近江神宮
 1940年、皇紀2600年の記念で、天智天皇を祭神として大津京ゆかりの地に建てられたのが近江神宮である。
近江造りという独特の様式で建てられているそうですが私にはよく分かりませんでした。
天智天皇は大化の改新を断行し、近江令の制定・戸籍の実施など多く実績を積んだ天皇であり、我が国で初めて水時計を設け、時刻制度を確立した。
そのため、境内には世界の時計約3千点を集めた時計博物館もある。6月10日の時の記念日には、漏刻祭も行われる。

近江大津宮錦織遺跡
 天智天皇が飛鳥から遷都した大津京跡とされています。
社団法人 大津市観光協会によりますと
『この辺りには早くから人々が住んでいたことがうかがえ、縄文時代の遺物をはじめ弥生時代から古墳時代初期の方形周溝墓、古墳時代中期から後期の竪穴住居や溝などが検出されています。大津宮のに関する遺構としては、巨大な柱を埋め込むための柱穴を持つ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっています。
 また、宮の中心となる内裏正殿の建物も検出されています。大津宮の中枢部とされる部分が明らかになったことで、長い間謎だった幻の大津宮の位置がやっと明らかになりました。昭和58年のことでした。』
発掘調査では巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40 〜50cmほどの柱跡が7つ、門跡、中心建物を囲んだと思われる柵列とその北側の倉庫群が発掘されている。

弘文天皇長等山御陵
 671年2月天智天皇が亡くなった。その後天智天皇の子、大友皇子を立てる近江朝廷側と吉野に隠遁していた皇太子の大海人皇子との関係はいよいよ微妙になった。
大友皇子は天智天皇陵を造営するために美濃、尾張の国司に命じて人夫を集めた。この人夫の武器を持たせていると解釈した大海人皇子は吉野から出て三重県経由で関ヶ原に入った。この間に兵を集めいよいよ壬申の乱が始まった。
結果は知られているとおり大海人皇子の勝利で大友皇子は山前の地で自害した。
大友皇子は「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していないが、明治時代に三十九代弘文天皇と追称されました。
長等山麓の古墳が陵墓に治定され、最後の地「山前」の名をとって長等山前陵(ながらやまさきりょう)と命名されました。

  第67回(東本願寺)            第69回(石清水八幡宮)

              

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