15年4月29日のサイクリング

Mさんの投稿に刺激をされて仙道も琵琶湖1周に心をときめかせています。
宇治を出発して琵琶湖1周は2泊3日は必要かと思います。
4月12日歯の手術をして全然ものが食べられなくて体力ダウンしました。今日は落ちた体力の復活を期待してと、琵琶湖1周の足馴らしを兼ねてサイクリングに出かけました。
で、行き先なのですが、歯の手術のあとHidepenさんが回復を祈願して奈良の薬師寺に行って来られました。
そのおかげで回復は順調だったように思います。
それで、今日は薬師寺までお礼参りに行くことにしました。
距離としては片道35Kmぐらいでしょうか。
これくらいの距離では琵琶湖1周にはほど遠いです。それで、色々なところを回りながら行くことにしました。

昨日は子供に、「明日、空いてたら自転車貸してんか?」と頼み込むようにお願いしました。
渋々だったけど、とにかく貸してもらうことになりました。
仙道の自転車はサスペンションがなく長距離を走るにはかなり辛いからです。

今朝目を覚ますと天気よし、当然普段と違い朝食から卵2個の目玉焼きにチャーシュー(仙道の自作)4切れ、それにパン2個とコーヒー。腹ごしらえはこれでOK。
いよいよ朝8時出発となりました。

最初の目的地は流れ橋(上津屋橋)。

ここは嵐山から京都南部の木津町に至るサイクリングコースの中間点で我が家から4〜5Kmぐらいでしょうか。
ここについて休む間もなく奈良に向けて出発です。
気温16度、快適な走りを続けます。これくらいの気温で湿度も高くないと汗が流れてくることもなく、ついつい鼻歌なども出てきます。(仙道のことだからメッチャ古いやつですが)
流れ橋から8Kmのところに国道307号線の山城大橋があります。
まだまだ元気なのでチョット停まって写真をパチリ。
河原では子供達が野球の練習をしていました。

ここでは写真を撮っただけですぐに出発します。
先程から向かい風が気になります。
歩いているときには風はほとんど気になりませんが、自転車に乗っているとチョットした風でも足に相当の負担がかかります。
このままだと、帰りは楽だななんて自分に言い聞かせて頑張るしか仕方がありません。

追い越されるのが嫌いな性格なので後を気にしながら「よし、誰もついてこないぞ」と足を速めます。
当然ながら細いタイヤで自転車用のヘルメットを被っている足のぶっといお兄ちゃんには勝ってこないですが。
そうこうしている内に5人抜き、6人抜いて大満足。開橋の手前に休憩所があるのでここで一休みすることにしました。

5分も休憩しているとさっき抜いた人たちが全部追い超していきました。  「ようし、木津までに全部抜いてやる」と意気込んで出発。
今回はとばしましたよ。息が切れるぐらい。(笑)
当然、意気込み通り全員+αを抜いて木津に到着。
ここからは、国道24号線を走ります。揺るやかな上り坂なのでペースを落として走ります。

次の休憩場所はいつもの京都の端っこにある道の駅。 夏場だったらここに着くのが朝の6時半頃なのです。
夏場はそうでないと暑くて走れません。 6時半頃だといつも掃除のオジサンが水撒きをしているのですが、今日は9時過ぎですからオジサンはいないだろうな等と考えながら走りました。


ここが休憩所の道の駅(売店はありません)
ここで、子供の愛車の写真を1枚。

この自転車泥よけがないのが辛い。
本当は付けたいのですが、オーナーの許可が降りないのです。

ここでタバコを一服。「う〜ん、うまい」
お茶を飲んで、オシッコをたれて五分でここを後にしました。
ここを出るとすぐに奈良県です。
反対車線側に奈良市のゴミ焼却施設があるのですが、今日は休日のためでしょうか、ゴミを捨てに来る人の車が100m以上並んでいました。
捨てるまでに一時間以上かかるのだろうな。
ご苦労様。
左手にはJR平城(ならやま)駅が見えてます。「ならやま」、なんとなく惹かれる名前じゃないですか。
ここを過ぎると下りになります。

