唐招提寺金堂                           16年9月11日
    保存修理事業現場公開

 唐招提寺といえば鑑真、鑑真といえば唐招提寺と言われるように共に有名なのは、井上靖氏の小説『天平の甍』だけではなく、
唐の高僧鑑真和上、その人の偉大さからなのでしょう。
鑑真は聖武天皇の招きに応じ、台風との遭遇の末、失明してまでも12年の歳月を要して来日を果たしたのでした。
来日後の5年間は東大寺にあって、授戒を制度を築き上げました。今も、東大寺戒壇院には鑑真の座像が祀られています。
 さて、授戒を制度を確立した鑑真は759年、聖武天皇から故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、ここを私寺として「唐律招堤」を開いたのが唐招提寺の始まりです。
ここは戒院としての教学の場として、そして建築、医学、美術の伝播の場として、倭と唐が融合した新しい文化が創出されていく寺院となったのでした。 
その後、寺は拡張されていき、鑑真に伽藍全体が完成したのが弘仁年間(810年代)とされています。

そして、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となったといわれています。

 平成7年の神戸淡路大地震で建物全体の現状調査が実施され、柱の傾き、梁や垂木のたわみ等が発見され、直ちに修理を施す必要があるということになり、修理を目的に再度大掛りな調査が始まりました。
その結果、平成12年から10年間のレンジで解体修理が行われることになったのです。

 平成10年12月には唐招提寺は世界文化遺産に登録されました。
この文化遺産を長く後世に伝えて行くのが私達の使命だと思います。


16年9月11日の金堂
解体修理の日程

12年 1月 金堂修理事業開始
12年12月 金堂覆屋根完成、廬舎那仏、千手観音搬出
13年 4月 金堂解体調査着手
14年 3月 廬舎那仏・千手観音保存修理終了
15年12月 金堂解体調査終了
16年10月 金堂の組立を開始
19年 9月 金堂組立終了
20年 3月 金堂覆屋根解体
21年 8月 金堂平成大修理落慶法会



本日は金堂の組み立て開始の直前の公開ということです。
このページの一番上の拝観券の金堂が↑写真のようにスッポリ覆屋に覆われて、解体が始まりました。

そして覆屋の中は、全ての部材が取り除かれて、→写真のような状態です。

解体後更に基壇部の調査が行われ、今回、築造方法の説明会となったわけです。


この覆屋は6階建ての高さがあろうかと思われる程、大きなものです。
金堂解体前の須弥壇と本尊



屋根部の解体の様子

いずれの写真も現地パネルより               


さて、本題に入ります。
唐招提寺は境内に金堂、講堂を含む5棟の国宝建造物、3棟の重要文化財の建物があります。この中でも金堂は奈良時代建立の金堂として唯一現存する建物です。
正面7間(7間というのは、柱が8本、その間が7つあるという意味)、側面4間(南側1間を通りを吹放)、一重(単層)、寄棟造、本瓦葺です。
奈良時代の仏堂形式をよく伝えている建物で、京都の寺には見られない形式です。
上の写真からも分かるように、須弥壇には中央に本尊盧舎那仏、手前が薬師如来、奥が千手観音、小さい6躯の天部像が安置されています。
天井や正面板扉などには極彩色の文様、仏像が描かれ、堂内外は華麗な装飾で覆われていました。

 平成12年より実施されている金堂の解体修理に伴い、平成16年1月から7月までの間発掘調査が行われました。
創建当初の基壇(土台)、須弥壇の様相、基壇改変の時期と内容、礎石の据え付け方法などの解明を目的として、約900平方メートルの発掘調査なのです。


創建当初の金堂基壇の様相
 地中から創建当初の基壇石組(基壇化粧)と考えられる凝灰岩・?セン列が見つかりました。凝灰岩は大きいもので高さが約35cm、基壇の各辺に直行する奥行きが約30cm、基壇の各辺に平方する長さが約60cmです。
奥行きが20cm以内のものが殆どで、基壇の内面側が一段低く彫りこまれているものもあります。  (?セン=土ヘンに専)
これらの凝灰岩は一列に敷かれた?センの上に据えられています。
現在の基壇よりも60cm外側で出土したこの?センまでを創建当初の基壇とすると、平面規模は東西36.4m、南北23.0mとなります。
現在の基壇石組は花崗岩製で江戸時代の改変によるものです。この基壇石組の裏込め土からは凝灰岩切石が出土しています。これらも創建当初の基壇石組に使われていた石材だと考えられます。
 ただし、これら当初の凝灰岩石材の形状から推察すると、当時は現在のような一重の壇上積基壇とは異なり、上下二段からなる二重基壇であった可能性があります。
その場合、今回見つかったのはその下段の一部分と考えられます。
       下の写真が凝灰岩・?セン

