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竹内街道                                             トップ

竹内街道、読み方は「たけのうちかいどう」といいます。
ではどういう街道だったのでしょう。
大阪府難波から堺市を通って生駒山系にある竹内峠を越えて奈良県當麻町長尾神社までの約26kmの街道です。
613年に造られたという話もありますがそれ以前からあった丹比道(たじひみち)と呼ばれていた古道が官道として整備されたものでしょう。
日本書紀に見える「難波より京(飛鳥)に至るまでに大道を置く」という記述はこの事を指しているのでしょう。
 この頃の日本を考えてみましょう。仏教公伝が538年でしたよね。聖徳太子が摂政となったのが593年、600年代に入ると遣隋使が派遣されましたね。
皇極天皇の板蓋宮では渡来人をもてなしただろうと思える庭や噴水のある池が発見されています。
大陸や朝鮮半島との往来が在ったのは疑う余地のない事実でしょう。
この頃の飛鳥には一風変わった石像が見られるのも大陸文化の影響でしょうね。
さて、こういった人や文化の往来した道とはこの竹内街道だったのです。(竹内街道と呼ばれたのは江戸時代に入ってからだそうですが)

シルクロードといえばどなたもご存じでしょう。西の端はといえばローマ、東の端は西安と言われてますね。
このシルクロードを通って東西の物資や文化が行き来したのですね。この意味から言えば西安からさらに東に道は続いていたのです。海を越えそして最後は飛鳥や後の平城京までも続いており、異文化の交流は行われていたのです。
まさに、竹内街道はシルクロードの東の終端といえる道だったのです。

今日はこんな凄い道を歩くのです。その歴史の重みを考えただけで身震いのする思いです。
特に607年7月小野妹子は例の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」の国書を携えて中国の隋に向けてこの道を歩いたのですから。





我々が今回歩いたのは竹内街道のほんの一部なのですが、近鉄「上ノ太子」駅から「磐城」駅までの8kmと色々寄り道しての10kmぐらいです。
上ノ太子駅前が竹内街道です。ここから飛鳥方面へ歩き出しました。
寄り道第1号は叡福寺です。この寺は聖徳太子のお墓があって、太子を摂政として登用した推古天皇によって622年に建立されました。奈良時代には転々と都を移動させたり、大仏を建立した聖武天皇により大伽藍が整備されています。



しかし、この寺も織田信長の兵火により焼失の憂き目を味わったのです。
再建は豊臣秀頼により成されて現在に至っています。
聖徳太子の墓は直径50m、高さ10mほどの円墳に横穴式石室があって、太子と母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれています。

 叡福寺の境内に右の写真のような石棺がある。
この石棺は昭和33年、仏陀寺古墳の西100mの松井平一氏宅で、井戸掘り作業中に発見されたもので、狭い石室内部に二上山から産出する凝灰岩製の横口式石槨を納めた、初期の終末期古墳です。
同家の宅地は方形をなし、周囲より一段高くなっており、方墳であったことが窺われる。
石室は横穴式で石棺の周囲に小さな石を積んで玄室のようにつくり、壁との間は小さな石を詰め、石棺の扉石の前にも石を積んで閉塞してあった。
646年後述する孝徳天皇のだした薄葬令の様式に合致(「瓦器をもってせよ」に対して棺の底に土師器の破片を敷き詰めてあり、副葬品は見つかっていない)しており、その年代のものと思われる。






ここまで来たならさらに寄り道をしたくなりました。聖徳太子の父である用明天皇の陵墓が近くにあります。
左の写真がその陵墓です。
用明天皇は欽明天皇の第四皇子とされているのですが、これがまた歴史の先生方の間では兄が5人いるのだということらしいのです。
よく分からない話なので追求しないことにしておきます。
兄敏達天皇の死にともない、585年9月5日、蘇我馬子の後押しで即位しています。
そして聖徳太子を摂政とした推古天皇の同母の兄だったのです。
用明天皇は仏法を信じた信仰心の篤い人物だったという。
天皇即位後、病床に伏せると病気平癒祈願をきっかけに仏法に帰依、諸臣にも崇仏をうながし、仏教展開の推進派となったとされていますが全く逆の見方もあります。
それは崇仏派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏)との対立が激化し、いわゆる毒にも薬にもならない形だけの無能な天皇を据えておこうとした両者の利害が一致したため、天皇になったのが用明天皇だというのです。
この辺はハッキリした証拠がないため「言うたもん勝ち」の世界です。
ですからこの話はここまでにして先に進みましょう。

