ラ・カンパネラ


15年1月18日
天候は御覧のように曇り、うっすらと霧がかかっているような感じで京都方面も大阪方面も見えませんでした。
左の写真の中央は淀川(宇治川)と桂川の合流地点です。
木津川はこの写真の左側で合流しています。(天王山からの眺め)











天王山
勝敗を決する重大な山場のことを「天王山」と言いますね。羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀が山崎の合戦でこの山を押さえたことにより、両軍の勝敗を決めたことからできた言葉なのですが、今回は天王山の辺りを散策してみます。
ついでながら、天王山と淀川を挟んだ対岸に「洞ヶ峠」というところがあります。こちらは山崎の合戦で武将の筒井順慶が天王山を望む洞ヶ峠に布陣し、形勢を見定めて優勢な方につこうとしたと誤伝され、「洞ヶ峠」の方は日和見の意味になってしまいましたが、実際には光秀が順慶の出陣を待った場所なのです。
天王山というと高い山を想像される方もおられるかもしれませんが、実は標高270.4mの小さな山なのです。
山がある場所が重要だったのですね。つまり、京都と大阪の境にあり、京都の西山連峰と大阪・奈良の生駒連峰に挟まれたところで平野部が狭くなり関ともいいべきところだからです。




離宮八幡宮
祭神: 応神天皇、神功皇后
     酒解大神(さかとけのおおみかみ 別称大山祇神(おおやまつみしん))
     比売三神(ひめさんしん 田心姫命(たごりひめ) 市杵島姫命(いちきしまひめ) 湍津姫命(たぎつひめ))

由来
平安時代の初め、清和天皇が太陽が身に宿る夢を見、鎮護国家のため九州の宇佐八幡宮より八幡神を京へ動座せよというものでした。
859(貞観元)年、天皇の命を受けた大安寺の僧行教と山城守紀御豊が宇佐八幡宮の八幡神を奉じて、この山崎の津まで戻って来たとき夜の山に霊光を見ました。
この地にご神体を移すことにし嵯峨天皇の離宮跡を掘ってみると岩間に清水が湧き出しました。これを神のお告げと解釈しここに御神体を鎮座し神社としたのが始まりです。
ですから、この神社の名前は「石清水八幡宮」だったのです。
???「石清水八幡宮」???って現在淀川の対岸にあるではないか?


現在の「石清水八幡宮」は明治元年に「男山八幡宮」と改称され、大正7年に再び元の「石清水八幡宮」に改称されていますが、この辺がヒントかなと調べてみると「石清水寺」との関わりからだそうで、明治・大正の改称は関係なさそうでした。
さらに調べていくと、『離宮八幡宮遷座本紀』(1348)に、その後行教と御豊に夢のお告げがあり、八幡神を男山に移すよう命じたと書いてあるらしい事が分かりました。

さてこの離宮八幡宮で取り上げなければならないことがあります。ここの神官が神示を受けて「しめ木の具」という搾油器を作って「荏胡麻(えごま)油」の製油を始めたことです。
平安時代は神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが、全国にこの製油法が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜って山崎に「油座」の制度が布かれました。
諸国の油商人は離宮八幡宮から許状を授与されるに至り、離宮八幡宮は油の販売権を独占して栄えてゆきます。
鎌倉、室町時代になってくると貨幣経済の発展の中ますます富の集積が行われ、広壮な社殿を構え栄華を極めることになりました。しかし織田信長の「楽市楽座」の政策で独占事業は打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになると市場を奪われてしまいました。
そして、幕末の元治元年「蛤御門の変」(禁門の変)のとき長州藩の屯所となり、このとき幕府薩摩連合軍の砲撃にあい被災して建物の殆どが焼失しまいました。
往時の建物として残っているものは「高麗門」(重文)と「東門」ぐらいしかありません。
1879(明治12)年に社殿が再興が行われ、1929(昭和4)年改築されて今日に至っています。
 司馬遼太郎作「国盗り物語」では離宮八幡宮が油の販売独占権を持ち栄えていた当時の様子と素浪人から山崎の油商人となり、その富と策略を駆使してついには美濃国主となった斎藤道三の話に興味が持てますね。





妙喜庵
庵は江戸時代末期までこの地にあった地蔵寺の塔頭であったといい明応年間(1492〜1500)に俳人であり連歌師でもあった山崎宗鑑が隠居所として建立したと伝えられています。
中には千利休が造った二畳の茶室で、侘茶の原点といわれている国宝の茶室「待庵」があります。
書院(室町時代)は国の重要文化財に指定されています。
庭には秀吉の衣が触れたので「袖摺松」と名付けられた松がありますが現在の松は3代目とか。
見学は出来るのですが予約が必要で1000円です。但し、団体と高校生以下は原則不可となっています。












