難波宮跡北西部調査                16年2月21日(土)



予備知識
難波宮を語るには大化の改新(645年)のからむ「乙巳の変」辺りから述べねばなりませんが、ここを詳述していると本題の発掘調査の話に入れないですから簡単に述べる事にいたします。
「乙巳の変」とは皇極天皇のとき中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂・佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田らによって蘇我入鹿を殺害したことに始まる事件です。
この事件により年号を「大化」と改めて皇極天皇は弟の軽皇子を天皇としました。この天皇が孝徳天皇で飛鳥で即位しました。そして中大兄皇子が皇太子となったのです。
孝徳天皇はこの年の12月に都を難波に移し、難波宮を建設したのでした。
遷都したときから都は発展して行ったのでしょう。
冠位十二階から七色十三階のちに十九階に変更しているのは官人の増加と制度の矛盾点とかが出てきたからなのだろう。
確実に進展している様子が窺える。
このころの大阪は難波津という港があり、大陸との交流の表玄関でもあった。ここに都を移すことはそれなりに意味のあることだったのでしょう。
650年、年号を白雉と改め難波長柄豊崎宮の造営を始めました。そして652年9月、難波長柄豊崎宮は完成したのでした。

ところがである。653年、お坊ちゃま育ちの孝徳天皇と強行で強引な中大兄皇子が対立してしまった。中大兄皇子は都を飛鳥に戻すといい、孝徳天皇をおいてさっさと奈良に戻ってしまったのでした。
中大兄皇子に付いていったのは母である皇極上皇、弟の大海人皇子。それになんと孝徳天皇の皇后である間人皇女も飛鳥川辺の行宮へ行ってしまったのです。
そして654年孝徳天皇は病に倒れ10月10日寂しく難波長柄豊崎宮でこの世から去ったのでした。

そうなると次期天皇は中大兄皇子となるはずだったのですが、ところが次期天皇は皇極上皇が再び斉明天皇として飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で即位重祚したのです。
斉明天皇の時代飛鳥には多くの百済の人がやってきました。その人々をもてなす為だったのでしょうか、多くの土木工事がなされ石と水を利用した施設が大規模に造られています。
この作業に駆り出された人の苦労は大変なもので不満タラタラだったということです。
斉明天皇は661年、唐・新羅の連合軍が百済を攻めたため、その百済救済に出兵したが筑紫まで行ったところで急逝したのでした。

この後は中大兄皇子が天智天皇として即位し、滋賀県大津市に遷都したが、死亡後壬申の乱が起こり大海人皇子(天武天皇)が再び飛鳥を都とした。
都城としたのが飛鳥浄御原令を発布した飛鳥浄御原(きよみはら)だったのです。
斉明天皇の板蓋宮と浄御原はほぼ同じ場所です。


時は流れて奈良時代。天皇は聖武天皇に代わっていました。
740年、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都する事にしたのです。
そして翌741年には恭仁京造営に力が注がれるのです。さらに国分二寺の造営の詔も発せられています。
ところが、744(天平16)年閏1月、聖武天皇は恭仁京から難波京に都を移してしまうのです。
そして1年でまた滋賀県紫香楽に遷都しているのです。それなのに半年で再び平城京に遷都しているのです。
この遷都の意味は不明ながら再び難波が一時的とはいえ都となったのです。








難波宮跡北西部 (以下当日配布(財)大阪府文化財センター資料による)

調査の経過
 今回の調査は、大阪府警察本部棟の新築第2期工事に伴うものです。
今回の調査では、豊臣期の大坂城に関わる大規模な堀を検出し、大坂冬の陣前後の緊迫した状況を具体的に垣間見ることができました。
その後、調査地北東部で古代の谷を検出し、ここから20点を超える絵馬や祭祀に関わる遺物が出土しました。これらは難波宮との関係において重要な調査成果であり、再び一般公開を行なうことにしました。


ふたつの難波宮跡
 今回の調査地の南東には難波宮跡が史跡公園として整備されています。
この難波宮跡はこれまでの発掘調査で大きく(予備知識で説明したように)2時期に分かれることが明らかとなっています。
そのうち前期難波宮と仮称される古い段階のものは、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)にあたると考えられています。
また、瓦を伴う後期難波宮跡については神亀3(726)年に造営が開始される聖武天皇の宮と考えられています。