ここまで来て、ふと、平城(へいぜい)天皇陵を見たくなりました。
というのも4月26日、長岡京市の発掘現場を見てきたところです。3月の歴遊会は嵯峨天皇陵を見てきたところです。
4月の歴遊会は淳和天皇陵を見てきました。
桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と話題になってます。是非とも平城天皇陵を見なくては。
参考までに桓武天皇がお父さんで平城天皇と嵯峨天皇は兄弟、淳和天皇は異母兄弟です。
桓武天皇は平安京遷都をした天皇でみんな平安時代の人です。名前から平城天皇は奈良時代と間違わないようにしてください。しかもお墓が奈良にありますから誤解されやすいですね。
(詳しくは左の歴遊会の活動から第91回、92回を見て下さいね。 あんまり詳しくないけど(汗))

ということで24号線から離れ、平城宮方面に向かいました。そうすると仁徳天皇の皇后である磐之媛命(いわのひめのみこと)の陵墓がありました。

ここにあったのかという思いと、仁徳天皇の母親は神功皇后で、神功皇后の陵墓は近鉄の平城(へいじょう)駅の近くであることを思い出しました。
これは神功皇后の陵墓にも行かなくっちゃ。
今日はこの後、宮内庁管轄の陵墓がいっぱい出てきますので写真間違えたら御免なさいね。
みんな同じスタイル?なもんで。(大汗)

先ずは磐之媛命さんのお墓をお参りして平城天皇の陵墓に向かおうとすると、お隣にまたまた前方後円墳があるではないか。
これは小奈辺陵墓参考地(前方後円墳)なのだ。
ここには自衛隊の幹部候補生を対象にした学校があってその学校の東南方向に宇和奈辺陵墓参考地(前方後円墳)もあることは知っていた。
宇和奈辺陵墓参考地は国道24号線に面しており仙道のような県外人でもサイクリングでよく通れば自然と分かります。
多分、自動車で通り過ぎるだけでは生け垣が高くて気が付かないでしょう。

それで、宇和奈辺陵墓参考地も行こうかと思いましたが平城天皇陵とは反対の方向だし、帰り道でそばを通るだろうと思い行くことはやめました。

それで小奈辺陵墓参考地のみを1周して平城天皇陵に向かうことにしました。
右の写真は後円の方向から前方に向かってシャッターを押したところです。


西に向かうと水上池があります。ここは鮒や鯉の釣り堀になっていたのですが今はやってないみたいでした。この池の西側を南に行くと平城宮(平城京ではない)の大極殿が見えてきました。
平城天皇陵にも近いことなので先に平城宮の見学をすることにします。


ヤヤッ!何者だろう?
写真では分かりにくいのですが、赤いチャンチャンコに赤頭巾の団体さん。
還暦団体(?)

年はとみると年輩の方もいらっしゃいましたが、20代の方もいらっしゃいます。
最近、白装束団体が話題になっているでしょ。
チョット異様な感じがしましたが、真剣にガイドさんの話を聞かれているようで、ただただ唖然として見送りました。

第1期の大極殿の復元工事が進んでいました。
数年前だろうな、朱雀門の復元が成されたのは。
ということは朝堂院なんかの復元もされるのは。

あと思い出されたのは西門の辺りで「立ち小便するな」と書かれた木簡が出土したことがあると何かで読んだことがあることです。
困ったものですね。マナーの悪さは奈良時代から変わってないのか!



いよいよ平城天皇陵に向けて出発。大極殿からチョット北に行ったところでした。

平城天皇陵の前の松を見て下さい。
特に左側。 もう駄目でしょうね。もう5月というのに丸坊主状態。植木屋さんや木のお医者さんが看ているのかな?
なんせ、宮内庁管轄だからたとえ枯れても放っておくことはないでしょうが、 あ わ れ!