山崎聖天

899(昌泰2)年、寛平法皇(宇多天皇)の創建によるとなっているものの定かなことは不明といわれています。
真言宗の寺で、天王山の山麓にあって、背の高い石垣と石の階段に囲まれています。
本尊は十一面千手観音で聖徳太子の作といわれています。
江戸初期、木食以空(もくじきいくう)上人が霊元天皇の勅願により再建しましたが、離宮八幡宮と同じく元治元年の「蛤御門の変」で焼失しました。
この再建は住友家、三井家、鴻池家らの援助によるもので歓喜天が本尊の観音菩薩より有名となり、山崎の聖天さんとして世に知られこの名が一般に残っています。
面白いのは聖天堂が神社造りになっていることです。これは天皇の勅願によるものだからで、お寺でありながら鳥居があります。一の鳥居には観音寺、二の鳥居には聖天宮の扁額が掛かっているのです。
今の建物は昭和44年再建されたものです。


    一の鳥居には観音寺の扁額         二の鳥居には聖天宮の扁額




宝積寺(ほうしゃくじ)

歴遊会のページには何度も登場する聖武天皇ですが、皇太子のころ、夢で龍神から「小槌」と 「打出」をもらい、 これに願をかけて天皇の位を譲ってもらったという話があります。
実際はどうだったかは分かりませんが、元正天皇が生きているときに天皇になったのも事実です。
当時、聖武天皇は遷都を繰り返したり、大仏造立、国分寺建立と湯水のように金を使っていましたが、民衆は飢饉・疫病の流行で苦しいものでした。
そんな時期、仏教本来の人々の救済を目的に布教活動を行っていたのが行基でした。

              行基の像

行基は寺院の建設の他、道路、橋、布施屋の建設に力を注ぎ、現に大山崎から淀川の対岸の橋本というところへ橋を架けて、民衆への布教活動も行っており、行基菩薩と呼ばれる程になっています。
ところが聖武天皇は仏教に鎮護国家の夢を見ているため仏教に対する取り組みの違いから行基を弾圧していたのでした。
しかし、大仏造立には民衆の協力が必要で、行基の民衆動員力を利用せざるを得なくなり、僧侶の最高職の大僧正に着けています。
宝積寺もこの行基が造ったことになっていますが、聖武天皇との関わりから考えてみても弾圧時代ではないでしょうね。





                                           

        本堂の中                   小槌宮が奥に見えている。
「小槌」と 「打出」の2つの宝物を祀っているのが「小槌宮」で、そもそもこれを守る為に造ら れたのが宝積寺なのであります。
また大黒天は京都六大黒の一つでこれまた知る人ぞ知る有名寺院なのです。
「打出」と「小槌」と言えば打ち出の小槌を思い浮かべませんか?
そうなんです「一寸法師」のおとぎ話はここのことなんですよ。
蛇足ながら15年3月11日「火曜サスペンス」にこの寺が登場するそうです。ご覧下さい。




羽柴秀吉旗建松

馬印という言葉をご存じでしょうか?
馬印とは『戦場で武将が敵味方の識別や自らの存在を誇示するために用いた目印』のことなのです。
馬標・馬験・馬幟とも書きます。
もうお分かりですね。天王山合戦の時に、秀吉が味方の士気を鼓舞するために、瓢箪の馬印を立てた松があったとされている場所なのです。
当時の松は枯れてしまい写真の松は5代目だそうです。
ここからの眺めは眼下に桂川、宇治川(淀川)、木津川の三川が合流する姿が見えるのですが、このページのトップの写真のように天気が悪くてよく見えませんでした。
対岸は冒頭にあったように洞ヶ峠なのです。
京都方面は伏見はじめ市内全容が見えますし、大阪方面は大阪城だって見えるのです。
つまり戦場だけでなく援軍の動向まで手に取るように分かる最高の地に秀吉が陣取った事が分かりますね。
勿論光秀の陣も同じ様なものだったのですが・・・・。

