glass moon by blue moon rain様

伏水をもとめて                                トップへ

 歴遊会の例会も数えて95回。よくぞここまでという感じがします。
今回は趣を変えて、見てくるだけではなく、現地のものを持て帰ってこようということにしました。決して史跡の一部を引っ剥がして持って帰って来るというのではありませんよ。
家から空のペットボトル4本を持っていって、水を汲んで帰ることだけですから。(汗)

今回の集合場所は近鉄丹波橋駅に10時集合だったのですが、ちょっと早めにJR桃山駅に着き、すぐ近くにある光明(こうみょう)天皇・崇光(すこう)天皇・治仁王陵に立ち寄ってきた。

伏見の探索からはチョット離れますが、88代後嵯峨天皇にあと天皇継承は持明院統と大覚寺統の2系統に別れます。
南北朝時代の兆しです。89代から96代後醍醐天皇までは両統で天皇が継承されてきたのですが、後醍醐天皇の「建武の中興」政策により天皇は武家達の反感を買い、足利尊氏は持明院統の光厳天皇を立てたのです。南北朝の始まりですね。光明天皇とは南北朝時代の北朝第2代天皇なのです。
崇光天皇は北朝3代の天皇です。
普通天皇陵というと写真の後は山でしょ、ここは谷?なんです。


伏見は安土桃山、江戸時代は城下町として栄え、京都・大阪を結ぶ交通の要衝として栄えた町です。今も、いたるところ城下町の雰囲気が残っています。


写真の町名や公園名を見ていただいても城下町だったことが窺えますね。他にも金森出雲、毛利長門、福島太夫、長岡越中、井伊掃部、松平武蔵、板倉周防等という町名があります。



 集合場所の近鉄丹波橋駅には10時に着きました。今日は全員で10名です。
家を出るときには傘を差さずに歩いたのですが、伏見に着くと雨、雨、雨、・・・雨。 その雨の中を傘を差して御香宮に向かいました。
普通は南側の正門(神門)か東側から入るのですが、今回は北側の裏門から入りました。
神社にお参りしてから御香水を汲もうとしたのですが、相変わらず「ここは私の水よ」といわんばかりの厚かましそうなおばさんが2リットルのペットボトル何本も汲んでいました。
暫く待って500ccのペットボトル1本にくみました。
写真は御香水の湧いているところ、女性は我が歴遊会メンバーです。

御香水というのはここの説明板には以下のように書かれています。
「863年9月9日、境内から水が湧き出しよい香りが四方に漂い、この水を飲むと病気がたちまち癒りました。
この奇瑞により、清和天皇より『御香宮(ごこうのみや)』の名を賜りました。
井戸は明治時代に環境の変化により涸れてしまいましたが、昭和57年の春に復元、昭和60年には歴史と由緒があり地場産業である酒造りと結びつきが深く、水量も豊富で保存管理がよいことから環境省『銘水百選』に認定されました」






右の写真は御香宮の神門です。
なまこ壁なんかも見えて神社らしくないですよね。
この門は伏見城の大手門を移築したもので、そのことを知れば納得のいくものです。もう一言追加するとすれば重要文化財なのです。


上の写真は拝殿です。これも伏見城の車寄せだったものを移築したものです。最近修復したのでしょうね。彩色が鮮やかで、桃山様式の豪壮華麗な感じがします。




伏見奉行所
御香宮を出て南に200m、西に200m、更に南に50m行ったところに伏見奉行所跡があります。
今は石碑が残っているばかりです。
後の壁は当時のイメージを再現しているのでしょうか、実は桃陵団地の入口の壁です。
1624(寛永元)年、徳川家光の時に建てられた物です。
交通の要衝であったためその役割は大きかったのでしょう。
この奉行所は広く単に役所のとしての役割の他に優則学舎という教育を目的とした学校もあり、武士階級の師弟だけでなく町人の子供も一部通っていたとされています。