平城天皇は桓武天皇の子で安殿親王(あてしんのう)と言ったんだけど、長岡京の建設責任者の藤原種継が暗殺された事件の関係で急に皇太子になっちゃってそして天皇になった人なんです。
皇太子の時、藤原薬子(藤原種継の子)の長女を妃としましたが、この時薬子は娘に付き添っていっしょに安殿親王のもとに行ってしまった。これが間違いの始まりか、薬子の狙いか知らないけど、俗に言う「親子丼」の関係になってしまったのです。
この醜聞を知った桓武天皇は怒り心頭、薬子を宮廷から追放したのです。
806(大同元)年、即位して平城天皇になったのですが、桓武天皇の死後再び薬子を呼び戻しています。40を過ぎた女性の艶気にはかなわなかったのかな?なんてことを考えてました。

平城天皇陵を出て少し西に行くと観光地図のようなものがあり、そこには日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)、成務天皇陵、称徳(孝謙)天皇陵 が書かれていました。
むむっ!行かねばならぬ。
そう思いこみました。



行く道すがら佐紀神社というのがありました。
社伝によると天武天皇2年(673)に鎮祀し超昇寺の建立と同時に鎮守神として尊崇され、貞観元年(859)には社殿を改修、寛平3年(891)に官社に列し超昇寺が別当寺とされたが、治承4年(1180)に兵火により焼失した。

文治6年(1190)に再建、天正6年(1578)再度兵火に焼失したという。

境内には市杵姫神社・大国主神社の二末社があり、これらは超昇寺僧の鎮護神で、同寺廃絶後、明治頃に当神社へ移されたらしい。
例祭は10月10日だそうです。

宮司さんもいなかったのでうらぶれた感じがしましたが説明によると由緒正しき神社らしいですね。



さぁ日葉酢媛命の陵墓に向かいます。
ところが、まだ、他にも古墳があるぞ。
瓢箪山古墳だそうです。
説明によると前方を南に向けた前方後円墳で、墳丘の全長96m、後円部径60m、同高さ10mで、前方部幅45m、同高さ7mです。
前方部の西南隅(写真に写っているところ)で大正年間に土砂採取が行われ一部原形をそこなっていた。
墳丘の周囲に前方部の南西を除いて周濠が巡らされていますが、南西には隣接する「丸塚古墳」がある為、先に築かれた「丸塚古墳」を避けています。
また、墳丘の一部と周濠に葺石(ふきいし)が施され、墳丘から円筒埴輪の遺存が確認されたが、量は少なく、古墳の築造年代については、墳丘の形態等から古墳時代前末期〜中期初頭、すなわち、4世紀末〜5世紀初頭の古墳でないかと推定されています。と写真の説明板に書かれていました。





ここが日葉酢媛命(ひはすひめ)の陵墓です。
この辺りはさすが宮内庁管轄、よく整備されています。
写真では分かりにくいのですが鳥居の向こう側は濠になっていて水があります。
ここには亀が住んでいます。
自然に発生したものか誰かが放したものか分かりませんが、こういう濠に亀がいるのは珍しくありません。
珍しいとといえば京都北嵯峨にある後宇多天皇陵の濠には錦鯉が放されていますよ。

話は脱線しましたが日葉酢媛命とは誰なのかな?

今日この後に垂仁天皇陵に行く予定ですが、その垂仁天皇の皇后様なのです。
古事記では氷羽州比売とか比婆須比売と書かれています。
垂仁天皇の皇后は沙本毘売命(さほひめのみこと 狭穂姫)ですが、沙本毘売命は自殺する前に、自分の代わりにと、異母兄の丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)の5人の娘(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・薊瓊入媛(あざみにいりひめ)・竹野媛(たかのひめ))を天皇の妃にしています。その中で日葉酢媛命が皇后になったのですが、一番下の竹野媛は不細工だからという理由で返されたという話を聞いたことがあります。(ホントかな?)

