悲愴ソナタ第2楽章 by ノクターン様


山辺の道 (天理〜三輪)                        15年10月25日

9時30分天理駅に集合。
本日はご覧のように快晴、気分よく歩くことができることを確信しました。
天理市というのはご存知のように天理教の中心地(おぢばというらしい)です。
今日はここを出発地点として山辺の道を歩くことにしました。







やっぱり天理ですね。
街中を歩いても天理教の黒いハッピを来ている人がいっぱいいらっしゃいました。
今日は何かお祭りがあるのでしょうか?
全国から信者の方が集まられているようでした。




石上神宮(いそのかみじんぐう)です。
百済の王が15代応神天皇に贈ったという国宝「七支刀(ななつさやのたち)」がありますがこれを見ることは出来ません。
創建は崇神天皇ということになっています。


拝殿の写真です。
祭神は神武天皇が東征の際に天より下され、大和を平定できたという神剣、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)です。
他に饒速日尊(にぎはやひのみこと)が祀られています。



天理駅から3.7km。園原町にある茶店のメニューです。
お気に入りは「しぼりたてすだち」のジュース100円です。これは疲れもいっぺんに吹き飛んでしまいます。
といってもこの程度の距離ではまだ疲れていないのですが。


夜都伎神社の拝殿ですが、屋根が茅葺で鰹木9本も
茅を束ねたものであるのは見所でしょうか。
天井はなく茅葺屋根の裏側が直接見られますよ。


夜都伎(やとぎ)神社
左は拝殿、右はその奥の神社本殿です。
天理市乙木にはもと、夜都伎神社と春日神社の二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換し春日神社1社とし、社名夜都伎としたものである。
奈良の春日大社と関係が深く、明治維新までは「蓮の御供」と称する神選を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていたといいます。





天気もよく、今日はハイキング日和。
我々の前にも多くの人が歩いておられます。

のどかです。名前も知らない野の花や、山々に心安らぐ思いです。

西山塚古墳
全長114m、後円部径65m高さ10m3段築成、前方部幅65m高さ7m2段築成の前方後円墳です。
6世紀前半の築造時で、手白香皇后陵と言われていますが詳細は不明です。
大和古墳群の中で、この古墳の珍しいところは、北向きであることと埴輪が高槻市の新地埴輪窯で焼かれたもであることです。
写真は後円部分ですが、現在の姿はご覧のようにミカン畑です。
あのミカンの下には石棺がまだ埋まったままなのですが。

写真下部の緑色のところは周濠で古墳自体が斜面にあるため段差のある4つの池に分かれています。

衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山径往者 生跡毛無

衾道(ふすまじ)を引手の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし  人麻呂

のどか のどか なんとも言えない豊かな気分。







時刻は12時ジャスト。
「食料を仕入れに行かなくては」ということで国道169号線の方に向かいました。


購入した食料を持って、1998年三角縁神獣33枚が出てきた黒塚古墳横の公園に行き昼食といたしました。




黒塚古墳


         三角縁神獣鏡


       画文帯神獣鏡

この日の黒塚古墳は芝生を敷く作業中で側には寄れませんでした。
下の3枚の写真は古墳横の展示館で写したものです。
三角縁神獣鏡とは、鏡の断面で縁の部分が三角形に見えることと、鏡の裏側に神仙思想に基づく東王父や西王母などの神像と霊獣の文様がある鏡のことです。
「魏志倭人伝」の記述に魏の年号で景初3年(239年)に卑弥呼の使者が銅鏡100枚を下賜されとの記述がありますが、その景初3年の文字が銘帯に見られるものが発見されてから三角縁神獣鏡こそが「魏志倭人伝」に記された「銅鏡百枚」に当たるとして大騒ぎになったことがあります。
邪馬台国に持ち帰られた後、大和政権に引き継がれ地方の豪族に配布されたと言われていましたが、約500面の三角縁神獣鏡が発掘されてしまっては「銅鏡百枚」とは関係がないのではないでしょうか。
それに実際にはなかった年号景初4年というのが見つかるに到ってはますます怪しいと言わざるを得ません。さらに中国では「三角縁神獣鏡」が1面も出土していないことから国産鏡との説も根強く論議が続いています。

