橿原市藤原京右京十一条一坊発掘調査
現地説明会(2003年11月15日)
毎度同じ説明で恐縮なのですが藤原京ってなんだろう?
694年12月持統天皇がここに都を移したのですが、造営は天武天皇が685年頃から始めたようだ。
天武天皇というのは天智天皇の弟で672年の壬申の乱の後、皇位を継いだ天皇で大海人皇子(おおあまのおうじ)のことです。
持統天皇というのは天武天皇の奥さんだったのですが、天武天皇の死後、次期天皇に着いたのです。
藤原京建都は大工事でした。山を削り、低地を埋め立て、道路を作り、大木を運び込み、宮殿を建てなければなりませんでした。
これまで発掘された中には、古墳を潰してしまいそこにあった埴輪なども粉々に壊した跡なども発掘されています。
「万葉集」によると滋賀県の湖南地方の田上山(たなかみやま)から材木を運んだという。
瀬田川、宇治川、小椋池、木津川と水路を使い、木津で陸挙げしたのち、陸路で奈良山を越え、奈良盆地に入ってからは、佐保川、寺川など再び水路を使ったらしい。
こうしてできあがった都は現在発掘調査が進むにつれて5.3km四方の大きさではなかったかと言われています。
これは平城京よりも大きかったということです。
日本で最初の条坊制を導入した本格的な都城であったこと、当時の世界最大の都市であった唐の長安に倣って都造りを行い、本格的な律令国家を作り上げようとしたこと、興味ある都ですね。
ところがたった16年で平城京に遷都してしまっているのです。この間の天皇はというと持統・文武・元明の3人の天皇でした。
今回の発掘調査は、県道橿原神宮東口停車場線建設にともなうもので、約2400uの調査だったのですが、同道路の建設にともなって、今回の調査区の東で、総延長約260m、面積にして約3400uを、平成12年から調査を実施しています。 今回の調査は平成15年4月から開始し現在も継続されています。 さて新聞なんかで話題となっていたのは左の図の朱雀大路なんですが、こんな内容でした。 『橿原市和田町の藤原京右京11条一坊で、飛鳥時代の寺院、和田廃寺(7世紀前半−8世紀中ごろ)に伴うとみられる掘っ立て柱建物群が見つかった。12日発表した県立橿原考古学研究所によると、藤原京の計画段階で造った道路を埋めて建てられており、寺域を通るはずの朱雀大路も存在しないことが分かった』(15年11月13日 奈良新聞) 左の図は橿原考古学研究所の現地説明会資料から、 青の楕円と赤文字は私の追加 |
以上のような予備知識を持って発掘説明会に出かけたのでした。
現地に行ってみると180m×13mぐらいでしょうか凄く細長い(道路建設に伴うものだから当たり前)調査地でした。
調査では先ず飛鳥時代の遺構が現れ、その下に古墳時代の遺構が出てきます。
現在は古墳時代の調査に入っているところでした。
飛鳥時代の遺構も藤原京造営以前と藤原宮期の遺構に分けることができます。
それは藤原京造営以前の建造物が建っている段階で、それを壊して藤原宮期の
建造物を建てたと考えられるからです。
藤原京造営以前の遺構・遺物
遺構には西一坊坊間路があります。西一坊坊間路の道路幅は約6.3m、これは天武期に取りかかった藤原京の遺構でしょう。
他に塀3、井戸4、溝3があります。塀3は建物方位が西一坊坊間路に対して大きく振れていることから、同時に存在したのかどうかはわかりません。
との説明がありました。
その他の遺構としては、建物2・3、塀1・2・6・7・8・9・10・12・13・15・16(上図にはありません)があります。
遺物は、和田廃寺にともなうと思われる瓦があります。軒丸瓦には素弁十一葉蓮華文軒丸瓦と素弁八葉軒丸瓦、軒平瓦には吉備池廃寺の創建瓦と同じ型押し忍冬唐草文軒平瓦と重弧文軒平瓦があります。ともに7世紀前半から中ごろに製作されたものです。
藤原宮期の遺構・遺物
建物5 |
井戸5 |
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井戸6 |