もう一つこの陵で特筆しておかなければならないことがあります。
この時代天皇や皇后が亡くなった時、殉死の風習がありました。垂仁天皇はこれに心を痛めており悩んでいました。ここに登場するのが出雲の国の怪力男の野見宿禰です。
野見宿禰は相撲の始まりといわれた人で、奈良県当麻が相撲発祥の地(滋賀県安土という説もあり)として記念館があります。
野見宿禰は天皇に「土の人馬や種々の形を作り、殉死者の代わりにしては」と申し出て、はじめて埴輪が埋められたということです。



日葉酢媛命の陵墓の隣に成務天皇陵がありました。
成務天皇は景行天皇の子供なのですが、異母兄弟にあの有名な日本武尊(やまとたける)がいます。
日本武尊は日本中を駆け巡り大和朝廷の統治地域を拡大した人です。
何故、次期天皇にならなかったのか疑問の残るところですね。
成務天皇は国造、県主を定めるなど、地方行政組織を整備した天皇で日本武尊の働き無しには考えられない成果だったのでしょう。

ですから成務天皇の皇太子は実子の和訶奴気王ではなく、日本武尊の息子を皇太子にしました。
この皇太子がこの後行く神功皇后の旦那様である仲哀天皇なのです。
仲哀天皇は日本武尊の子供であるけれどもう一つ冴えない天皇でした。そのかわり皇后の神功皇后は驚くべき皇后だったのです。
この話は神功皇后陵のところでする事にします。



平城天皇陵の近くで見た地図では成務天皇陵の南西に称徳天皇陵があったはずなのですが、道が見あたらない。
竹藪と雑木林があってここだと思うのですが行けないのです。
何回もグルグル回って見たのですが案内板や道標も見あたらないのです。
ひょっとして地図の記憶違いだろうか?もう一度平城天皇近くの地図まで戻りました。
地図といってもイラスト図なのでハッキリした位置は分からないのですが、間違いなくさっきの竹藪と雑木林に違いありません。それで道の図を頭に入れてっと。なんだ成務天皇陵を越えて普通の車道まで出ればいいんだ。
ということでやっとの思いで称徳天皇陵に付くことができました。
称徳天皇は重祚して称徳天皇となったのだけど、元はといえば孝謙天皇だったのです。
それで孝謙天皇というとどういう人だったのだろう。
父は聖武天皇、母は光明皇后なのです。
聖武天皇といえば遷都につぐ遷都を行った謎の彷徨の天皇で東大寺(大仏)建立で有名です。
これに対して孝謙天皇は西大寺を建てた天皇なのです。
名前からは判断できないのですが女帝です。
他の女帝と違うところは未婚のまま立太子して即位した天皇ということでしょう。
つまり、臨時の天皇でなく天皇になるべくしてなった女帝なのです。
藤原仲麻呂を用い橘奈良麻呂の乱を鎮圧し、一度は立太子した道祖王を廃して、藤原仲麻呂の進言によって舎人親王の子、大炊王(おおいおう)を立太子させた。
こうして758(天平宝字2)年淳仁天皇が誕生した。761年孝謙上皇は病気になったとき看病したのが禅宗僧「弓削道鏡」だったのです。
平城天皇の時と同じくすぐに男女の話に持って行きたがる仙道なので、ここは一つそちらの話に。
病に伏せた孝謙天皇に道鏡は優しかった。孝謙上皇に道鏡を慕う気持ちが芽生えるのも自然の成り行きだったのです。
病気が平癒しても二人の関係は続き、そして上皇は道鏡を重用し始めたのです。
これに対し淳仁天皇・藤原仲麻呂は反発し乱を起こしたが破れ、淳仁天皇も廃帝後流罪となった。
上皇は称徳天皇として再び皇位に返り咲き、天皇は愛人である道鏡を太政大臣(総理大臣)禅師の位を授けたのでした。
権力を欲しいままにした道鏡は称徳天皇に言いより、自らが天皇になろうと策略を巡らせました。
その結果、称徳天皇は皇太子をおかず、さらに皇統候補を排除する形で道鏡の皇位継承の準備が整ってきたのです。
そして宇佐神宮の御神託事件だったのです。しかし、神託を聞いてきた和気清麻呂が持って帰った来た内容は「君臣の別を明らかにし、皇嗣には皇統を立てるべし。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」というものであった。
これにより道鏡の企みは潰えたのでした。

