Thank You by blue pioa man様







































































































































































































































元明天皇 元正天皇 聖武天皇陵
元明天皇、元正天皇、聖武天皇の説明の前に天武天皇、持統天皇の時代からお話ししたい。
壬申の乱を制した天武天皇は皇后のよき補佐を得て皇族中心の政治を行い、聖徳太子以来築きあげられて来た律令制に基づく中央集権国家を作り上げてきた。天武天皇にとって皇太子を誰にするのかは、壬申の乱を経験した本人にとって大きな問題であったことは想像に難くない。
つまり、資料系図を見ても皇太子の対象者は草壁、大津、高市、刑部であろう。この内、天智天皇の血を引く草壁、大津が有力視され、才能・人望共に優れていた大津皇子が最有力候補ではなかっただろうか。
しかし、草壁皇子は大津より1才年上であり、天武天皇の皇后(うののさらら皇女、後の持統天皇)の子であり、皇后の姉の大田皇女は667年に没している。
当然、皇后は草壁を皇太子にしようとしたであろう。
686年9月9日天武天皇が没した後、10月2日に大津が謀反を企てたとして翌3日処刑されている。
持統天皇は天武天皇が亡くなったその日に称制天皇となっており、大津の謀反と素早い処刑(加担者の多くは無罪、2名のみが流罪)を見ても何か釈然としないものを感じるざるを得ない。
こうして、草壁の地位は25才にして盤石となったのであるが、689年4月即位することなく皇太子のままで没することになる。
その草壁皇子と持統天皇のの妹の阿陪皇女との間の子供軽皇子(文武天皇)に望みを託し、彼が成人するまでの間政務を執ることにた。
持統天皇のについては、父は天智天皇、母は乙巳(いつし)の変の功労者の一人蘇我石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)である。祖父の石川麻呂が父の天智天皇に殺され、更に叔父に当たる大海人皇子に嫁いでいる。そして壬申の乱が起こり、異母兄の大友皇子が自軍の為に亡くなる。
私にはどんな心理状況になるのか全く想像も付きません。ただ、こういった経験が、彼女を天皇として十分に全うするだけの人間に育て上げたことは間違いないと思われる。
さて、孫の軽皇子(文武天皇)が15歳になったとき、孫の最大のライバルと思われた太政大臣高市皇子が亡くなった。
天皇としては当然軽皇子をその位に付けたいのであるが、天武天皇と大江皇女との間の子供弓削皇子を推す声もある。この議論に終止符を打ったのは、大友皇子と十市皇女との間の遺児・葛野王であった。彼は「皇位は基本的に子・孫へと受け継ぐべきもので、兄弟で受け継げば、それぞれの子供の間に皇位をめぐる争いが必ず生じる。」と言い、軽皇子が皇太子と決定した。
しかし、707年文武天皇は25才の若さで他界した。
その後を継ぐ力を持った皇子は何人かいたようだが、文武の母の安閇皇女(あべのひめみこ)は何としても自分の孫の誰かに皇位を継がせたいという意志が強く、自ら即位して元明天皇となり、まだ幼い孫たちが成長するまで「中継ぎ」を務めることにする。
ここから本題の元明天皇になります。
第43代元明(げんめい)天皇
天智天皇の子で、母は蘇我山田石川麻呂ノ女、姪(めい)娘。実子の、第42代文武天皇が慶雲4年、25才で崩御したため、女帝として即位。文武の一子は、当時7才の首皇子(聖武天皇)で、成長するまでの中継ぎとして即位した。
草壁皇子との間に軽皇子(文武)と氷高皇女(元正)をもうけている。
当時天武天皇の遺児も存在し、また高市皇子の子であった長屋王なども皇位継承の有力候補として存在したが、元明天皇は、父天智天皇の定めた「不改常典」に従って皇位を継承する事を強く訴え、嫡系相承の正統性を主張した。
この天皇の治世は、奈良時代の代表的な施策が実施された時期でもあった。
708年 「和同開珎」を鋳造
710年 平城遷都
711年 蓄銭叙位令
712年 古事記の撰上
713年 風土記の編纂
715年 郷里制の実施
715年 娘の氷高内親王(元正天皇)に譲位

生没年 661年〜721年
漢風諡号は元明天皇、和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇。

第44代元正(げんしょう)天皇
元明女帝の子で、第42代文武天皇の姉。生涯独身だった。文武天皇の子首皇子(おびとのみこ、聖武天皇)の成長まで中継ぎとして皇位についた。
平城京の造営整備も進み、律令制中央政権国家の基盤も次第に固まりつつあった時期で、藤原不比等主導の元、律令制の整備が図られた。
養老年間、藤原不比等に命じて律令を改定し、「養老律令」を制定した。
律令制崩壊の端緒となる724年、元正女帝は甥の聖武天皇に譲位する。
元正天皇も概して歴史的な評価の低い天皇なのですが、彼女の治世下に、「日本書紀」を完成させている。

歴史的な事実を追っていくと
715年 元正天皇即位
720年 藤原不比等死去
721年 元明天皇死去
724年 聖武天皇(首皇子)即位
737年 藤原不比等の子供の藤原四兄弟がそろって病死。
748年 死去
生没年   680(天武9)〜748(天平20)
漢風諡号は元正天皇、和風諡号は日本根子高瑞日清足姫天皇(やまとねこたかみずひきよたらしひめのすめらみこと)天皇。

蛇足 手前の自転車ですか、これが我が愛車で、13年10月7日遙々宇治から25Kmの道のりを走りました。この後奈良市内見学をして、往復60Kmでした。
第45代 聖武天皇
奈良時代の仏教は鎮護国家のためのものであった。735年疫病の流行と飢饉を背景として737年釈迦三尊像の造営と「大般若経」の書写が命じられる。しかし、疫病の流行はおさまらず、聖武天皇の皇后系の藤原四子も相次いで死んでしまった。
この時、唐から帰国した僧、玄ムの影響を受けて国ごとに金光明四天王護国寺と法華滅罪之寺を造営する詔(みことのり)を発している。
これより先、この玄ムと吉備真備を重用するあまり、740年9月藤原広嗣が九州で挙兵した。天皇は大野東人を大将軍に任じ制圧に当たり10月23日に鎮圧することができた。
にもかかわらず、天皇は平城宮を離れ5年間の間に恭仁宮(京都府の南端)、難波宮(おおさかし)、紫香楽宮(滋賀県南部)というふうに逃げるように移動している。
また、東大寺大仏の造営を行った天皇としても有名である。この大仏建立も玄ムの影響であるが、743年紫香楽宮で甲賀寺大仏造立の詔を発布して滋賀県にできる予定であったことはあまり知られていない。
しかし、山林に放火されるなど反対派により平城京に立つことになった。
そのため仏をみなが一丸となって造営する事となり、同様に利益を分かち合おうとする主旨の誓願を立て、天皇も自ら土を運んだので、皇后以下、臣下の者もこれに従った。
着手から10年の歳月を費やし大仏開眼となったのである。
藤原不比等の娘であった皇后の光明子は皇后官職に施薬院を置き、病人を介護した事で有名。また、奈良法華寺の十一面観音像のモデルとも言われる。

聖武天皇陵
光明皇后陵

第70回(大阪府瓢箪山稲荷)



第73回(壷阪寺)

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