LOVE by blue moon rain様


暗峠へ                                          トップ  

名前を聞いただけで何となく鬱そうとした感じを憶えます。行ってみたくなりますね。
暗峠????何て読むのだろう、どこにあるのだろう、どんなところなのだろう。
これが最初の感想です。
読みは『くらがりとうげ』、位置は奈良県と大阪府との間だ、生駒山山頂南約2Kmのところです。
それでは歩くコースにしたがって案内致します。
出発地点は近鉄生駒線一分(いちぶ)駅。
駅から西へ進み突き当たりを右手に折れるとすぐ神社が見える。ここは延喜式内社の往馬(いこま)大社である。


往馬座伊古麻都比古(いこまにいますいこまつひこ)神社
祭  神: 伊古麻都比古神 伊古麻都比売神
       気長宿祢王命(神功皇后) 足仲津比古尊(仲哀天皇)
       譽田別尊(応神天皇) 気長足比売尊 葛城高額姫命 
住  所: 奈良県生駒市壱分町1527−1
由  来: 神社庁平成祭礼には当社の正確な創立年代は明らか
       ではありませんが、大神神社(おおみわじんじゃ)や石上
       神宮(いそのかみじんぐう)と同じように生駒山を神体山
       (御神体)として祀られた日本で最も古い形態の神社で
       ありますので、おそらくこの生駒谷に人々が住み始めた
       太古の頃から生駒地方の守り神としてこの地に存在い
       たしました。
       歴史書物の中で往馬大社に関する最も古いものは、
       「総国風土記」の中の「伊古麻都比古神社、雄略3
       (558)年」とあるものです。
       「延喜式」(927年)には「往馬坐伊古麻都比古神社二座并大月次新嘗」
       とあって、当時の日本全国の官社(2,861社)の中でも最高位の官幣大社
       (案上幣、198社)に列せられていました。
       当社の御祭神は本来、伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神の二柱でしたが、その後鎌倉時代の八幡信仰
       の隆盛に伴い五柱の神を合祀して、本殿御祭神は現在の七柱となりました。
』とあります。
       最後の八幡信仰の隆盛に伴い五柱の神を合祀してというのが上に挙げた祭神の神功皇后一族のことで
       気長足比売尊は皇后の父、葛城高額姫命は母のことです。


祭は10月に行われる古式豊かな火どりの行事で12日は宵宮祭15〜22時。13日は本祭り14〜17時で
後世の「座」の制度を残し上と下に別れた氏子の競争によって神事が行われ、「勝負祭り」とも呼ばれています。



竹林寺

竹林寺は、奈良時代の僧 行基(668〜749)の開基と伝えられている寺です。
本堂には木造薬師如来立像(重文)が安置されてる他、境内には行基の墓所があり、これもいろいろ興味をそそられる
話があります。
1235(文暦2)年8月25日に、行基の舎利瓶が発見されたいうのです。時は鎌倉時代ですね。
実際は唐招提寺の僧寂滅が整備をするために一度舎利瓶を掘り出し、土壇を築き、塔廟を建て埋め直しているということ
なのです。
このことは唐招提寺に残る『竹林寺略記』に記載されており、発掘された時、八角石筒の中に銀筒を納め、その中に
「行基菩薩遺身舍利之瓶」の銀札を付した銀製舍利瓶が奉安されていたというのです。
勿論、埋め戻されていますが、再び掘り起こされて現在その一分の破片が奈良国立博物館に所蔵されています。
竹林寺の名前の由来は弟9回歴遊会活動記録にもあるように行基があまりにも偉大で、文殊菩薩の化身とされており、
文殊の霊場である中国の五台山の大聖竹林寺に因んでいるのです。



行基の墓

もう少し行基に触れておこう。
682(天武11)年、15歳で出家し、飛鳥の法興寺で道昭の教えを受けています。
行基が後年、社会事業を行ったのは道昭の影響をうけたからだと言われています。
次に薬師寺に移り、今度は義淵の教えをうけたのでした。
 当時の法興寺や薬師寺は国家仏教を担った寺で、官僧たちは律令体制に奉仕していた。行基は最初は
官僧だったのです。行基はここで法相学を学んでいたと記述があります。
しかし、704(慶雲1)年、故郷である和泉国大鳥郡蜂田郷に戻りました。
さらに翌年、母親と一緒に奈良に行き、707(慶雲四)年、生駒山に篭り、修行を始めることになりました。
しかし710(和銅3)年、母親は亡くなりました。

母を大切にしていた行基にとって何か心の変化があったのではないでしょうか?
このころには、過酷な労働から使役の民たちの逃亡が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり
自然と私度僧になってしまっていたのです。
また、逃亡しなくても路傍に餓死する者も多くいました。行基は彼らを救うために布施屋(ふせや)を9ヶ所も作り
ました。

弾圧にもかかわらず行基と彼を取り巻く僧と民衆は拡大を続け、722(養老6)年には平城京右京三条に菅原寺
を建てることができ、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者が広
がっていきました。