蛇足ながらこの陵墓は4〜5世紀頃のもので称徳天皇の墓でないことは通説となっています。
それならば称徳天皇の墓はどこに?
続日本紀によれば、称徳天皇は没後ただちに、四畿内、伊賀、近江、丹波、播磨、紀伊などの諸国から役夫6300人を徴集して山陵の造営をすすめ「大和国添下郡佐貴郷高野山陵」に葬ったとあります。
問題は佐貴郷高野ですが、佐貴郷は現在の佐紀と考えて問題無さそうです。
それでは高野がどこかということですが、孝謙天皇が建てた西大寺が高野寺とも呼ばれていたという事実。
それに、西大寺の大きさが東限佐貴路除東北角喪儀寮、南限一条南路、西限京極路除山陵八町、北限京極路であることから、この京極路除山陵八町の辺りではないでしょうか?
今でいう西大寺野神町、西大寺竜王町、西大寺新池町、若葉台、西大寺高塚町辺りかな。



ここで11時30分になりました。お腹もすいてきたので食事にすることにします。
称徳天皇陵から「奈良ファミリー」まではすぐです。こういうサイクリングの時は建物の中では食べないことにしています。
いつもはコンビニ弁当かおにぎりを買って景色のいいところで食べるのが最高に気分がいいものです。
今日もそうすることにします。奈良ファミリーの地下はスーパーの食料品売場です。
行ってみると弁当の種類が多く迷ってしまいました。にぎり寿司もいいな、唐揚げ弁当はまだ歯の手術後完治していないのでやめておこう.....。
色々考えた挙げ句買ったのは天津飯弁当でした。それと揚げ出し豆腐。やっぱり歯のことを考えて柔らかいものにしたのです。
レジで勘定を済ませ、電子レンジで温めます。ん?使い方が分からない????
店のお姉さんに聞くと扉を開けて、弁当を入れて、タイマーをセットして、扉を閉じるだけ。スタートボタンがないのです。
いたって簡単でした。(笑)



さて、温まった弁当と揚げ出し豆腐を持って北西方向へ。神功皇后陵に向かいます。
陵墓で食事? 不謹慎かな。
5分ぐらいで神功皇后陵の麓に着きました。ここで自転車を置いて緩やかな階段を登ります。
途中すれ違う人もなく陵墓前に付きました。先ず写真をパチリ。
ゆっくりしていると弁当が冷めてしまう。
このことが気がかりでゆっくり見ていることはできませんでした。
写真の左手にチョットしたスペースがあります。
ここでお弁当タイム。
一人で食べるのは寂しいな!
弁当のラップをはずしていると中から汁が・・・・。
「熱ッ!」火傷はしませんでしたがけっこうあんがこぼれていまいました。
少な目のあんの天津飯です。
それと揚げ出し豆腐。
御覧のように天気のいい日、太陽の下で食べるのは本当に気持ちがいい。
しかも空きっ腹。歯が十分でないので流し込むような食べ方で5分もかからず食べ終わりました。

神功皇后の事なんだけど、第14代仲哀天皇の奥さんなんです。
24才の時45才の仲哀天皇に嫁いでいるだけれど恋愛感情なんてなかったのだろう
夫の仲哀天皇が九州南部に住む朝廷に反抗的な熊襲(くまそ)を平定しようとしたとき、神功皇后が神懸かりしました。
「西に国がある。金銀をはじめ輝くような財宝がその国にある。今その国をお前にやろう」と託宣しました。
ところが仲哀天皇は、「高いところにのぼっても国は見えない。ただ大海原が広がっているだけだ」と託宣を信じません。
そして引いていた琴を止めてしまいました。武内宿禰が「おそれ多い、琴を弾いて下さい」と言うので、再び弾き始めたところ、やがて琴の音が聞こえなくなってしまいました。
そこで、明かりを灯して見てみると既に亡くなっていました
天皇を葬ったあと自ら男装して軍船を率いて朝鮮半島に渡り、神託に従って新羅国の征伐を行っています。
この時の軍律は「小敵とても甘んずるな、強敵にもひるむな、狂暴に抵抗するものは許すな、服従するものは殺すな、敗退するものには厳罰を処す」というものです。
新羅国征伐の時、すでに後の応神天皇を身ごもって臨月で産気づいていたんですが、出産時期を遅らせるために、腰に石を巻き付け、産気を鎮めていました。
凱旋して筑紫に着いてから応神天皇を生んだというからただ者ではないですね。
懐妊から分娩まで、実に十五ヶ月かかったことになります。



