飛鳥京跡151次調査                  16年3月13日





飛鳥京についての基礎知識
 一般に飛鳥時代というと592年12月、推古天皇が即位したときからでしょうか。翌年4月には聖徳太子が摂政となっています。
推古天皇と聖徳太子が政治を行なったのが豊浦宮(とゆらのみや)です。
この時代、天皇(大王 おおきみ)が代わる度に宮を作っていました。
舒明天皇(34代)は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、皇極天皇(35代)は飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)、斉明天皇(37代)は後飛鳥岡本宮(のちあすかのおかもとのみや)、天武天皇(40代)と持統天皇(41代)は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみがはらのみや)を作っています。
飛鳥京というのはこれらの宮の総称です。また飛鳥京の北西100mには噴水があった飛鳥京池が発掘されています。飛鳥京の庭園だったのでしょうね。



それでは今回の発掘を紹介してみましょう。(以下当日配布現地説明会資料を参考にしました)



      上下の図は当日の現地説明会資料からコピーしました。
 飛鳥京跡は明日香村岡に位置する宮殿遺跡です。
1959年からはじまった発掘調査により、基礎知識のところに書いたように3時期の遺構が重なって存在しています。
下層からT期・U期・V期遺構と呼びます。そして、出土した土器や木簡の年代などからV期は斉明・天智の後飛鳥岡本宮(656〜)と天武・持統の飛鳥浄御原宮(672〜694)であることがほぼ確定し、T期が舒明の飛鳥岡本宮(630〜)、U期が皇極の飛鳥板蓋宮(643〜)である可能性がいわれています。
 今回の発掘調査は、V期(後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)の宮中枢の建物配置の解明、ならびに、その下層にあるU期(飛鳥板蓋宮)、T期の構造解明を目的に、平成15年11月から実施されました。
 ところで、V期は内郭とエビノコ郭とから構成されます。内郭だけの段階が後飛鳥岡本宮、内郭にエビノコ郭が付加され外郭が整備されたのが飛鳥浄御原宮と考えられます。
大まかにみて、内郭は内裏、エビノコ郭は大極殿に相当する施設と考えられます。研究所では1979〜80年に内郭南門と内郭前殿の調査をしています。今回の調査区はそのすぐ北にあたります。


左図はこれまでの発掘状況と今回の調査区(黄色部分)です。



【檜隅大内陵(野口王墓古墳)】
上の写真は後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の天武・持統天皇の御陵で、飛鳥京跡から歩いて15分ぐらいのところにあります。


発掘調査の成果


今回の調査では建物と石組溝、石敷広場、池、塀を検出しています。
すべてV期に伴うものと考えられます。
建物は調査区の北東で検出されています。
今回の調査では建物の南西部分1/4だけの調査となりました。
東西4間以上、南北2間以上の非常に大きな建物です。
南には庇をもち、建物の周囲を石敷がめぐります。
西に床が張り出していた形跡(縁)があります。
建物のすぐ南をとおる東西方向の石組溝を雨落溝としています。
また、建物の西妻から2間目に階段を取り付けた痕跡が確認できました。
建物は階段の張り出しから推定すると、床の高さが2m前後の高床の建物と
することができます。
建物の南正面には、南北約12mの石敷広場がひろがっています。
わずかに石が抜き取られたところがあるほかは、ほぼ完全なかたちで石敷が残っていました。
石敷は基本的に人頭大の石を敷きつめたものですが、よくみると石の目地の通るところや小振りの石を方形に敷きつめたところ、小振りの石を部分的に敷いているところなどがあります。
それぞれ石を敷いたときの単位、改修痕跡である可能性があります。



建物の西では、砂利を丁寧に敷いた池の跡がみつかりました。(右写真)
南辺を東西の石組溝、東辺を南北の石組溝によって区画されたもので、
北西や西に蛇行状にのびる窪みに州浜のように砂利が敷かれています。
また、各所に人頭大の石を配しています。