723(養老7)年の三世一身法は自発的な開墾を奨励するものですから、行基は民衆と共に道や池、溝、港など
の開発を始め、行基の名は全国に知れわたるようになったのです。
前回歴遊会で行った山崎にも対岸の橋本まで橋を架けたのは行基でした。中井真考著(永田文昌堂)『行基と古代仏教』
によると橋6、道1、池16、溝6、港2、堀4、堤防3、前述の布施屋9ヶ所と凄まじい活躍をしています。

これに対して朝廷は行基の影響力を無視する事が出来ず、740(天平12)年頃までには行基を薬師寺の師位僧
(五位以上の官人と同等の官僧)として認める方針をとらざるを得なくなったのでした。
東大寺建立に当たって聖武天皇は行基を大僧正の位に任じて民衆の力を手に入れたのでした。
その行基の墓がここ竹林寺にあるのです。

竹林寺の境内の説明書板には『奈良時代に行基菩薩が、生馬仙房(いこませんぼう)をかまえた故地とみられる。行基は文殊菩薩の化身と仰がれ、鎌倉時代に舎利瓶が出土し、その後円照良遍、忍性、凝然ら高僧が集い堂塔が整った。寺名は文殊の霊場中国の五台山聖竹林寺にちなむ』と書いてありました。
その忍性の墓が左の写真です。
ここの説明板には『鎌倉時代の僧、忍性(1217〜1303)は、文殊菩薩と行基を信(敬)仰し、慈善救済事業につとめた。関東に戒律を広め、鎌倉極楽寺に没した後、遺言により竹林寺、極楽寺、大和郡山市の額安寺に分骨された。墓塔下から銅製骨蔵器など36点(重文)が出土した』
とあります。




竹林寺の参道の東側、山門の前に竹林寺古墳があります。
この古墳は前方後円墳なのですが現在は後円部分が残り、前方部分は削り取られています。
1941年に調査が行われており、全長は80メートル前後と推定され、後円部は直径が45m、高さ8m、墳丘の周囲には埴輪を配置していた跡が発見されているらしい。
後円部中央に、礫を敷き、粘土で船形の床をつくって木棺を安置したということらしいのですが、粘土槨と竪穴式石室を複合したような構造であったということです。 
???よく分からない古墳ですがこの地方に住んでいた豪族の墓ではないでしょうか。








竹林寺をあとにして南に向かいます。山の中の起伏の多い住宅地を抜け、往生院という寺の墓地の中を進み、勘を頼りに進みました。
やがて、住宅地のメインストリートかと思える2車線の道路に出たのですが、ちょっと下の方に何やら小高い丘があります。
これが次の目的地だろうと見当をつけて行くことにしました。



美努岡萬墓

美努岡萬とは誰?と思います。
読み方は「みののおかまろ」と言います。
701(大宝元)年、山上憶良らと共に遣唐使として中国へ渡り、716(霊亀2)年、従五位下に叙されている人です。
宮内省主殿寮の長官で中国の文化を日本に取り入れたのです。
728(神亀5)年68歳で亡くなりましたが墓は730(天平2)年10月に営まれたということです。但し2年後というのは墓誌が追納されたらしくて、この墓誌が明治5年、土採り中に地元の青年萩原忠平氏によってこの地で発見されました。
昭和30年に国の重要文化財に指定されて東京国立博物館に所蔵されています。
明治11年にはここに墓碑が建立されました。
昭和59年2月には生駒市と奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査の結果、岡萬の遺骨の一部、明治に複製された墓誌、埋葬施設用と思われる木炭片が出土しています。
その構造は竪穴の四角い土壙の中に遺骨を納めた木櫃を安置し墓誌をそえ、木炭で周囲を被い、土を積み上げて小さい墳丘にしたものと考えられます。
                          (生駒市教育委員会)


いよいよ、暗峠へ向けて山道を登っていきます。暗街道は急な坂で車も擦れ違えない細い道です。
しかし、なんと国道(308号)なのです。
おそらく、日本で一番狭くて急な坂道の国道ではないでしょうか。
途中石仏寺という寺がありました。
融通念仏宗。山号は岩生山。創建年代や寺歴が明らかではありません。
本尊は花崗岩を用いた丸彫坐像の阿弥陀三尊石仏で、1294(永仁2)年に伊行氏(いのゆきうじ)によって作られたことが銘に刻まれています。
しかし秘仏となっており見ることは出来ませんでした。
庭の石仏を撮っておくことにしました。
総高136cm(像高107.5cm)。上部が欠損しているが来迎印を結んだ像全体を薄肉彫りで表したうえに面部、衲衣(のうえ)、衣文(えもん)などを線彫で施している。
石仏右側には文永7(1270)年の銘がありこの辺で最古の石仏である。


下の写真もここから500mほど登ったところにあった石仏です。
室町期のものでしょうか?
この辺まで来たとき霙混じりの雨が降ってきましたが、疲れで足早に歩くこともできず傘を差しながらの登りとなりました。
歩くこと一分駅から2時間半、気温は下がって来ましたが、ようやく峠に辿り着きました。




