終着駅 by 音楽の部屋様

水尾 明智越え           2003年11月22日



 京都駅を8時3分発の園部行き各駅停車に乗り込みました。 紅葉シーズンとあって、嵐山へもみじ狩りに行かれる方で満員です。
本日の集合場所は保津峡駅9時30分です。満員電車ですから我々歴遊会メンバーがどこにいるのかも分かりませんでした。

保津峡駅に着くと、ここで降りる人は少なく、本日の参加者は11名でした。

左の写真は駅の改札口と右は保津峡駅です。
なんと鉄橋が駅になっているんです。
改札は右端にあります。
9時45分駅を出発、一路水尾へ向かいます。
途中こんな注意書きがありました。

いえね、がけ崩れを気にしたのではなく、府道嶬峨亀岡線という文字なんです。
見慣れない文字というものは目に付きますね。
なんて読むのだろう?一瞬躊躇するように間があって「なんや、嵯峨かいな!」
漢字が間違ってまっせ。

で、結果から言ってどこが通行できないんや。 これで引き返したらどうしてくれるねん。
情報は正確にしていただきたい。

道は舗装されていて歩きやすいところです。自動車道でもありますから坂は急なところがありません。
けっこう楽に水尾まで行くことができました。

以下は水尾の観光案内板から写してきました。
水尾は、昔は山城と丹波の両国を結ぶ要所に当り、早くから開けていたらしく、東の八瀬大原に対して、西の清浄幽すい境として、
大宮人にも、よく知られていたようである。
たとえば、奈良時代の宝亀三年、光仁天皇は奈良から、また延暦四年には、桓武天皇も長岡京より行幸になっている。
また源少将仲頼も当地に隠遁されている。
そして源氏のご先祖、清和天皇は陽成天皇に譲位後水尾に住まわれ、大変お気に召されて「ここを終焉の地と定む」と仰せられた。
そのご遺詔により、水尾山上に葬ったのが、今の水尾山稜である。
その他、水尾には千余年の歴史による風俗、習慣が今も多く残っている。
古老制(左家、右家)とか、頭式祭・候中式事・精進頭・六斎念仏等・・・・。

また水尾婦人の榛の木染の三巾の赤前垂れは、天皇に仕えた女官の緋の袴の遺風であるとも伝えられている。


水尾の特産物

水尾は耕地が僅かであるが、気候風土が適するのかいろんな果樹がよく繁茂するが、現在は柚子、梅が特産である。
特に近年柚子を加工した菓子や料理など、そして柚子風呂も全国的に有名になり、
都塵を離れ、憩いの観光客も多く訪れるようになった。


  美しき山あり 水あり 人のあり
    また訪ねてみん 陵(みささぎ)のむら
水尾の村から清和天皇陵に向かうところに茶店がありました。
柚子の最盛期なのに(で)店は土曜日でしたがお休みでした。

右は本日参加の美女4名です。

本当に静かでひっそりとした水尾の村です。

あっ柚子風呂だ。
柚子風呂にも入ってみたかったのですが、歩き出して1時間ほどしか経っていない。
風呂に入るには少し早すぎというところですか。
仕方なく通過ということにしました。



清和天皇陵
こんな山奥なのにさすが天皇陵、よく整備されています。

奥のほうを観察すると一応、方墳でした。
でも、ここには遺骨を埋めてはいません。
清和天皇の火葬塚は左京区の黒谷さんに在りますからね。

清和天皇とはどういう人なんだろう。名前は清和源氏でなどで聞くことはよくあるんだけど
在位期間は858年 8月27日〜876年11月29日
文徳天皇の第四皇子で、藤原良房の孫にあたります。この良房は藤原冬嗣の子で文徳天皇の外戚として太政大臣になった最高実力者なのです。そして娘の明子と文徳天皇の間に生まれた惟仁親王を生後9ヶ月にして立太子させたのでした。
文徳天皇が没すると9歳にして即位したのが清和天皇なのです。

この清和天皇の第1子がこれまた9歳で即位した陽成天皇なのですが、この天皇はどうも悪だったようで17歳の時に宮中で殺人事件を起こしました。
詳しくは触れませんが、これにより清和源氏の祖は陽成天皇であったのだけど源氏の祖とするわけにいかず、一代繰り上げて清和天皇をその祖としたという説もありますが実際のところはどうなんでしょうね。

