大津市瀬田

●瀬田唐橋の変遷
 天智天皇が667年の近江大津の宮への遷都時に、はじめて瀬田に橋が架けられたことが、『日本書紀』の記述されている。
その後の瀬田橋の推移をみると『続日本紀』のなかに奈良時代の中頃の光明皇后に気に入られ大出世した藤原仲麻呂(恵美押勝)が乱(764年)を起こし、押勝とその子孫らの官位・姓を剥奪し、押勝らは太政官印を盗み、宇治から近江へ向かい逃走。
山背守の日下部子麻呂らは先回りして『勢多橋を焼く』の記述がある。
さらに、都が長岡京へ、ついで平安京へ移される時、再び近江国に東海道が通り、瀬田橋が、都から近江国府を経て東国へ通じる官道の重要な位置を占めた。
瀬田橋は、火災や地震により消失したりしながら、平安時代末から、戦国時代まで盛衰を繰り返し、現在のような姿に近づいたのは、織田信長と豊臣秀吉の時代であった。
信長は天正3年(1575年)に長さ330m、幅47mの単橋をわずか90日間で架けさせており、その後、秀吉が上流の現在地に移し、中の島を利用した双橋に架け直したとされている。
擬宝珠の銘から天正以後、江戸文久元年(1861年)に至るまで16回の架け替えが行われている。

●建部大社
 瀬田唐橋から旧東海道を江戸方面に5分ほど進むと、変則四叉路があり、「建部大社」の石鳥居が見えてくる。
この神社は近江一の宮で一の宮とは各国で一番由緒正しき権威のある宮という意味で次が二ノ宮、三ノ宮というようになっている。鳥居をくぐって参道を直進し、駐車場を越えて左に曲がると、神門が見える。
その奥に、御神木の三本杉、入母屋造の拝殿、本殿と権殿がある。本殿には、日本武尊(やまとたける)、相殿に天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、権殿に大己貴命(おおむなち大国主命)を祀っている。
由緒については、古くから建部神社、建部大明神、建部社とも称し「延喜式」神名帳では、名神大社に列せられている。
昭和52年に「建部大社」と改称したということなのですが、取り敢えず奈良平安の昔から由緒のあるところなのです。 境内には、重要文化財の石燈篭(文永七年在銘)一基と、宝物館には、同じく重要文化財の木造女神像三体(平安時代)が伝来している。

● 近江国府
 建部大社を出て北東の方向に(当然まっすぐには行けない)800m程のところ3〜4階建てぐらいだったと思うのですが鉄筋コンクリートのアパート風の住宅を越えたところに結構広いハラッパがある。
これが近江国衙(こくが)跡です。
奈良時代、中央から国司が派遣され、この政庁を国衙(こくが)といいました。近江国衙は8世紀中頃から10世紀末まであったとされています。
 

● 瀬田廃寺 せたはいじ  この場所はとある本に掲載されている地図をたよりに近江国府跡から歩きました。
この寺院跡は、近江国衙の南々西、野郷原(のごはら)にあるのですが、その本の地図によると北から瀬田廃寺、新幹線、名神高速道路となっていました。従って現場近くの新幹線の北側を探し回ったのですが見つかりませんでした。
当然近所の人やお百姓さんに聞きましたが何方もご存じありません。 迷いに迷ったあげく、名神高速道路の南側に住宅地図の看板があるのが見えており、その地図を見るべく新幹線と名神の跨線橋を渡ったところ瀬田廃寺の石碑がありました。本のバカヤロー。
この寺院は名神高速道路建設に伴う発掘調査で、塔、金堂、西僧房、西回廊が見つかっており、四天王寺式の伽藍(がらん)配置と判明。出土遺物から、奈良から平安時代頃の寺院と考えられるそうです。寺院跡は公園となっており、礎石の一部が残っています。    



  第73回(壷阪寺)            第75回(寂光院)


       

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