暗峠


上の写真は左から峠の道標(標高455m)、奈良県側から見たところ、大阪府側から見たところです。石畳はこの100m程の間だけです。

暗峠の名前の由来としては生駒市の市史によると3つの説が紹介されています。

神功皇后が三韓征伐に向かう時、朝の鶏の合図で出発することになっていました。鶏が鳴いたので出発したのですが、あまり早過ぎたらしく、いくら行っても夜が明けない。
峠の頂まで行ってもまだ暗かった。そこで、暗峠と名付けたという。

奈良時代、道鏡と称徳女帝の命で和気清麻呂が大隅に流されました。流刑の沙汰によって「清麻呂をこの峠で暗殺せよ」と命が下ったという。ところが、にわかにものすごい雷雨が起こり、天地が暗黒になり、その為に清麻呂は危難をのがれたという。その時暗くなったので、ここを暗峠というようになった。

昔、郡山城を築城した時、この峠付近の山林から用材を搬出しました。
それ程よく茂っていたので暗い峠と言い習わされていた。

他にも 昔この付近を小椋山(おぐらやま)と言い、峠を椋嶺(くらがね)と呼んだからとか、余りの急坂で昔、荷を運ぶ商人がここで鞍を替えたからとか、大和からこの地にたどり着くともう暗がりになるからとか諸説があるようです。
どれが真実かは分かりません。

暗峠を通る街道は大和から河内を経て難波の玉造二軒茶屋に至る古道で最短のルートでした。峠付近は宿場として栄えていたのですが今は阪奈道路、第2阪奈道路ができ主に我々のような観光客が訪れるのみとなっているのです。


左の写真は暗峠から50m程離れた祠に安置された「暗峠地蔵」です。
首の部分が損傷していました。
鎌倉中期の作でしょうか。
祠は新しいもので最近作られたもののようでした。














雨はまだ大したことは無いのですが、お腹も空いてきたことなので先を急ぐことにします。
近鉄一分駅を出てから2時間半、雨空の下で食べるよりやはり屋根のあるところで食べたいということで、急遽予定を変更して、大阪府の府民の森「なるかわ園地」に向かうことにしました。
ここは暗峠から1kmほど下って、それから街道からそれること1km程でレストハウスがあります。
ようやく辿り着いて昼食となりました。この時期「なるかわ園地」はひっそりとしていて訪れる人も少ないのでゆっくり食事をとりました。
その間、雨は激しくなり、気温もだいぶ下がってきました。
次の目的地は「弘法の水」です。寒い中、傘を差す手が冷え切ってきます。



弘法の水

ここの説明には『谷間から湧き出すこの澄水は、通称“弘法の水”と呼ばれ、毎朝一升瓶や水筒を持った人たちが飲料水として汲みにくる姿が見られます。生駒山地にそった標高400m前後の谷あいには、マグネシウムやカルシウム分の多い硬水脈が連なっていて、これが暗越奈良街道の難所、暗峠を前にしたこの場所に湧きだしているものです。古代以来、頻繁に利用されてきたこの山道を通る人々の潤いの場所となっていたことでしょう。・・・』と書かれていました。
しかし、そのしたには『水質検査の結果生水は飲まないようにしましょう』とも書かれていました????
上の一番右の写真を見て下さい。水色のポリバケツにチョロチョロと雨といから流れているのが弘法の水なのですが、見ていて飲みたいと思えなかったです。




ここからさらに下って最終目的地の枚岡神社に向かいます。道は本当に急な道です。斜度は30度くらいあるところもあり、つま先が痛くなるほどでした。
途中芭蕉の句碑がありました。


  「菊の香にくらがり登る節句かな」

芭蕉は1694(元禄7)年、病をおして伊賀上野から大阪へ向けて旅立ちました。丁度重陽の節句(菊の節句)にあたる9月9日、暗峠を越えました。
この時作ったのがこの句です。
しかし、病が祟ったのか大坂に着いてのち10月12日にこの世を去ったのです。

   「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」













枚岡神社(ひらおかじんじゃ)

祭 神: 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
      比売御神(ひめみかみ)
      武甕槌命(たけみかづちのみこと)
      斎主命(いわいぬしのみこと)
住 所: 東大阪市出雲井町7−16
由 来: 社伝によると、神武天皇の即位紀元前3年にさかのぼると伝えられています。
      枚岡神社は式内の名神大社であり、河内国一の宮です。
      天児屋根命、比売大神の2神が神津嶽に祀られていたのを650年に中臣・平岡連が
      現社地に移したのが枚岡神社の起源です。

さて神社の話はこれくらいにして、この時期、雨の中を10km以上の道のりを歩いてきたのだから梅林を見なくてはということでそそくさと通り抜け、隣に拡がる枚岡梅林へと向かいました。












せっかくの梅林も御覧のように人っ子一人いませんでした。
でも、ゴミ箱はいっぱいになっていましたから、恐らく午前中雨の降り出す前は人出があったのではないでしょうか。
タコ焼きのお兄ちゃんも客がいなくて暇そうにしていました。












          第89回(天王山)      第91回(嵯峨方面)    




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