ただ、歴史ドラマ好きの私にとってはこの奉行所は幕末に大いに登場してくる奉行所なのです。

京都の薩摩藩の二本松藩邸(現同志社大学本校)で1866年1月、薩長同盟を実現させて引き上げてきた坂本龍馬は寺田屋で上機嫌で1パイ飲んでいた。その寺田屋を取り囲んだのがこの奉行所の役人だった。そのことに気付いた寺田屋の「お竜」さんが風呂場から裸で龍馬に危機を知らせたのは有名な話し。
「王政復古の大号令」が発せられ新政府が誕生したころ、新選組局長近藤勇が右肩を撃たれて一旦逃げ込んだのもこの奉行所。
さらには薩摩藩大山弥助(巌)の率いる大砲隊がこの奉行所に陣取っていた会津藩兵や新撰組に対して砲撃を開始して戊辰戦争の口火となったのもこの奉行所です。



奉行所を後にして一行は更に南に向かい濠川(ほりかわ)に向かいこの川縁を歩きました。
雨は一向に止む気配がありません。
私のトレッキングシューズの中には水が入ってきており、足がふやけてきているのが分かります。
右の写真の左側が、月桂冠大倉記念館、右側手前が長建寺です。
体が冷えてきたので先ずはお酒の試飲ということに。





月桂冠大倉記念館
月桂冠大倉記念館は、伏見の酒造りとその歴史を現した酒の博物館です。
なんでも明治42年に建てられた酒蔵を改造した建物で周辺も整備されなかなか趣のある雰囲気です。
入場は300円ですが1合のお酒がお土産についており実質100円と考えれば安い。
酒造用具約400点のほか三栖神社の炬火(たいまつ)などが展示されています。
試飲コーナーなどもあり、解説つき、売り込みつきで試飲できるのですが、ここでお代わりをしてお酒を買わない猛者も我が歴遊会にはいました。

この中にも伏水が湧いています。勿論飲むこともできます。
私はからのペットボトルを出して500ccを持って帰りました。

右の写真は伏水(酒水)の井戸ですが人気がありますね。美女4人を隠し撮り(?)してきました。
雰囲気もいかにも酒蔵という感じですね。

「伏見」の地名は、もともと「俯見」「臥見」という字が当てられていたということです。
万葉集には柿本人麻呂が「巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり 射目人(いめびと)の伏見が田井に雁渡るらし」と詠んでいます。
江戸時代になると「伏水」という字も用いられています。
明治時代もこの伏水が用いられていたようで「伏水役所」公的にも使われていましたが明治12年港に使われていた伏見津の伏見を正式に採用しています。
ここを出て南100mほどのところに長建寺という一風変わった寺があります。






長建寺
説明書には「東光山と号し、真言宗醍醐派に属する。
八臂弁財天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般には『島の弁天さん』の名で知られている。
元禄12年(1699)ときの伏見奉行の建部匠守政宇が中書島を開拓するにあたり、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁財天を祀ったのが当寺の起こりで、寺名は建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた。(以下省略)」と書いてありました。

写真を見てもお分かりでしょうが、寺の塀は朱塗りです。山門も一部中国風なのが特徴といえるでしょう。
出世開運・息災延命・財宝福徳・諸芸上達・良縁に御利益があるそうです。
日本三大祭りの一つ大阪の天神祭りはこの寺の夏の弁天祭りがルーツといわれています。
この寺の境内には閼伽水(あかみず)という銘水が湧き出しています。
閼伽水の説明については説明板より引用いたします。
「この寺の本尊である弁財天は江戸時代には淀川を往来する回船の守護神として信仰を集めました。
弁財天は河川が神格化したものといわれ、昔、インドでは水の神として尊崇されていました。
閼伽水とは仏に供える水のことをさし、当寺に湧く井戸は酒どころ伏見に湧き出る良質の地下水と同じ水脈です。
弁財天に供えられるほか、庭の桜などの銘木を潤すこの水を寺では大切にしており、密教十二天のひとつで、水の神・水天尊も祀られています」
何度読んでも最後の部分は意味不明ですがご愛敬ですね。

さて、この寺の山門に右のような「宝貝のお守り、この寺にしかないお守り」というのが置いてありました。
これは十八禁ですので決して写真を取り込んで拡大などしてはいけませんよ。(笑)
とりあえず、ここでも500ccのペットボトルを出してお水を汲んできました。

