曲は早春です

京都嵯峨方面                                     トップ

歴遊会の活動も第91回目を迎えることになりました。
思えばこれまた永い歴史と思います。
今回はJR嵯峨駅を出発して大覚寺、後宇多天皇陵、嵯峨天皇陵、嵐山と歩いてきます。
このあたりの地名は嵯峨というのですが、この地名は賀美能親王(嵯峨天皇)が唐の文化に憧れ長安北方の景勝地、嵯峨山から取ったものだそうです。
テーマはというと天皇陵を見ていただいてお分かりになるかも知れませんが、平安京誕生直後と南北朝の始まりを大覚寺を通して考えてみようということです。

押さえておきたい人物系図

嵯峨天皇
嵯峨天皇(786〔延暦5〕〜842〔承和9〕)は平安遷都を果たした桓武天皇の子で平城(へいぜい)天皇の弟です。
幼い頃から聡明で、806年桓武天皇の薨去に伴い兄の安殿(あて)親王が平城天皇践祚とともに皇太弟にたれられました。
しかし、平城天皇は病弱(一説にはノイローゼ)であったため3年で弟の賀美能(かみの)親王に譲位しました。
平城天皇を支持していた人物に藤原式家の仲成と薬子の兄妹がいたのです。
薬子は平城天皇の寵愛を受け兄の仲成と共に政治的権力を持っていて、藤原南家の藤原吉子とその子の伊予親王に無実の罪を着せて失脚させ、桓武天皇の懐刀の藤原緒嗣も失脚させています。
ところが権力を欲しいままにしようという仲成と薬子の野望はこの嵯峨天皇への譲位で頓挫してしまったのでした。

ここに、嵯峨天皇の時代が始まったのです(809年4月1日)。
ところが、嵯峨天皇はこの年の12月から病の床に伏してしまいます。

逆に平城天皇は上皇となり、旧都である平城京に移り遷都後荒れはてた奈良の地を整備していきます。そして天皇の重圧から開放されたためか元気を取り戻してきたのです。
こうなると、譲位が早過ぎたとの思いと上皇派の勢力が結びついて平城京遷都を企てようとするのです。

その勢力は平安京の嵯峨天皇側の勢力に匹敵するほどの大きさになり、いわゆる「二所朝廷」という状況となりました。
嵯峨天皇側が上皇の画策を知ったのは、上皇の息子の阿保親王達が密告したと言われているのですが・・・?

この動きに対して天皇は810年、上皇の第1子で皇太子の高岳親王を廃し、異母弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太弟に立てました。
さらに蔵人所や検非違使を新設するなど機構改革を行い、文人の積極的登用、内宴を始めとする年中行事創始など
朝廷ないの刷新を図りました。

ところがこの年、上皇側は9月6日平城京遷都の詔を出し事態は泥沼化していくのです。

ここで嵯峨天皇はこの一連の騒動の原因は全て藤原仲成と薬子の兄妹にある。仲成を佐渡に左遷、薬子を追放するという策にでました。
これに反発した上皇側は軍を動員し、薬子と共に奈良から一旦東国に移り兵を募ろうとしましたが、天皇側は坂上田村麻呂に各地の関所を固めさせ、仲成を射殺させたのです。
結局上皇軍は東行を断念して平城京に戻り、薬子は服毒自殺、上皇は出家して仏門に入り騒動は集結したのです。
こういうややこしい話は壬申の乱以来の内乱勃発の危機であったといっていいでしょう。


三筆・三跡はご存じでしょう。
三筆というのは嵯峨天皇、空海、橘逸勢、三跡というのは小野道風、藤原佐理、藤原行成ですが、今ここで取り上げている嵯峨天皇が三筆に入っていますね。

嵯峨天皇は空海、橘逸勢、小野篁、最澄らと親交があり奈良時代の中国風の文化から平安時代の純粋の日本文化へと移行させた人物であると仙道は高く評価しています。

漢詩人としても名高く『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に多くの漢詩を残していますし、『類聚国史』には和歌も残していますし、箏と笛などの演奏もしたということです。