スゴイお母さんをお参りしたので、ここからは近くにある秋篠寺に向かうことにします。
途中なら競輪場を通ったのですが、本日は開催されておらずひっそりしています。

今日は観光が目的ではないし、持ち金も少ないため拝観料を払ってまで中に入りませんでした。
秋篠寺は奈良時代最後の天皇である光仁天皇の勅願によって建立されました。
平城京西北の地「秋篠」に建てられたため秋篠寺と呼ばれたのでしょう。



秋篠寺を後にして南に向かいます。秋篠寺の前にあったイラスト地図(上の写真で3人の人が見ている)によると西大寺の西側を通れる事になっていたからです。
ところがこの道は自転車も通れないような細い石畳の道だったのです。
ここはマウンテンバイクの強みで若干の登りでしたが一気に通り過ぎてしまいました。近鉄の踏切を超える辺りが仙道説による称徳天皇の陵墓があったところと思いながら通過しました。
この道をずうっと南下していきます。
(この辺りかな?仙道のBBSに書き込んでいただいている○○○さんの家は。)
初夏の香りを感じさせる気持ちのいい天気です。人通りも疎らでその中を新緑を楽しみながらゆっくり走りました。
突き当たりの三叉路を左に曲がると右手にチョット大きなお堂の姿が見えてました。あそこにも行ってみよう。
道はやがて右に曲がって菅原神社に着きました。
菅原神社、言わずと知れた天神様です。
全国に菅原神社と名の付く神社はいくつぐらいあるのでしょう?

神社の祭神はもちろん菅原道真なのですが、菅原氏は土師(はじ)氏から出たとされ、その先祖の天穂日命(あめのほひのみこと)と野見宿禰(のみのすくね)も祀っています。
野見宿禰は前述の日葉酢媛命のところにも出てきています。

この神社の東には道真の産湯に使ったという池があってこの地で道真が産まれたことになっています。
因みに乳母は京都の文子(あやこ)さんだそうです。
というのは天神信仰発祥の地とされている天満宮に文子天満宮が京都駅の近くにあるのですが、そこの説明文の中に書いてありました。
2月中旬から3月中旬まで近くの喜光寺と合同で盆梅展を開催しています。




自転車を菅原神社前に置いておいて喜光寺(きこうじ)まで歩いていきました。
菅原神社に向かう途中に見えていた大きなお堂はこの寺だったのです。
元明天皇の勅願で行基が建てた寺院で金堂は東大寺大仏殿を建立するときの参考にしたということで「試みの大仏殿」といわれています。
確かに裳階(もこし)等も付いており大仏殿そっくりの建物です。
寺の名前の由来は聖武天皇が参詣したとき本尊より不思議な光明が放たれ、それを喜ばれた天皇が喜光寺と名付けたということです。
境内には沢山の睡蓮の鉢が置いてありました。
極楽浄土のイメージでしょうか。







喜光寺からさらに南に行くと垂仁天皇陵がありました。
宮内庁管轄の陵墓はこれが最後です。
あっそうか。帰りに寄る予定の宇和奈辺陵墓参考地がまだ残っていたのだ。
何回見ても同じ様で、帰ってからすぐに整理しておかないとどれがどれだか分からなくなってしまう。
今日の写真は多分間違いないと思いますよ。多分ね。

垂仁天皇は崇神天皇の子供で実在の天皇として初代神武天皇、10代の崇神天皇、11代の垂仁天皇と繋がっています。
仙道は崇神天皇が大和から勢力を広げていった天皇と考えていますので垂仁天皇の時も全国統一の動きを継承していたと思われます。

