密かな祈りby blue moon rain様

比叡山                                         戻る   トップ
                                                      写真提供はマイケル君
子供頃も含めて比叡禅に登るのは何回目だろう。
数えられないくらい登っているのは確かである。
今回はどんな鳥と出会えるかな、どんな花が見られるかな、そういったことも楽しみの一つなのだ。


延暦寺
              根本中堂
比叡山は東山36峯の北の端にあって、その中では一番高い山です。
その山頂に788(延暦7)年伝教大師最澄によって創建されたのが一乗止観院(後の根本中堂)です。
先ず最澄にふれておきます。
最澄は比叡山の滋賀県側の麓、坂本の辺りで767年に生まれている。それだけに比叡山いうものが彼にとって特別なものであったに違いない。
僅か十二才の時に出家し、十九才で東大寺の戒壇院で受戒しています。
東大寺での戒壇というのは754年鑑真により始められていますからそれから30年余り経ったときです。
(大仏の開眼供養は752年です)
そして大安寺の官僧となったのですが3ヶ月でここを去り、比叡山で山林修行の道を選んだのでした。
それはおそらく当時の仏教界(特に平城京の大寺)が政界との結びつき権力志向の様相を呈していたためではないだろうか。
伝教大師(最澄)像
若き最澄(右の写真)はこれを嫌ったのである。
比叡山では鑑真が唐からもたらした「天台止観法門」、「法華玄義」、「法華文句(もんぐ)」、「小止観」、「金光明経」等天台関係の書物を学んだのです。
時は光仁天皇の時代から桓武天皇の時代に移っていきます。
都が平城京から長岡京、平安京へと移っていったときです。
当時、井上内親王、他戸親王、早良親王と何か事あるごとに祟りが信じられていた頃です。
遷都が行われた平安京は藤原小黒麻呂の調査で風水と方位を司る四神相応の都であるとされ、東の青龍(鴨川)、西の白虎(山陽道・山陰道)、南の朱雀(巨椋池)、北の玄武(北山)が自然に配備されていたのです。
ここで神門は愛宕山、鬼門は比叡山だったのですが、この鬼門に当たる比叡山に一乗止観院を建てていたのが最澄だったのです。

平安遷都は974(延暦十三)年ですが、この年の9月3日桓武天皇ご臨席のもと一乗止観院で大供養が行われました。
この時は南都七大寺の僧達も参加していました。
最澄の人柄もあるのでしょうけど、都の鬼門に寺を建てていたことが天皇との接点ができ、天皇の信頼も得ることができ、これによって最澄の人生が大きく変わってしまったことには変わりないでしょう。
そして、796(延暦15)年一乗止観院は国家鎮護道場となったのです。
さらに最澄は822(弘仁13)年、学問僧として入唐しています。(空海も同じくこの時遣唐使に随行しています)

浄土院さて、延暦寺と言えば最澄が建てた一乗止観院(根本中堂)に始まり東塔(阿弥陀堂、文殊楼、萬拝堂、明王堂)、西塔(転法輪堂、浄土院、にない堂)、横川(よかわ)(横川中堂、元三大師堂)を合わせて延暦寺と言います。
854年円仁和尚が第3世座主になりました。円仁は12年間も唐で学んだ高僧でしたが864年10年間座主を勤めた後入滅しました。
866年には最澄に伝教大師、円仁には慈覚大師の号が贈られています。
歴遊会第88回例会で行った赤山禅寺も慈覚大師円仁の遺命によって創建した寺なのです。

左の写真は浄土院
右の写真は横川中堂

横川中堂

延暦寺では忘れてならない2つの事件ありました。
一つは智証大師円珍と慈覚大師円仁の門徒の争いです。もう一つは織田信長による焼打事件です。

貞観年間(859〜877)に智証大師円珍が園城寺を天台別院として中興しました。そして円珍の入滅後の事なのですが延暦寺座主良源と園城寺座主の余慶の間だが怪しくなってきたのです。
993年(正暦四)年、智証大師円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、ついに円珍門下は比叡山を下り一斉に園城寺に入りました。そして延暦寺の衆徒が園城寺の千手院に火を掛けるまでになってしまたのです。
この時から延暦寺を山門(さんもん)、三井寺を寺門(じもん)と称しそれぞれ僧兵を増やし天台宗は二分されてしまったのです。
この後の延暦寺は園城寺のみならず南都の寺院とも争いが始まり、また、日枝神社の御輿を担いで朝廷にも強訴を繰り返しました。
奈良の興福寺の僧兵も平安京で大暴れ。
白川上皇の有名な、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という言葉はこの頃のことなのです。
こういう荒れた世の中で園城寺も延暦寺も焼失していくのです。
1100年代後半になると治外法権、無法地帯と言ってもいいでしょう。清少納言・紫式部の時代から平清盛の時代に入ってしまったのです。
そして慧眼を持った僧達は延暦寺から去っていったのでした。
法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍これら宗祖が排出されたのはこの時代の特徴だったのでしょう。

鎌倉、南北朝、室町と時代は過ぎ、戦国の世の中になってきます。
延暦寺は織田信長と対立し朝倉義景と手を結んでいた。そのため、1571(元亀2)年信長により比叡山焼打に合い堂塔伽藍は焼け落ちてしまったのです。
延暦寺の再興は豊臣秀吉、徳川家康の経済的補助により進められたのである。




惟高親王(これたかのみこ)
文徳天皇の第一皇子として生まれ、惟高親王が皇太子になる予定だったのです。
ところが母が紀氏で藤原に比べ力がなく、結局、政治の実権を握っていた太政大臣藤原良房の横槍により良房の孫にあたる生後9ヶ月の第四皇子惟仁親王(これひと後の清和天皇)が皇太子になったのです。
伊勢物語の82段に
『むかし、惟高親王と申す親王おはしましけり。
山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。
年ごとのさくらの花ざかりには、その宮へなむおはしましける。
その時、右の馬の頭(在原業平)なりける人を、常に率ておはしましけり。
時世へて久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。
狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。
いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。
その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌をよみけり。
馬の頭なりれる人のよめる。

  世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
となむよみたりける。又人の歌
  散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき
とて、その木のもとは立ちてかへるに、日ぐれになりぬ。
御供なる人、酒をもたせて野より出で来たり。
この酒を飲みてむとて、よき所を求めゆくに、天の河といふ所にいたりぬ。』

というのがあります。
『伊勢物語』には惟高親王との桜を愛でた酒を飲んだという友情話もあるのですね。
その惟高親王ですが、滋賀県永源寺町君ヶ畑移り住み、ここで法華経の巻物の紐を引いたとき巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を開発作成したと伝えられています。
この轆轤で「こけし」、「椀」、「盆」等を作り、現在でも木地師の祖とかいわれ神社などの祭神として祀られています。
このため箱根の箱根細工や福島市土湯温泉の土湯こけしなどの関連もあるといわれています。




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