出土した遺物
 今回の調査で検出した谷は古代にさかのぼるものであり、下層を中心に多くの遺物が出土しています。
その中でも3層とした粘土層からは絵馬や斎串(いぐし)のほか、人形(ひとがた)や琴柱(ことじ)などの祭祀関連遺物が出土しています。
3層の出土遺物は大半が7世紀のものですが、わずかではありますが重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)や奈良時代の土器片が出土しています。
絵馬は現在までに26点の出土を確認しており、一遺跡での出土数としては群を抜いています。
出土した絵馬は幅24cm前後のものが大半を占めていますが、小振りのものも出土しています。
描かれた絵馬の多くは鞍や障泥(あおり)、鐙(あぶみ)などを表現した飾(かざ)り馬が多く、半数以上が右向きです。
多くの馬は墨で描かれた輪郭や鞍、障泥などが残るのみですが、一部では赤色顔料が残っています。
 これらの絵馬は他の祭祀関連遺物などとともに難波宮に関連する国家的祭祀に関わるものである可能性が高いものと考えられます。
このほか、今回の調査では4層とした砂層から7世紀後半以前の土器とともに、漆(うるし)が付着した土器片が1,200点以上出土しています。
前期難波宮の段階に当地へ各地から多量の漆が運ばれてきていたことを示しており、すでに今回の調査地の南側で検出されている大蔵と考えられる内裏西方倉庫群との関連においてもきわめて重要な位置を占めるものといえます。


人形(ひとがた)と木簡

琴柱

後期難波宮の瓦

小型の机

各地から漆を運んだ土器

絵馬


絵馬

絵馬



  絵馬
これらの出土品はいづれも調査地の東側地図上の「谷2」から発掘されました。
2000年の調査の時には「谷1」からも木簡や祭祀関連物が出土しています。



古代の谷
今回の調査では調査地北西部と北東部で古代の谷を検出しました。
北西部の谷は2,000年の調査で検出した東西方向の谷「谷1」につながるものです。
この谷からは西暦648年にあたる「戊申年(ぼしんねん)」と書かれた木簡が出土しています。
今回の調査ではこの「谷1」の続きの調査に期待がかかりましたが、豊臣期の大坂城の堀によって削られていたこともあり、部分的にしか残っていませんでした。
しかし、調査地北東部では南東から北西に向かってのびる谷を新たに検出しました「谷2」。
この谷は全体からすると西側の肩部を部分的に調査したのみですが、調査地東端では花崗岩の集積を検出するなどしています。
また、谷の南側では3個の柱穴が東西に並んで検出されました。2個には直径約30cmの柱が残り、西側の柱は立ったままの状態を留めていました。
この柱列は塀である可能性も高く、前期難波宮跡の宮域(きゅういき)の推定北端とほぼ一致しています。
詳細な検討はこれからですが、今回の調査成果は難波宮跡北西部における土地利用の様相を考える上できわめて重要な意味を持つものといえます。





現地説明会資料作成後、継続して「谷2」の調査を進めたところ、谷の南側から東西方向の柱列を検出しました。
この柱列は難波宮の宮域の北限を考える上できわめて重要な意味をもつものです。

「谷2」の南側から谷を横断する形で柱穴列を検出しました。柱穴は3個が東西に並んでおり、そのうちの2個には柱がそのまま残っていました。

(左の2つの穴です。3つ目は写真に写っていないですがこの写真の下にありました。)


柱穴はいずれも方形であり、一辺85〜110cm、深さは25〜60cmを測ります。
西側の柱穴1(写真中)には直径30cm、長さ58cmの柱材が立ったままの状態で残っていました。


中央の柱穴2(写真下)は北側に向って柱の抜き取り穴が掘られていますが、柱は傾きながらもそのまま残っていました。
長さ105cm、直径は約30cmです。





柱穴3には柱材は残っていませんでした。








今回、新たに検出した柱穴列は、東西方向の一本柱塀であると考えられ、地形の起伏に合わせて造営されています。

現在も調査中であり、前期難波宮もしくは後期難波宮に帰属するものであるのかは不明ですが、柱材の年輪年代測定が可能であれば、今後、難波宮の造営に関わる実年代が明らかとなる可能性もあります。

時期などに不確定要素を残すものの、今回の調査で検出した柱穴列は難波宮と無関係であったとは考えられません。

この柱穴列は中尾芳治氏が推定された前期難波宮跡の北限ラインにも近く、難波宮の宮域の北限の有力な候補として、きわめて重要な位置を占めるものであるといえます。






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