    水尾の景色をご覧ください。

          まさに晩秋でしょ。

      もみじも色づいていました。

江戸初期には80戸以上あったという水尾は現在40戸たらずとなっています。歩いていて気が付くのは「松尾」姓が圧倒的に多いことです。インターネットで調べると、古くから住ん出いる人の姓は松尾、竹花、田中、辻、村上に限られ、他の姓の人は後から水尾に移り住んだ人達だそうです。
松尾姓の人々は清和天皇に仕え、松尾村から移り住んだ人々の子孫だといわれています。

清和天皇陵に行ったあと、今来た道を逆戻り。次は明智越えの山道を歩きます。




明智越え

明智光秀の居城・亀山城(亀岡)から愛宕山を登るときに通ったとされる道を「明智越え」と呼びます。

 時は1582年3月、信長自らが出陣して武田勝頼と戦った。3月11日には武田勝頼、自殺の報。
あっけないではないか、この幕切れは。
武田は滅んだのだ。その後武田の旧領を処分し、安土に凱旋したのが4月末であった。

5月14日、徳川家康を迎えるため明智光秀に饗応役を命じたのだった。
このとき饗応の肴が腐っていたのか悪臭を放ち、光秀は饗応役を解任される。
戦国時代というのは慌しい、まるで通信、交通が発達した現在のサラリーマンのようなものなのだろう。
光秀は速くも17日に西国出兵を命じられたのだった。
それは備中高松を攻めている秀吉の応援にもなるのです。

光秀は近江坂本の居城に戻り、26日には丹波亀山城に入った。
27日には愛宕山に参詣し籤を引いたと言う。
これは何を占ったのだろう。何を期待していたのだろう。

当時、光秀は60万石の大領を有する織田信長の有力家臣であったことを忘れてはいけない。つまり越前北の庄75万石の柴田勝家に次ぎ2番目で、羽柴秀吉の播州播磨56万石よりも大領なのです。
その第2の家臣が抱いていた心の中はなんだったのだろう。

それにはいろいろな説があります。残念ながらそれを検証するほど時間も資料も知識もありません。
よく言われている説を紹介しておきます。
@光秀の個人的恨み説。
 信長は気性の激しい人物であった。それ故、衆目の前で光秀を叱責したというのである。
 ところがである、叱責されたのは光秀だけではない。
 秀吉も利家も勝家も同じである。光秀の性格上、陰にこもったとでも言うのだろうか。
 しかし前述のように光秀は2番目の大きさの所領を与えられている。信長が光秀に期待をかけているのは明らかなのだ。
 光秀のような叩き上げの武将が個人的恨みで軽挙妄動に走るとは思えないのである。
 この説は後世の人間が作り上げた俗説というべきだろう。

A朝廷の陰謀という説
 信長は天下統一を目前にしていた。しかし、比叡山の焼き討ち等、その所業を見れば朝廷の好みに合うものではなかった。
 信長も官位で右大臣になっていたがその官位も返上するなど朝廷の支配を好んでいなかったのである。
 こうしてみれば朝廷の意のままにならない新世代の支配者の登場ではないか。
 そこに信長の家来で、自分たちに最も近い位置にいる光秀の存在があった。
 朝廷としては光秀を焚き付けて信長を討てば征夷大将軍の地位を与えるなどと近寄ったのではないか。
 これも尤もらしい話であるが何ぶん証拠が無い。しかし否定する証拠も無いのである。

B単純明解説
 光秀が天下を獲りたかったということである。
 武将ならこういうことを考えるのはごく普通であろう。現代社会においてもワンマン社長解任劇というのはあり得る話で、
 重役会での根回しと株主総会を切り抜ければ、それで事は成せるのである。
 光秀はこの根回しができていなかったのだろう。
 光秀が天下を欲しがっていたところで彼は信長の家臣に過ぎない。
 光秀は信長と争い得る兵力はないが機会さえあれば信長を倒し得ないことはない。
 しかも滝川一益も勝家も秀吉もそれぞれ当面の敵と戦っている。今やその機会が与えられたのである。
 それが下に記した「ときは今・・・・」なのであるということなのか。

