修学院・一乗寺下り松
14年12月14日、寒空の中、京都の北東の地、修学院の辺りを散策してみました。
上の写真は北白川から比叡山を望んだところでうっすらと雪化粧が見られます。
赤山禅院
延暦寺の別院で名前からしても当然に寺である。 ところが、この鳥居。 んっ!神社かな? 888(仁和4)年天台座主(ざす)安慧(あんね)が慈覚大師円仁の遺命によって創建した天台宗の寺なのです。 本尊の赤山明神は中国の赤山にある陰陽堂の祖・泰山府君(たいざんふくん)を勧進したもので、平安京の表鬼門の方除けの祈願所として、又、疫病、厄除けの神として信仰が厚い。 赤山(しゃくせん)は借銭に通じて、赤山明神の祭日である5日に懸け取り(集金)に回るとよく集金ができると云われ、商人の信仰も厚い。 俗に、5日払いと言われる商習慣はここからできたのである。 |
因みに京都の大文字の送り火はこの慈覚大師円仁の遺徳をしのんだものとされる。
修学院離宮
承応年間(17世紀中期)、後水尾上皇のために造進されたもので,庭園は上・中・下の3つの離宮からなっています。
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修学院離宮を通り過ごして一乗寺下り松へと向かうことにしました。
途中右の曼殊院の前を通り、ヒヨドリたちの声を聞きながら
約1Kmの散策。
この辺りの民家は何故か南天の木が植えられており、赤い実が
目に付きました。
「多分赤山禅院が都の鬼門に当たり方除けの祈願所となっていることにより、平成の世の中になっても住民の心の中に根付いた思いが南天を植えさせるのだろう」と評論家のようなことを言いながら歩きました。
詩仙堂
よくある庭の風景は撮りません左の写真が好きなのです。
竹の中に浮かぶ東屋、いい感じですね。
詩仙堂というのは1641(寛永18)年、徳川家康の家臣で大阪夏の陣で抜け駆けをして軍律違反の罪に問われた石川丈山が造営した庵だそうです。
ここで31年間隠棲し、90歳で没するまでここで清く正しく美しくを旨とし生きてきました。
詩仙堂に行ったときは必ず鹿おどしの音も聞いておきたいものです。
静寂をやぶりコーンという音を響かせる。竹山道雄著作集「古都遍歴」に詩仙堂の鹿おどしのことが書かれています。「「それはどんな楽器の音にも似ていない。空洞の中のみじかい木霊のようである。竹筒にこもった響きが清水に洗われ、覆った木の葉の中に吸い込まれる」と。
また丈山は茶を嗜み、煎茶の開祖でもあったことを付け加えておきます。
詩仙堂の名の由来は中国の36詩仙の肖像を飾った部屋から詩仙堂と呼ばれているからなのです。
絵は狩野探幽筆でその絵の上に石川丈山が自らその詩人の詩を書き上げていて、これも必見ですね。
八大神社
祭神 素盞嗚命(すさのおのみこと) 稲田姫命(いなだひめのみこと) 八王子命(はちおおじのみこと) 創建 1294年3月15日 ここでこの神社を取り上げたのは、平成15年にはNHK大河ドラマ「武蔵」が始まります。 当然この機会に全国各地で関連、関係があるところが話題になるだろうし、関連地の人々はそれをビジネスチャンスと捉え地元の宣伝と発展に色々な知恵を絞るのでしょうね。 |
そういう動きなのでしょうか。
この神社にも宮本武蔵のブロンズ像が今年の10月27日に建てられました。
逞しさを感じますね。
敢えて写真は載せません。
そして、境内にはこんなパネルが飾られていました。
左は宮本武蔵の萬屋錦之助さんと右は佐々木小次郎のなんと高倉健さんでした。
一乗寺下り松
ここで記念撮影を
あっしまった!松が写ってないや。
一乗寺の地名の由来はと言いますと、平安時代中期この辺りに天台宗の一乗寺という寺がありました。
981(天元4)年、山門衆徒と寺門衆徒の対立のなか、寺門派の僧が難を逃れて一乗寺に住んだことや、988(永延2)年円融法王が一夜を宿したこと等で知られていますが、南北朝の動乱以後に衰えて廃絶しました。
この寺の名前が地名の由来なのです。
また、ここにあった松の下で宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘をしたという伝説が残されている。
「下り松」と呼ばれ、古くから旅人の目印として植継がれてきたこの松の樹は4代目にあたるといい、左写真の石碑は大正10年に建てられました。
余談
歴遊会の今年の活動も今日が最後。
京都市の中心街に出てきて忘年会で盛り上がりました。
第87回(柳生街道) 第89回(天王山)
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