遺構には、多くの建物と塀、そして井戸や土坑があります。 これらの遺構は西一坊坊間路を埋め立てたのちにつくられています。西一坊坊間路の東西の側溝を埋めた土やこの地域全体を埋め立てた土(整地土)の中に大量の藤原宮造営直前から藤原宮期の土器が含まれていました。 このことから、西一坊坊間路を埋め立てた大規模な土地造成は、藤原宮期におこなわれたものとみてまちがいありません。 その埋め立てた土を掘り込んで、多くの建物や塀の柱穴や井戸が掘られています。これらの建物群の年代も藤原宮期以降のものと考えるのが自然です。 建物群は、建物方位がほぼ真北からわずかに東に振れるものと、西にわずかに振れるグループに分けることができます。建物の切り合いや柱の抜き取り穴からみつかった遺物などから、この地域では、前者から後者へと大規模な建て替えが1回あることがわかりました。 (説明会資料から抜粋) |
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左直線が塀4 右下が建物2(藤原京造営以前の建物) |
甕埋設遺構 |
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和同開珎銀銭は建物1の柱の抜き取り穴から出土しています。 |
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韓式土器というのは通常深鉢形の軟質土器で、外面には羽子板状の叩き板でタタキ目をつけたもの。 朝鮮半島の伽耶地域やや新羅の慶州に形態的に類似するものがあります。 |
古墳時代の遺構・遺物
左の写真は井戸1です。
古墳時代の遺構には井戸・土坑・ピット・流路があります。
井戸1は方形に木枠を組んだもので、その底の部分のみが残っていました。
土坑1からは5世紀中ごろの須恵器が出土しています。
流路は地形の傾斜にあわせて南東から北西方向に流れるもので、
古墳時代中期から後期の遺物が出土しました。
なお、調査区内で、点々と弥生時代中期から後期にかけての土器が出土しています。
(説明会資料から抜粋)
まとめ
(以下説明会資料を使用しました)
今回の調査でわかったことについて簡単にまとめます。
@飛鳥時代の遺構として、藤原宮期以前のものと藤原宮期のものがありました。
そして、ほぼ正方位をとる建物の大半は、大規模な建て替えが1回あるとはいえ、藤原宮期のものであることがわかりました。
A西一坊坊間路を検出することができました。
ただ、この道路は藤原宮期の大規模な整地にともない、埋め立てられてしまいます。
すなわち、藤原宮期には存在しません。西一坊坊間路は天武5年(676)の「新城」の造営によりつくられ、
その段階のみ存続した道路と考えられます。
B今回の調査では西一坊坊間路を埋め立てるような大規模な整地の痕跡がみつかりました。
西一坊坊間路を埋め立てるような大規模な整地には、どのような理由が考えられるでしょうか。
確定的なことはいえませんが、飛鳥から藤原京への遷都にともない和田廃寺の寺地の整備がおこなわれたとは考えられないでしょうか。
そこで、今回の調査で多数検出した建物群の性格は、すべて掘立柱建物ではありますが、
和田廃寺にともなう雑舎群と考えるのが自然な解釈だと思います。
C一昨年の調査で東一坊坊間路がみつかっています。
今回の調査で西一坊坊間路がみつかりました。
単純に考えれば、その中点に朱雀大路があるはずです。
この部分は平成12年にすでに調査をしています。
中点にあたる位置には藤原宮期の溝がみつかっているだけで、側溝の想定される位置には、溝はありませんでした。
また、隣接して、南北方向の掘立柱塀も検出されています。
朱雀大路の側溝だけが削平されたとも考えにくい状況です。
これまでの調査を総合して考える限り、この地において、朱雀大路の存在を考えることは困難なように思います。
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