この後、伏見港公園に向かいました。そこに何があるかというと、説明は省略というかどうもうさん臭さい気がしますので写真だけは載せておきます。






この後は例によって寺田屋に向かいました。
寺田屋はこのページだけでなくネット上にも、出版部でもいくらでも見ることが出来ますのでこれも写真だけにしておきます。


さて、この薩摩藩の寺田屋のおける事件、島津久光の卑劣なやり方は勤王討幕派の有馬新七の同志で友人である事を知りながら奈良原喜八郎を討手に選んだことだろう。
有馬新七ら過激グループは幕府の出先機関である京都所司代を襲撃し、島津久光を説いて薩摩藩の兵を味方にして京都を占領する。
そして、勤王諸侯に呼びかけて参軍せしめ幕府を倒し、一気に政権を朝廷に取り戻そうというのである。
奈良原喜八郎も勤王倒幕では同じ考えを持っていた。
しかし、もう既に計画は実施段階である。慰留は成功するはずがない。












大黒寺
この騒動で亡くなったのは過激グループの有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助、橋口伝蔵、弟子丸竜助、西田直次郎、森山新五左衛門、それに切腹した田中謙介、山本四郎、慰留に来た道島五郎兵衛である。
若き志士達はこの寺田屋騒動で九名が亡くなったのだ。
彼等の墓は寺田屋から北へ6〜700mの所にある大黒寺に建てられた。
西郷隆盛は彼等の墓碑を涙ながらに書いたという。















この大黒寺の向かい側に松林院の墓地があります。
この墓地には寺田屋の女将であるお登勢さんの墓があるのです。

坂本龍馬が連れてきたお竜さんを養女に向かえ、寺田屋をきりもりし、寺田屋騒動の時も落ち着いていて後片づけまでやっている。
寺田屋で坂本龍馬が伏見奉行所の捕手に囲まれましたが、この時もお登勢さんは堂々と奉行所を相手にはりあったという。
本当は龍馬を一番愛していたのはお竜さんではなく、このお登勢さんではなかったのかと、ふとそんな気がしたのでした。




この大黒寺に向かう途中伏見らしくない伏水に出会いました。
噂ではここの水が一番美味しいそうです。
当然ながらここでもペットボトルに水をいただきました。
伏見トレビの水
説明では
『桃山の丘陵や北山に降った雨水は地下水となって伏見に集まっています。昔、「伏見」は「伏水」といわれ、あちこちで良い水が豊富に湧き出していました。この水を利用して発達したのが、伏見の銘酒です。この地下水は、一日に数センチから十センチぐらいのゆっくりした速度で流れているといいます。ここに湧き出るこの「水」も数十年前に降ったものです。』となってました。







いよいよ昼食タイムとなりました。 今回は黄桜酒造のカッパカントリーに。
ここは黄桜酒造が手がける地ビールが飲めるところなのですが、私はどうも地ビールというのには当たりはずれがあって躊躇してしまいます。
他のメンバーが飲んだ後、感想を聞いてから飲むことにしようと、初めからお酒にしました。
夏ですから、冷酒ということにして色々な種類を飲み比べたのですが、さすが酒どころ伏見ですね。 飲む酒全てが味わいがあって美味かった。
いつの間にかメンバーも酒に変わっていましたので、伏見で飲むのはやっぱり酒でしょう。

黄桜酒造にも湧き水があります。
名前はやはり「伏水」、ここの説明文は
『大正14年創業の黄桜酒造本店蔵に湧く「伏水」は、伏見がかつて「伏水」と記されていたことから命名されました。
井戸の深さは約60m。ナトリウム・カルシウム・マグネシウムなどのミネラル分を適度に含み、伏見の清酒特有のまろやかな口当たりを生み出し、酒造りにはなくてはならない生命の水として大切に守られています。
豊かな伏流水に恵まれた伏見の町を開いた豊臣秀吉は、伏見城内に「金名水」「銀名水」と呼ばれる井戸を掘り、茶会を催したといわれています。』

ふーんここで知ったのは伏見の造り酒屋は創業何百年というものばかりと思っていたら、ここのように結構新しいところもあるのですね。


伏見の町を歩いたらやっぱりこれを食べなくっちゃ。

酒のソフトクリームです。
ここで紹介するからにはどんな味?とレポートしなければいけないんですが、
前述のカッパカントリーですでに昼間から飲み過ぎ。
多分、日本酒の薫りがしていたのでしょうけど分かりませんでした。
味はバニラのソフトのように普通のミルク味だったような?












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