壺阪寺 束明神古墳
山号 壷阪山
開祖 弁基上人
本尊 十一面千手観世音菩薩
宗派 真言宗豊山派
『壺坂霊験記』で有名な寺です。この『壺坂霊験記』は、お里、沢市といえば何となく記憶の中にあるのですが、何の話か出てきません。話しは夫、沢市の眼病平癒を祈願して、妻、お里が毎夜寺に参拝するものの、夫の眼病が治らなかったことを苦にして心中を図ったときに観音様に助けられるという夫婦愛の物語です。
それ故、本尊の千手観音は、古くから眼病に御利益があるとして信仰を集めています。
寺の話しに戻りますが、大宝三年(西暦703年)元興寺の僧弁基上人によって開かれ、古くから観音信仰が盛んに行われた霊場で、南法華寺(みなみほっけじ)といいます。 壺阪寺の名前の由来は、703年に弁基が水晶の壺の中に観音菩薩を感得し、それを刻んだものを本尊として開山としたという伝承に依ります。
寺の背後の吉野への古道壺阪峠を北へ入った山中には、奥之院石仏群がひかえています。
行った感じで言うと、普通の日本の寺とは違いインド風を強調しているところがそこここに見られ、所謂、奈良の天竺様とはまた違った感じです。
目薬なんか売っていたり、大丈夫かなって思いますが、製薬会社tが作っており、商売上手っていうところですね。
インドの言葉で塔のことをスツーパというそうですが、これが日本ではどういう訳か卒塔婆の語源になっているそうで、確かに卒塔婆の上の方は塔の先のようにギザギザになっています。(これ本当の話)
束明神古墳は天武天皇と持統天皇との間に生まれた草壁皇子が埋葬されていると、考古学者の間では云われている古墳です。
佐田の集落の奥まったところに春日神社があり、拝殿に接して束明神古墳がある。
7世紀後半の古墳末期の古墳で昭和59年に調査され、直径60mの範囲で造成し中央部に墳丘をつくった大規模な八角形墳である。石室は横口式石槨で約50cm四方で高さ30cm程の凝灰岩を加工した石材を使用して組み立てた家形の石槨です。
ひっそりとした雑木林の中にあり、宮内庁の陵墓指定であれば立派に整備されている墓となっていたでしょう。
草壁皇子は皇太子として次の天皇の地位が約束されており、天武天皇崩後の殯宮や山陵造営では主導的な役割を果たしましたが、これは次期皇位継承者が草壁皇子であることを印象づけるためだったのです。
しかし、天武天皇の皇后、持統天皇のとき689年即位することなく28歳の若さで亡くなりました。
妃は天智天皇の皇女、阿閉皇女(のちの元明天皇)で二人の間には文武天皇、元正天皇、吉備内親王と三人の子供が生まれています。
第72回聖武天皇陵



第74回(石山勢田方面)
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