左の書は左から橘逸勢、嵯峨天皇、空海の順です。
それぞれ特徴があって素晴らしいですね。
仙道は嵯峨天皇の「風」と空海の「雲」が好きです。

政治面では律令制を整備するため「弘仁格」、「弘仁式」を編纂しています。






嵯峨天皇陵


嵯峨天皇陵は御覧の通り、平地から山道の80m程登ります。
このページのトップにあるのは嵯峨天皇陵から京都市内を撮った写真です。
景色は抜群、弥生3月末といえど急な坂の上りで一汗かかないと嵯峨天皇陵に辿り着くことはできません。

季節もよかったのか、登り道で3組のご夫婦とすれ違い「こんにちは」の挨拶を交わしましたし、左写真のように小学生も登っていました。












後宇多天皇

後宇多天皇(1267〔文永4〕〜1324〔元亨4〕)は亀山天皇の第3皇子で8歳の時(第1回元寇の年)践祚しています。

8歳というからには当然統治能力はなく、実父である亀山上皇が院政を敷いたのです。
お祖父さんというのが88代後嵯峨天皇で、1272年薨去しています。
89代は後深草天皇で90代は父の亀山天皇だったのですが、この頃、院政を行うのは当然のこととなっていました。

院政を敷くことのできるのは「治天の君(天皇の親)」でなければならないという不文律があったのです。
さて、後嵯峨上皇は後継の「治天の君」を決めていないまま崩御してしまったことから、後深草天皇か亀山天皇かでもめ始めたのでした。
どちらかが上皇になって院政を敷くということは「治天の君」の法則からすれば次期天皇を誰にするかと言うことと等しいことだからです。

こういうもめ事の中1274(文永11)年1月26日後宇多天皇が践祚誕生したのです。
つまり、前述の通り亀山上皇の院政の始まりなのです。
後宇多天皇の在位は13年9ヶ月で後深草上皇の皇子伏見天皇に譲位したので、後深草上皇が院政を行えるようになったのですが14年近く待たされたことになります。

後宇多天皇は大覚寺に宮室をつくり亀山、後宇多の皇統を「大覚寺統」といい、後深草、伏見の皇統を「持明院統」といいますが、伏見天皇が即位して朝廷の実権は大覚寺等から持明院統に移ることになったのです。
それから間もなくの1290年3月9日伏見天皇の暗殺未遂事件というのが起こります。

数人の武者が皇居に乱入して天皇の命を狙ったのでした。武者は警護の武士と戦い、ついには自刃してしまうのですが、検死の結果身元が分かりました。
しかし、背後関係が分からずじまいに終わったのです。
このためこの事件は大覚寺統が仕組んだものであるとの噂が広まったのです。真意の程は分かりません。

こうして大覚寺統と持明院統の対立は激しくなって行くばかりでした。しかも両統とも自派だけでは政局を転換させる力はないのでした。
この混乱を喜んで見ているもう一つの勢力があったのです。
それは鎌倉幕府なのですが、力は朝廷よりもあり、この混乱の調停役も行っていたのです。
そして、 「天皇の在位は十年とし、持明院統と大覚寺統交互に天皇に即位し、皇太子は反対の統からだす」という形で決着を着けたのです。
これがいわゆる文保の和談というものなのですが、この和議も所詮はその場限りのものにしかすぎず、両統の対立は続いていき、やがて南北朝時代へと進んでいくのでした。
南北朝への話は長くなるので今回はここまでにしておきます。



後宇多天皇陵


後宇多天皇陵の前に池がありました。
周濠というものではなく、単に池だと思います。
ここに、天皇陵としては珍しく錦鯉が泳いでいたのですが、まさか宮内庁が天皇陵の池で飼っているのではないと思うのですが・・・・?