 基壇本体の下半は整地土の上に約30cm単位で厚く粘土を積んでいます。
上半は約10cm単位で土を置いては叩き締めながら盛り上げています。(写真上および左)
創建時には現在の基壇とほぼ同じ高さまで土盛りされ、その土が須弥壇最下部にまで及んでいることを確認しました。
須弥壇の平面規模は創建時からほとんど変わっていないようです。この土盛り作業の途中に根石と礎石を据えて、周囲に再び土を置いては叩き締めるという作業を繰り返していたようです。
また、東西南北各面の階段も同様の土盛り作業をして基壇と一体で作られたことが分かりました。
現在は失われていますが古図や過去の発掘調査で、中門との間を結ぶ回廊が金堂の東西に存在していた事が分かっています。今回の調査では回廊北辺部分が見つかり、柱間二間の幅の回廊が東西に取り付けられていたことを再確認しました。


金堂基壇の変遷
 基壇には中世、近世、明治期の改変の跡が見られました。中世には須弥壇全体に手を加えて、花崗岩製の石組としました。基壇石組も凝灰岩製のものから花崗岩製のものに取り替えられたようです。
近世の改修ではこの基壇石組もほとんどが現在見られるもの(花崗岩製)になりました。
基壇上面には、近世、明治期の足場穴や、土こね場遺構などが残されています。
これらは、当時の修理の状況をうかがい知る遺構です。文献には鎌倉時代に2度、江戸時代に1度、明治期に1度大規模な修理が行われたと記されています。今回の発掘調査によって実際にこれらの修理の様相を具体的に確認する事ができました。

須弥壇に掘られたトレンチ。下部は金堂基壇の土が見える。
その上に鎌倉時代に土が盛られて須弥壇を高くしたものと思われる。

土こね場遺構。分かりにくいですが、白線が描かれているところに作業をしていた人の足跡を見ることができます。

礎石とその下方にある根石。これらが金堂を支えているのです。

一番背の高い仏像、千手観音の下部はこれだけの太い木で基礎が組まれています。地震でも倒れない工夫なのでしょう。


出土遺物
 現在の基壇石組裏込め土から、瓦とともに奈良時代の押出仏、三彩壷、二彩軒平瓦などが出土しました。
なかでも押出仏は、唐招提寺所蔵の押出仏(重要文化財)と同じ型を使用して作られたものです。
また、基壇上面の遺構からは金箔を貼った?セン仏が出土しました。東面階段の積み土からは奈良時代の鬼瓦が見つかっています。
土こね場遺構からは焼く前の近世瓦が出土しました。焼く前のものがそのまま残されることは大変珍しく、貴重な資料です。

上の写真では分かりにくいですが、右の写真の部分です。

三彩壷

二彩軒平瓦

これは右の写真の黄色い部分です。
大きさは右の写真の物指しを参考にしてください。
7cm四方ぐらいでしょうか。

金箔が残っている事が分かりますね。


上で、
?センと書いていたのはこの字です。

これは、荘厳具といいます。

右の写真と同じ形の鬼瓦です。ユーモラスな形ですね。

まとめ
今回の発掘調査によって、創建当時の基壇の平面規模が現在のものより一回り大きく、構造も異なるということを確認しました。
また、これまで考えられてきたように8世紀後半から9世紀初頭の間に創建されたのだということも再確認しました。
さらに、その後の中世、近世、明治期における遺構の変遷も明らかとなりました。
 これまで金堂の基壇は創建当初の様相がほとんど不明であっただけに、今回の成果は大変意義深いものだと言えるでしょう。


 以上、当日配布の「奈良県教育委員会 文化財保存事務所」「橿原考古学研究所」による資料を基に作成いたしました。





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