなければならなかった。
もう少しで、そのナニモノか分からないものを引っ付けられるところだったが、なんとか引き離しに成功?したのだった。
そんなハプニングもありながら。もう走れんというところで休憩も取りやっとのことで琵琶湖最北端の入り江である塩津浜に到着した。

塩津浜
今日の私にとってこの場所が一番感動的な場所だった。
なんと言っても琵琶湖最北端なのである。
「思えば遠くに来たもんだ」(こんな歌もありましたっけ)感慨しきりなのである。


味鎌の塩津を指して漕ぐ舟の
   名は告りてしを逢わざらめやも

                                 万葉集 巻11
ただ今の時刻16時、これで一安心。
長浜まで約20km、時間も6時まで2時間もある。


この後、長浜までの道のりでラーメン1杯を食べてちょうど6時にJR長浜の駅にいました。
家内からは「今どこ?」と電話が入り自慢げに「長浜」と答えたのは言うまでもありません。


さてさて、今夜の宿を探さなければ、どうせ寝るだけだから安いところと思い、駅前の看板で国民宿舎の文字があるところに電話を入れました。
これが、満室で断られました。
続いてかけたのはグリーンホテルYES長浜というところ。(後で気が付いたのですが、このホテルは友人Mさんが琵琶湖1周を行った際に泊まったホテルでした)部屋は空いていました。
なんと駅から1分のところじゃありませんか。
ありがたかった。
部屋に入って、先ずは風呂。疲れがフーーーッと抜けていくようです。 今日一日のことを思い出そうとしたのですが思い出せない。
本当は走馬燈のように思いが巡ってくると書きたかったのですが。


風呂上りに先ずはビール。 グイグイ  プハァー!
その後いつの間にか寝込んでしまったのです。(お疲れのせい) 気が付くと23時45分。お腹が空いたぞ。
外出するもこんな時間に開いているのはコンビニぐらいしかありませんでした。 またもや空しくコンビに弁当になってしまいました。



明けて10月11日
朝起きてもう一度風呂に入りなおす。よく筋肉をほぐしておいてっと。左の写真はホテルの窓から伊吹山と町並みを撮ったもの。
右の写真は7時にホテルを出て長浜城に行ってみました。

お尻の痛みは仕方ない。筋肉に痛みはそれほどでもなかった。今日は楽だろう。全工程の半分以上は過ぎているからと、登り道がないからだ。
長浜市内を少しうろついて湖岸道路を南に向かう。
今日は桃吉さんが新海浜から長浜まで歩いてくるはずだ。必ずどこかで巡り合うはずだ。
それを今日の楽しみにしよう。この広い琵琶湖で友人よ巡り合えるなんて不思議なような気がします。

長浜を出て少し行くと天野川という川があります。
この川を挟んで北側に蛭子神社、南側に朝妻神社あるのですが、日本の七夕伝説の起源となったところです。

七夕石と彦星塚
雄略天皇第4皇子稚宮と仁賢天皇第2皇女朝嬬の悲恋の舞台がこの地であったとされ、皇女の墓が蛭子神社に残されている。


8時30分頃には彦根市に入っていました。
ちょうどその頃、桃吉さんが新海浜辺りを歩き出していたのだった。
彦根といえば彦根城。写真を撮るだけでしたがお城をぐるりと回ってきました。
10月でしたが2期桜がもう花を咲かせていました。
この時期の桜は4月の華々しい輝きはなく、かえって曇り空の寒々とした日が似合うだろう。


桃吉さんと出会うまでにはまだ時間がありそうだ。
何か熱いコーヒーでも飲みたいと思うのだけど、喫茶店が未だ開店していない。
困ったなと探しているとGUSTを発見した。
朝食はもう済ませているのでコーヒーだけを飲もうと店内に入ったのです。
これは衝撃的でしたね。
何がって、値段ですよ。

セット料金が380円なんです。目玉焼きにサラダ添え、トーストにスープ、飲み物は飲み放題なんですよ。
こんなの信じられないって感じで、私もコーヒーを2杯いただいて来ました。
コーヒを飲んで彦根の町ともお別れして犬上川を越えて、そろそろ桃吉さんの位置を確認しなきゃと思っていたとき、道路の反対側で私の名前を呼ぶ声が!
あっ桃吉さん。
よかった、もう少し先で出会うかと思っていたもので注意散漫でした。

バンザーイって感じ。

よくぞご無事で、朝ではありますが、早速祝杯をということで丸干しのおつまみと冷酒で乾杯をしました。

ウメェー!  最高!
あほなオヤジ達の感動の出会いなのです。
お互いよくやるよ、ホントに。

9時30分ぐらいに会って20分ぐらい一緒にいたでしょうか。

さぁ、大きなイベントは終わった。
家に向かって軽く流そう。そういう気持ちで再出発したのだった。  40〜50分ぐらい松ヶ崎、長命寺に着いたのでした。
さすが、もうここの808段の階段は登る気がせず下から写真を撮るだけにしてしました。

名勝松ヶ崎

実に味のある灯篭ではないですか。






長命寺

長命寺は西国三十一番札所の霊場
武内宿彌がこの寺の柳の木に「寿命長遠所願成就」と書き祈願、後に聖徳太子が観世音菩薩を刻まれ伽藍を建立し、「長命寺」と命名されたと伝えられています。
長命寺から10分ぐらいで水茎(みずくさ)の岡だ。
万葉集、古今和歌集、新古今和歌集にも詠まれているところなのだ。
その昔、巨勢金岡(こせのかなおか)が描こうとしたのですが、その見事さに思わず筆を捨てたという逸話も残っています。