ここは蓮華峯寺陵といい門の後は右写真のように一宇の御骨堂が建っています。
ここには後宇多天皇とその母である亀山天皇皇后洞院佶子の他、亀山天皇分骨所、後宇多天皇皇后子内親王分骨所、後二條天皇分骨所ともなっています。

ちはやぶる神も光をやはらげて雲らず照らせ秋の夜の月 (新後撰集)
の歌があります。





大覚寺
大覚寺は真言宗大覚寺派の総本山で本尊は五大明王です。
809(大同4)年に即位した嵯峨天皇は、都より離れた葛野の地に橘嘉智子(壇林皇后)との新居として嵯峨院を建立しましたのが嵯峨院(嵯峨離宮)です。
大覚寺は876(貞観18)年嵯峨天皇の長女で淳和天皇の皇后である正子が嵯峨院を寺院として改め、第2子の恒寂入道親王を開山としています。
前述の後宇多上皇はここで院政を敷いたことでも知られています。
1335(建武3)年の兵火で全焼、後宇多天皇皇子性円法親王が24世となり再興し、1392(明徳3)年には南北朝の対立に終止符を打つため講和会議をこの寺院で開かれています。
1467(応仁元)年応仁の乱が始まりほとんどの堂を焼失し衰退しました。
しかし桃山時代、江戸時代、大正時代と再興されてきており、現在では、近畿三十六不動尊霊場の第十三番札所として全国各地から参拝者が訪れています。

表門  江戸時代初期の木造切妻造本瓦葺の門で素木造りのため大寺院としては品粗な感じがする。


勅使門  幕末の頃の再建で門は表門と同じく四脚門で屋根は切妻造りであるが、正面および背面に唐破風があり、その唐破風の部分のみ漆を施し、金鍍金の飾り装飾をしているため表門に比べ優雅で立派な感じがする。


式台玄関  玄関の部屋は「松の間」とよばれ、正面および左右の襖に描かれた金碧画の「松に山鳥図」が見事である。屋根は妻側が正面であり、ここに銅板葺きの唐破風を配した造りで、妻飾りは木連格子懸魚附き。


宸殿  徳川2代将軍秀忠の娘東福門院和子が、女御御所の宸殿として使用していたもので、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。
屋根は檜皮葺き、廊下は鶯張りである。


五大堂(本堂)  不動明王を中心とする五大明王を安置する大覚寺の本堂で、正面側面とも5間6柱のため奥行きが深い建物である。 大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁がある。



またこの地は日本の映画史上、最も栄えた日本のハリウッドであり、江戸時代の雰囲気を残しているこの寺院で撮影される映画、テレビ時代劇は数限りなくあります。
一例を挙げてみますと、

タイトル シーン
壬生義士伝           02/東映 隊士を調練する白州は宸殿前の白州
天下の副将軍水戸光圀   92/松竹 愛洲と舟の上で語り合う光圀は大沢池
忠臣蔵 決断の時         /松竹 築地鉄砲州の浅野家上屋敷は大門
白虎隊              86/日テレ エンディング
必殺仕事人・特別編        81/1/2 家老の駕籠が出てくる大坂屋敷は大門
十一人の侍           67/東映 忍藩邸は明智門、仙石隼人と忍藩家老は広沢池
鬼平犯科帳           95/松竹 おまさは無理矢理船に同乗し共に行く。その後を追い闇の中から現れる火盗は大沢池
京極夏彦 隠神たぬき    00/松竹 乾同心が入ってゆく京都西町奉行所は明智門、隠れていた黒子姿の治平に密殺は五大堂観月台
暴れん坊将軍 池が出てくるシーンはほぼ大沢池、放生池

その他数えたらキリがありません。




大沢池

大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)だそうです。
嵯峨天皇が唐の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれています。

南東の丘陵斜面に堤を築き、北側の名古曽の滝の水が流れ込んでいました。後に滝は涸れ、現在は有栖川から取水しています。
小倉百人一首に「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」というのがあるのをご存じでしょう。
ここにある滝こそがその滝なのです。
歌は藤原道長の嵯峨逍遥の折に三十六歌仙の一人前大納言公任が詠んだ歌で千載集(1187年)に載っていることから滝は平安中期には涸れていたんでしょうね。


池の中に「天神島」「菊ケ島」の二つの島がつくられている。「菊ケ島」で天皇は野菊を採り水がめにこれを差し入れたときの形が「天・地・人」にかたどられたことから嵯峨華道がはじまったといわれています。
池のほとりには、茶室望雲亭、心経宝塔、石仏があり、国指定の名勝地になっています。





               第90回(暗峠)         第92回(淳和天皇陵)



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