また斎宮(いつきのみや)の斎王である皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)に天照大神を祀るための新たな場所探しを命じ、伊勢神宮を建てたとされています。
垂仁天皇陵ではこの写真を撮った場所でお弁当をひろげている団体さんがいました。これも珍しい光景です。
ここを出発して唐招提寺に向かいました。



唐招提寺は現在工事中なのと今日は薬師寺にお礼参りに行くことが目的なので中には入りませんでした。(実はお金がないので)  鑑真様御免なさい。




いよいよ薬師寺です。



   左から東塔、西塔、金堂です。



680年、菟野讃良皇后(うののさららひめみこ 持統天皇)が天武天皇の病気平癒のために建てた寺院です。
ということは最初は飛鳥に建てられていました。
平城京遷都に伴い718年にこの地に移設されたのです。
その後戦火に遭い当時の建物としては東塔を残すのみとなったのです。
左の写真は今般再興され3月21日、落慶法要が営まれたばかりの大講堂です。

他には金堂が1976年に、西塔は1981年に、中門は1984年に、回廊および玄奘三蔵院は1991年に一部または全部が復興されました。
    下は玄奘三蔵院です。




左の写真は国宝の本尊薬師如来座像です。
歯の手術がうまくいったお礼をしてきました。



実に美しい丁寧な作りでした。















薬師寺を後にして次は奈良公園の鹿にご挨拶をしに行こう。でもけっこう疲れてきたな。
唇をなめると塩っぱい。
今日は汗は流れ出なかったけど、かなり汗をかいたのが分かります。腕を舐めてみても塩っぱい。
ミネラル分を補給しておいた方がよさそうである。
ここでスポーツドリンク買って飲むことにしました。
帰りは秋篠川沿いに西大寺方面へ二条大路を右に曲がって平城宮の朱雀門の方に行きました。
今日はお祭りかな?
出店が出ていて門のところでは催し物が演じられていました。
ここに10分ぐらいいたでしょうか。もう時刻は2時を回っています。
先を急ごう。
さらに東に向かいます。市街地では自動車より自転車の方が速いのです。
バスを抜き、車を抜いて奈良公園へ。
鹿ちゃん居るかな。



さっ今日は帰ろう。
行き残した宇和奈辺陵墓に寄ってから国道24号線で先ずは京都の木津まで戻ろう。
その後多少の上り下りはあるものの平安時代の街道である奈良街道で帰ることにしました。

やっぱりかなり疲れている。足も攣りそうだし途中JRの玉水駅で休憩を取ることにしました。
玉水は橘諸兄の墓があるところです。行こうかなと思いましたが、また山手の方に行かねばなりません。
時刻も4時前になってきました。
やっぱり帰ろう。
気持ちが弱くなってきているな。そう感じながらバス停を見るとこんな時刻表でした。


見にくいですが平日は1日6本、土日は1日5本です。
こういうバスって乗る人がいるのだろうか?間違いなく赤字路線だろうな等と今回のサイクリングとは全く関係のないことを考えています。
思考がまともでない。


10分ぐらい休憩したかな、再び北に向けて出発です。
多賀、青谷、長池と進んでくると森山遺跡という道標が目に入りました。
これは寄らずばなるまい。
気持ちは萎えているものの遺跡と聞くとついつい好奇心が抑えられないのです。
森山遺跡に行ってみるとそこは住宅街の公園でした。
ここは縄文時代から古墳時代の集落跡で縄文時代の6棟の竪穴式住居跡と配石遺構(墓)が見つかっています。
弥生時代の遺跡としては2棟の竪穴式住居と甕棺、古墳時代の遺跡としては一辺が45mの方形周溝遺構とその周りに6棟の住居跡が見つかりました。
方形周溝遺構は全国的にも珍しく現在右の写真のように復元していつでも見られるようになっています。



ここから7kmぐらいで我が家です。疲れた身体に心地よい風が吹き気持ちがよい。
今日1日有意義な日が過ごせたと思います。家に着き、風呂に入って、ビールを飲む。美味いだろうな。

                             以上 暇人のサイクリングでした。




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