Cノイローゼ説
 信長の光秀に対する態度が急に冷たくなったことを感じ始めていた。ちょうどその頃、頭角を現して信長に気に入られた秀吉がいた。
 光秀は領国である丹波を取りあげられ、代りに毛利領の出雲と石見の二ヶ国を与えるということで西国出陣を命じられた。
 これでは左遷ではないか。
 戦国乱世では、ふりかかる禍を常に武略・計略をもって福に転じなければ生きて行けないのであるが光秀にはそれができなかった。
 光秀はこの乱世を生き抜く自信を失った武将のノイローゼ的反抗で信長を討ったのだ。

さて司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』にも出てくる重要な場面でもある1582年5月28日威徳院で連歌会が催された。
ときは今天が下しる五月哉      光秀
水上まさる庭の夏山         行祐
花落つる池の流れをせきとめて  紹巴
これは愛宕百韻の最初の3句ですが、知識が無いものでフーンって感じです。よくぞここまで考えられるものですね。
「とき」は「土岐」にかけ、土岐氏出身の自分(光秀)を表すという。「あめがしたしる」は「雨」が「天」にかけ、「天下を取る」の意味に解釈され、
通して解釈すると『今まさに、土岐出身である明智光秀が、天下を取る5月であることよ』となるらしい。
しかし、3句目で紹巴が謀反を打ち消しているのだそうです。

本能寺の変は6月2日(5月は29日まで)明智の軍勢は我々が今日歩いた「明智越え」の道と「老の山(坂)」の道を通って本能寺に向かったのでした。

以上のようなことを勉強しておいて、光秀の緊迫した心のうちに思いを巡らせて軍勢とは逆に水尾から亀岡に
   「いざ、出陣」
       したのでした。

なかなか険しい道のりでしたが、へたばって動けないなんてことはありません。

右は愛宕山でしょうか?なかなかの眺望ですが、実際はコースの殆どが林の中で景色を楽しむことはできませんでした。




土用の霊泉の説明だけを載せておきます。
実はこの説明板の辺りを探したのですが「こんこんと湧き出る清水」を発見できませんでした。
もう一つ。
ここは林の中で「天下の佳景」をどうして見ることができるんだろう?

右は峯の堂(むねのどう)といい、
この小さな丘には56代清和天皇が奉られているという。
 もともとこの山道は愛宕山への参詣道としてわれ、明智秀は亀山城ならびに、その城下町を整備するとともに、この道を騎馬武者や庶民がたやすく通行できるように整備していたと考えられている。
 光秀はこの堂の前で本能寺攻め必勝祈願をし、道を進んだが山崎の合戦で秀吉に敗れた後、無念にも京の東の小栗巣の露と消え、その心中に共鳴した人々が「峯の堂」を、いつとはなしに語呂相通じる「無念堂」と呼ぶようになったという。

「明智越え」は道が狭く、急な坂道もあり、本当にこの道を通って本能寺に攻め入ったのだろうかと思うほどでした。
広場も見当たらず、大分下りてきたところでやっと食事にありつけました。
カップヌードルを食べている人もいましたね。

右の写真は「牛松山656m」で保津川下りの船頭達の守り神で、頂上には船の艪が飾ってあるそうで、この山の右側を歩いてきたのです。


 左の写真は保津八幡宮の楠で亀岡市の名木に指定されており亀岡の楠では一番の老木なのだそうです。
 この名木の前で記念撮影。
 もう山茶花が咲いていました。右の柿も葉を落としており、この地域は寒いのだろうと想像ができます。

冬も間近ですね。普段スーパーでしか見られない野菜も見ました。きっと無農薬なんでしょうね。カリフラワーには青虫が付いていたのが印象的でした。



橋の上からは出発したばかりの保津川下りの船が見えていました。家の庭先からはみ出した紅葉がなんとも素敵な色合いで思わずシャッターを
押してしまいました。
いよいよゴール地点の亀岡駅です。約10Kmの歴史街道十分に楽しんだ一日でした。




               97回山辺の道    99回新選組の足跡






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