本能寺の変から日付をつけてこのドラマチックな出来事を追ってみます。
 1582(天正10)年6月2日  本能寺の変
                    徳川家康一行が本能寺の変の報に接し、急ぎ堺を発つ。
             6月3日  明智光秀が瀬田に到着、坂本城へ向かう。
                    安土城の守将蒲生賢秀は信長側室を奉じて日野城に避難する。
                    徳川家康は伊賀に入り、伊賀衆の警護により伊勢白子から三河へと向かう。
                    柴田勝家が上杉方の越中魚津城を落とす。
                    備中高松の羽柴秀吉のもとに本能寺の変の報せが届き、講和を急ぐ。
             6月4日  羽柴秀吉が信長の死を秘し毛利軍と和睦。備中高松城は落城。
                    徳川家康一行が伊勢白子より三河大浜に上陸、岡崎へ戻る。
             6月5日  明智光秀が長浜城・佐和山城を占領。
                    織田信孝が丹羽長秀とともに明智光秀の女婿津田信澄を大坂城に討つ。
             6月6日  羽柴秀吉が明智光秀討伐へいわゆる「中国大返し」を開始。
                    明智光秀が上杉景勝に援軍依頼の使者を送る。
             6月7日  柴田勝家、上杉軍に敗れて越前へ退却する。
                    明智光秀が朝廷の使者吉田兼見を安土城に迎える。
             6月8日  羽柴秀吉が姫路城に到着する。
                    明智光秀は安土城を出て坂本城に向かう。
             6月9日  羽柴秀吉、一隊を淡路島洲本に派遣し明智方の菅平平右衛門尉を攻撃する。
                    明智光秀が細川幽斎・忠興父子に協力を要請する密書を送る。
                    明智光秀が京都下鳥羽へ出陣する。
                    羽柴秀吉が姫路城に浅野長政を留守居として残し明石へと向かう。
             6月10日  明智光秀が筒井順慶の出陣を促すべく下鳥羽から洞ヶ峠に出陣する。
                    順慶は秀吉に応じ大和郡山城に籠もる。
             6月11日  明智光秀が洞ヶ峠から下鳥羽に帰陣、淀城の修理を行う。
                    羽柴秀吉が摂津尼崎城に到着、近隣の諸将に参陣を呼びかける。
             6月12日  羽柴秀吉が摂津富田に着陣。
                    有岡城の池田恒興父子も羽柴軍に合流し、諸将の部署を定める。
                    中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領。
             6月13日  織田信孝・丹羽長秀が摂津富田の羽柴秀吉軍に合流する。
                    こうして、ここに山崎の合戦が始まったのである。
                    2時間ほどの小競り合いで羽柴軍が勝利する。
                    山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀が逃げ込んだのは光秀の娘玉が輿入れ
                    した勝龍寺城であった。
                    坂本城へ向かう途中の明智光秀が、山科小栗栖で土民の槍にかかり落命。
以上が本能寺の変からの12日間の『その時歴史が動いた』瞬間である。




十七烈士墓
山崎の合戦から時は流れて幕末、1864(元治元)年、徳川幕府が倒れんとするときの話である。
この時代は凄まじかった。尊皇攘夷の急先鋒だったのが長州藩である。
初めは京の町衆も公家も天皇も長州藩に好意的であった。
しかし、やりかたが殺伐すぎたのだ。行動もエスカレートしていく一方で、ついには主義ではなく体質が嫌われるようになってきた。
長州藩は焦っていた。朝廷に嫌われては倒幕の大義名分が成り立たない。
京の町では新選組が倒幕の志士を取り締まっている真っ最中である。
そして、池田屋の変(6月5日)が起こった。勤王倒幕のクーデターの打ち合わせの集会に新選組が切り込んだのである。
幕府は新選組の「戦功」を多いによろこび、京都守護職に対し感状をくだしている。
つまりこの事件の性格を治安問題とせず、「戦争」であるとしたのである。同時に長州藩および長州系浪士を敵と見たことになる。
この事件が幕末争乱の引き金になったのは否めない事実であろう。
この結果、長州藩からは大挙して軍勢を京に進めることになった。
そして、京都で三ヶ所に分かれて陣取ったのである。
一つは伏見の長州藩邸の本陣、一つは嵯峨天龍寺、それとここ天王山である。
天王山では山頂で大篝火をたいて、これが大阪からも見えたという。
天王山には久坂玄瑞、真木和泉、寺島忠三郎、宍戸左馬介、佐々木男也らがいた。
彼等は長州藩が朝敵賊軍の汚名を着せられる前の7月19日島津、会津、桑名藩が警護する御所に攻め込み、ここに禁門の変が始まったのである。
戦況は19日 のうちに長州側の完敗で終わった。
長州藩上京の実質上の立案者の一人真木泉は鷹司邸の激戦場から20日山崎まで落ちのび、ここで従ってきた数十人を解散しています。
最後まで行動をともにしたいと願う16人をつれて宝積寺で1泊し、21日山へ登って討伐軍の来襲を確認、正午ごろ会津兵と新選組200名、見廻組300名が攻め上ってくると、自刃、爆破しここに17名が亡くなったのである。




酒解神社
正式名称は自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ)だそうですが、確かにこの名前じゃ呼ぶのも大変です。

創建は717(養老元)年で、延喜式では名神大社とされた由緒ある神社なのですが、どこにあるのか不明でした。
それで大体この辺だろうというところの天神八王子社を酒解神社にしてしまったという、いい加減な(?)決め方をしたそうです。
離宮八幡宮のある離宮(河陽(かや)離宮)を造った嵯峨天皇の皇后が橘氏の出身であることから橘氏の先祖神ではないかと言われていますがこれも当てにならない話です。
毎年5月5日の例祭には、神輿が山ろくまでねり降りてきます。
ここの見所は神輿庫で板校倉(いたあぜくら)と呼ばれるもので、切り妻造りの本瓦葺き、正面に板のとびらを置き、
他に類のない貴重な建造物とされているもので、正倉院の校倉造りとは違って三角の木ではなく厚さ約12センチの厚板を組んでつくられています。




サントリー山崎工場
最後はウイスキーで締め。先ずは工場見学から。



  ↑樽の横が反っているのを発見
   思わずシャッターを押しました。




見学のあとは試飲。
「山崎12年」です。
初めはストレートで、次はロックで、
その次は水割りで。
確かにうまいウイスキーでした。




        何も足さない
            何も引かない!






         第88回(修学院)        第90回(暗峠)


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