さらに、北西や西にのびていく可能性があります。
建物にみられた西への床の張り出しは、この池との関係で理解できるのではないでしょうか。
池は建物とほぼ同時につくられ、建物よりは早く埋めたてられています。
石敷広場の南辺で、東西方向の塀を3条検出しました。
内郭前殿のある南区画を分ける施設とみてよいと思います。
北にある建物をより厳重に護るための施設と考えられます。
しかし、今回の調査では南区画と北区画をつなぐ門のような施設は確認することはできませんでした。
今回の調査では、U期(飛鳥板蓋宮)、T期の構造解明も一つの目的でしたが、V期の石敷の残りが良好であったため、十分な調査をすることはできませんでした。
しかし、石敷の石が抜かれているところでT期の柱穴を検出しています。

まさに説明会資料の通り、完璧ともいうべき発掘状況でした。
これじゃ、説明会を開かないとその下に掘り進めませんよね。
左の写真の土が見えている部分が建物跡で柱跡も確認できています。
南側の石敷きと階段の痕跡があり、また庇(ひさし)も確認できていますし、以前この南で発見されている前殿よりも大きく正殿である事は間違いないでしょう。

写真を見ていただいたらお分かりでしょうけど石敷きの石は人頭大でほぼ完璧な形で出土しています。
朝日新聞に国際日本文化センター教授千田稔氏の話として載っていたがまさに宮にかかる枕詞の「百敷(ももしき)の」を連想させる発見でしょう。
その南端(写真左端)は東西に3条の塀が並んでいた柱跡があり、壬申の乱を経験してきた天皇の宮であるからこそ防備を考えていたのではないかと私は推測しています。

当日はご覧のような報道関係のヘリコブターが3機も飛んでいました。
ヘリコブターが近くに飛んでくると説明会の音声も何も聞こえなくなります。
推古天皇の植山陵の時もそうでした。
参加している者にとってはとっても迷惑です。
もう少し配慮して欲しいものです。



左の写真は説明会の様子です。


まとめ (説明会資料から引用しました)
 今回の調査では、V期(後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮)にあたる巨大な建物とその南にひろがる石敷広場を検出することができました。
建物は南西部分1/4だけを確認したにとどまりますが、仮に内郭の南北の中心軸で折り返すと、東西8間(24m)という巨大な建物となります。
すぐ南でみつかっている内郭前殿は東西7間ですから、それよりも大きいということになります。建物の正確な南北規模は、来年度の調査を待たねばなりませんが、3間ないしは4間とみるのが妥当です。
また、南に庇をもつことからも、今回検出し建物を内郭北区画にある正殿級の建物とみてほぼまちがいはありません。また、石敷広場は南北約12mと内郭前殿の前の広場とほぼ同じ規模です。
内郭前殿と今回みつかった区画が、計画的につくられていることがわかります。石敷広場の南辺では塀を3条検出しました。これも、今回の調査でみつかった建物と石敷広場を厳重に区画するためと考えることができます。
こういったことから、建物は内郭北区画のなかでも、きわめて神聖かつ重要なもの、すなわち、天皇(大王)にかかわる正殿である可能性がきわめて高いと考えられます。
さらに、建物の西から砂利を敷いた池がみつかりました。このような池は吉野離宮といわれている宮滝遺跡でみつかっていますが、宮の正殿級の建物に隣接してみつかるのははじめてです。
州浜状に砂利を敷いているなど、これまでの飛鳥時代の庭園としては類例のないものです。
それが、また、天皇(大王)の私的空間の正殿に隣接してみつかったことから、天皇(大王)の私的空間の形態や当時の王権の形態を考えるうえでも重要な問題を提起するものと思われます。
 今回の調査は、建物の規模の確定や池の性格の究明などになお課題が残りましたが、今後の調査の進展に大きな期待がもてる調査となりました。
なお、この調査は、飛鳥正宮の学術調査事業にもとづいて実施したものです。




            難波宮跡北西部調査   唐招提寺金堂修理事業に伴う発掘



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