  秋風の 日にけに吹けば 水茎の
            岡の木の葉も 色づきにけり
     顕昭


そんな水茎の岡だが崖の下にはご覧のような洞窟があり、小さな小さな祠がありました。




ここで少々休憩していた。ここはウインドサーフィンの練習場なのか結構年配のウインドサーファーが夏を惜しむかのように練習をしていました。
暫く見てからあやめ浜に向けて出発しました。
4kmほどであやめ浜に着いたが単に通過しただけだった。続いてマイアミ浜。この時期でもオートキャンプ場には車が沢山止まっていました。
更に進んで滋賀県では有名な「鮎家の郷」に寄りました。
ここで、昼食タイム。
そのあと野洲川まで軽く流しました。たった1kmぐらいだったのですが、ここで休憩したのです。
なぜなら急に南風ないし南東の風が吹き出してきたもので風上に向かって進むのは大変だったからです。
「よいしょ、よいしょ」力を入れて漕げども漕げどもスピードが出ないのです。
メッチャ疲れてきたぞ。    家まで40数キロだというのに進まない。  筋肉は疲労の限界に来ているはずだ。
体は熱い、汗も出てきている。スポーツドリンクも飲み飽きてきた。何か、そうだ熱いコーヒーが飲みたいな!
休憩しながらそんなことを考えていた。勿論自動販売機の缶コーヒーではない。あれはコーヒー飲料ではあるけれど好きにはなれない。
そのとき思いついたのは草津にいるお友達のことだった。
すぐに電話をして「1時間ほど後に行くからコーヒーを作っておいてくれ」なのだ。
彼女は私が琵琶湖1周の旅に出ていることを知っている。 応援をしてくれ、快く「OK」をしてくれた。
ありがたいことです。
本当は湖周道路で旗を持って応援する予定だったとか。
元気を取り戻して烏丸半島に向かう。


風は強い。蓮の群生地の向こうには「くさつ夢風車」が勢いよく回っている。
ブルンブルンでいいのかな?どういう表現をしていいのか分からないけど、
そんな感じでした。
勿論、音は聞こえていないですよ。

    でも、でっかい!












強い風に逆らいながら時速5kmぐらいだろうか、彼女を求めて、イヤ、コーヒーを求めて草津市の市街地に向かった。
彼女の事務所の住所番地はある雑誌で知っていたのでそちらの方に向かっているのです。 暖かいコーヒーが飲めるぞ。
事務所の近くまで来たときにもう一度催促の電話。
これだから困るんだよな、関西人は!  この図々しさ、この逞しさ。 押しかけた仙道をお許しください。
事務所は流石綺麗に整理されていて、気持ちよく仕事ができる雰囲気だった。
創造とはこういうところで産まれるのだと納得したのである。
そこに、汗まみれの汚い、臭い、醜い男が立ち寄ったのだ。 場違いを感じながらも平気な顔で居座った。
暖かいコーヒーを出していただき飲みながら歓談、30分ぐらいしゃべっていただろうか? 
それからどういうわけかこの女性のお父様と電話で歴史関連の話もしたんです。
そういえば昨日から長浜のホテルのフロントの人と小野妹子の墓で出会った女性としか話していなかったのだ。
遅くなると(ご主人様に見つかると?)いけないので記念撮影をして最後の力を振り絞って出発をしたのである。


3時過ぎ瀬田の唐橋に着いた。
思えば昨日の朝の7時40分頃はこの対岸を不安を感じながらも
「ヤルゾー」の勢いだけで不安を胸に秘め走っていたのだった。
いまはマラソンで言えば32kmの苦しみを越え、いよいよ37km地点に
差し掛かったところだろうか。

この橋にはいろいろな出来事がありました。
古くは天智天皇が667年の近江大津の宮への遷都時に、
はじめて瀬田に橋が架けられたのだって。

その後、スケコマシ(言葉が悪くてすみません)と噂の高い?藤原仲麻呂
(恵美押勝、実際は実力者だと思うのだけど)が乱(764年 恵美押勝の乱)
を起こし、押勝とその子孫らの官位・姓を剥奪し、押勝らは太政官印を盗み、
宇治から近江へ向かい逃走したということらしい。
さらに、山背守の日下部子麻呂らは先回りして『勢多橋を焼いた』のらしい。
しかしまた、都が長岡京へ、ついで平安京へ移される時、再び近江国に東海道が通り、瀬田の橋が、都から近江国府を経て東国へ通じる
官道の重要な位置を占めたのはいうまでもない。
瀬田の唐橋が現在のような姿に近づいたのは、織田信長と豊臣秀吉の時代であった。
信長は天正3年(1575年)に長さ330m、幅47mの単橋をわずか90日間で架けさせており、その後、秀吉が上流の現在地に移し、
中の島を利用した双橋に架け直したとされている。
この橋の擬宝珠の銘から天正以後、江戸文久元年(1861年)に至るまで16回の架け替えが行われていることが分かるのだ。

マラソンでいう40km過ぎだろうか、実際の道はあと25kmぐらいだろう。殆ど平坦か下り道なのだ。
スピード記録に挑戦しているのではないので、ここは昨日からの工程を思い出しながらゆっくり走ろう。
もう帰り道なのに何故か「♪ど〜こまでも、ゆこお〜よ・・・・♪」の歌が口元を突いて出てきたのだった。
南郷の洗い堰は閉じられている。
8月のときとこんなに水位(水量)が違うのですすよ。

左が今日の瀬田川、右が8月の時の瀬田川です。同じ場所から撮った写真なんですよ。
途中もう一度休憩してそのあと一気に家まで走りました。
帰ってからビールを飲んだことはいうまでもありません。 いくらでも胃の中に入っていきました。
やり遂げた満足感に浸れるだけの運動量と思うのですが。




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