その三角縁神獣鏡が一番多く出てきたのがここ黒塚古墳なのです。
古墳は、全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6mの前方部を西側に向ける前方後円墳で、後円部中央に、墳丘主軸に直行して南北方向に竪穴式石室が造られています。
石室は幅約1.3〜0.9m、高さ約1.7m、長さ約8.3mで、川原石と二上山の板石を用いた合掌式のです。
石室中央には長さ6m、直径1m以上の桑の巨木をくり抜いた木棺が使用されていた。現在木棺は腐り粘土の棺台に残っています。(展示館説明書から)




崇神天皇陵

この天皇こそが初代天皇ではないか。
欠史八代の天皇のほかに初代神武天皇も記紀の作成時に創作されたのではないかと思われるふしがある。
御肇国天皇の名前も気になるところであるし、今日最初に行った石上神宮創建して布都御魂、素佐之男尊、饒速日尊、宇摩志麻治尊の4代の御霊を祀ったこと、熊野本宮も大神神社も創建しています。
いずれも饒速日尊を祭神として祀っていること。
御肇国天皇の名前からして初代天皇に相応しいではないか
一方、神武天皇というと始馭天下之天皇であり、記紀の記述から初代天皇となってはいるが、このあたりのことについては天武・持統天皇による歴史の捻じ曲げという説があり、天皇家が天照大神の子孫であるという事にしたのだろうか?

初代天皇の先祖が饒速日尊か天照大神かは大いに興味を持つところである。
秋ですね。
崇神天皇陵はこんな風にススキがいっぱい穂を出していました。



景行天皇陵

崇神天皇陵から10分ほど南に歩いたところに景行天皇陵があります。
景行天皇は崇神天皇の孫で垂仁天皇の子供。
垂仁天皇に望むものを聞かれた際、皇位を望んで即位しました。
77人の皇子皇女があり、その子供達を全国に派遣して諸国支配を成し遂げていった天皇である。
特に日本武尊は九州の熊襲や東国の蝦夷を倒ち負かした話は有名。

全長は約300mの前方後円墳であり、後円部分の直径160m、前方部の幅170mの3段築成です。
前期古墳では最大の大きさで埴輪では形象埴輪の初期のものといわれている。



景行天皇陵を後にして次の目的地、大神神社(おおみわじんじゃ)に向かいました。

ここまでの道端には柿・ミカン・枝豆等の無人販売所が沢山ありました。
ここはオバチャンがいてここの柿は美味しいよと言ってました。
これまでのところは柿6個100円でしたが、ここは8個100円なのです。
いろいろ、話していると「これはキズものやから持って行き」と人数分持ってきてくれました。
ということで9個で100円でした。
安い!なんかスッゴク儲けたような気になったしまいました。


道端には見知らぬ実や花が目を楽しませてくれます。

夕刻も近づいてきました。
本来なら桜井まで行く予定だったのですが、これでは最後まで行けそうにありません。
黒塚古墳で時間を使いすぎてしまったのでしょう。
大神神社を最終目的地に変更しました。

桧原神社と大神神社へ
大神神社の摂社で元伊勢と呼ばれている。
注目すべきは鳥居の形です。これは三輪鳥居といって真ん中の鳥居の両側に張り出している半鳥居が特徴です。
この鳥居は潜って通るものではなく、神の坐す神聖な地と人の居る世界を分ける意味があるのでしょうね。
神社の御神体は拝殿の後ろにある三輪山です。ここに坐す祭神である大物主大神は大国主神とも言われています。
当然ここにも三輪鳥居があってその奥は神聖な神の地なのです。
残念ながらその三輪鳥居は拝殿からはその姿を見ることが出来ません。
写真の建物は拝殿であって本殿というものはありません。


大神神社を出たとき日没となり、今日1日も夜の帳が降りてくる頃になりました。
三輪駅には電灯が燈っています。
ここで230円のものを買おうとしたのですが、生憎小銭は220円しかありませんでした。 
そしたら売店のオバチャンは「ええから、ええから、あんた男前やからまけといたげる」って。
今日は柿1個と10円の儲けでした。(笑)



                   96回宇治の探索へ      98回水尾、明智越え




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