寄り道もここまで来たらもう一つ。推古天皇陵と息子の竹田皇子陵まで行ってしまいました。まさにここは古代王陵の谷ですね。

左は推古天皇陵の遠景、右は正面の写真です。
「チョット待て、 推古天皇陵は橿原市の植山古墳ではないか」とおっしゃる方がいらっしゃいましたら、貴方は天皇陵の達人ですね。
仙道も記憶に新しい平成13年8月18日、地方紙初め全国紙でも大きく取り上げられました植山古墳。
私も現地説明会に馳せ参じました。
記事は大凡こんな感じでしたかね。「奈良県橿原市の植山古墳から、横穴式石室が2基出土した。築造時期や場所、規模からみて、推古天皇と、その息子の竹田皇子の合葬墓である可能性が高いという」
そうなんです。記紀の記述通り推古天皇は死後、竹田皇子と一緒に橿原付近の古墳に葬られ、後に太子付近へ移葬されたのです。その元の古墳が植山古墳なのです。


寄り道はこれくらいにして竹内街道に戻りましょう。
戻ってきたところにまたまた天皇陵がありました。孝徳天皇陵です。

 竹内街道沿いに造られた直径30mの円墳。「うぐいすの陵(みささぎ)」の名で枕草子にも紹介されています。
孝徳天皇は皇極天皇の同母弟で軽皇子と呼ばれていました。
皇極天皇とはあの有名な「大化改新」の時の天皇なのです。
645年6月12日、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が殺害されました。仕掛けたのは中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我石川麻呂・佐伯子麻呂らということになっています。世にいう「乙巳(いつし)の変」である。
???待てよ???
黒幕は誰だ!
蘇我入鹿は天皇家を脅やかすぐらいの大きな力を持っていた。また入鹿は山背大兄皇子とその一族を全員殺してしまっている。次期天皇は入鹿の従弟にあたる 古人皇子を立てるだろう。このままでは中大兄皇子も殺されるだろう。
蘇我入鹿も平時は数十名の護衛を付け近寄ることもままならない。そこで思いついたのが高句麗・百済・新羅の使者が朝廷に挨拶に来るというので板蓋宮に入鹿を呼び出した。入鹿は護衛を外され剣も外されたのだ。そして芝居が始まった。蘇我石川麻呂が三韓の上奏文を読み上げているとき中大兄皇子と佐伯子麻呂が斬りつけたのだ。
しかし、蘇我入鹿ともあろう人物が三韓の使者が来たなどという情報が耳に入らない訳はないだろう。だとすれば板蓋宮に呼び出すには皇極天皇が関わらなくてはできないことではないだろうか?勿論、皇極天皇の名をかたっての呼び出しと考えられないことはない。しかし、乙巳の変の後の変わり身の速さは何なんだろう。直に孝徳天皇に譲位してしまっている。これで皇極天皇が政治の場から立ち去ってしまえば私は変な勘ぐりはしない。
孝徳天皇は朝廷を難波の長柄豊碕宮に移している。皇太子は中大兄皇子であるが653年どうしたことか孝徳天皇を豊碕宮の置き去りにして飛鳥に引き上げてしまう。翌654年10月10日孝徳天皇が死亡すると皇極天皇は重祚して斉明天皇となっている。
こういう一連の流れ「怪しい」匂いがするではないか。


孝徳天皇陵を過ぎて街道は坂の勾配が大きくなるが、竹内峠までの道は同じ大阪と奈良の県境の峠道でも暗峠(くらがりとうげ)とは全然違い楽に登れます。


峠付近の写真と街道沿いの民家の写真です。
この峠の付近には旅籠もあったそうです。當麻町の竹内集落には松尾芭蕉の門人である千里(ちり)が住んでおり、この峠を越えて河内に向かっています。
また吉田松陰は五條の儒学者森田節斎を訪ねて1853(嘉永6)年3月12日に竹内村に来ています。彼の日記には「坂を下れば竹内村あり、葛下郡に属す、ここに宿す」と書かれています。
それに幕末、五條代官所を襲撃して倒幕の狼煙を上げた天誅組中山忠光ら7名も志しを果たせずここを逃走していきました。
司馬遼太郎さんもお母様が竹内の出で、子供の頃この辺りでよく遊んだということです。歴史小説を書かれるようになられたのは、ここで遊んだことが芽生えの始まりであったのでしょうか。


     ここが松尾芭蕉の門人である千里の屋敷跡です。




長尾神社
祭神  水光姫命、白雲別命
摂社  厳嶋神社「市杵嶋姫命 配天兒屋根命」
大和の自然伝説に、大昔、大和に大蛇が住んでいました。
桜井市の三輪山を三重にとりまき、その尾は長尾 までとどいたというから長さは40kmぐらいだろうか?
その大蛇の頭が三輪明神で、この長尾神社はその尾にあたるといわれています。
面白い狛犬???狛蛙を発見しましたので写真を載せておきました。





                          第93回比叡山    第95回京都市伏見区




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