東本願寺
 全国で信徒の一番多いのは浄土真宗で東西両本願寺とも有名でここで何を紹介してよいのやら迷った末、やっぱり自分なりに知っていること、感じたことを書くのが一番だと思い自説を展開することにします。間違っていたら掲示板にご指摘して下さい。
 その前に本願寺について一言。本願寺は親鸞聖人の娘「覚信尼」が東山大谷の地に親鸞聖人の廟所(墓地)を造り堂を建てたのが始まりで、その後各地に寺基を移したが、戦国時代前後は各地に移転し天正19年(1591)秀吉がこの地を寺院寄進してここに移る。
時は移って、徳川家康は慶長2年(1602)本願寺の力の偉大さに恐れを抱き本願寺の東に寺領を与え全国の門徒を二分させ、ここに東西東本願寺が成立した。
その後4度の火災に遭い、現在の建物は明治28年再建され、御影堂(ごえいどう)は親鸞聖人の像を安置しており、927畳の大広間をもつ巨大木造建築となっている。
建築の際、大きな柱を立てるために丈夫な綱が必要であったが、藁や麻では強度を満たすことができず、全国の女性門徒が寄進した毛髪でよりあげた「毛綱」によってこれが満たされた。この毛綱は御影堂と本堂の阿弥陀堂への渡り廊下に展示?されている。

阿弥陀堂 (あみだどう)
 御影堂の南側の建物で、本尊の阿弥陀如来が安置されている。この阿弥陀堂も四度の火災にあい、現在の建物も御影堂とともに明治28年再建されている。堂内には阿弥陀如来を本尊として、向かって右側に聖徳太子、左側に法然上人の像が置かれている。さらにその左には龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信の六僧の像が置かれている。

渉成園(しょうせいえん)
 東本願寺の大門を出て真っ直ぐ東に行くと渉成園がある。よくは知らないのですが東本願寺の貫首をめぐる派閥争いがあったとき、ここが金融機関の融資担保になっていたのが明るみに出てなにやら胡散臭いことを感じたことがあった。
周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれ昭和11年名勝に指定されている。

寺院巡りをしていて一番嫌なのは拝観料で京都を一日見物すれば数千円も覚悟しなければならないのですが、ここは有り難いことに東本願寺、渉成園とも無料である。このことは声を大にして言っておかなければならないことである。
他の寺院(特にベンツやBMWに乗っている坊主のいる観光寺)も考えて欲しいものである。

豊国神社(ほうこくじんじゃ) 方広寺(ほうこうじ)
 秀吉を祀る豊国神社は、豊臣氏滅亡後、家康に取り壊された。
ここでロマンを感じるのは、やはり日本一の大仏でしょう。
この大仏はもとはといえば豊臣秀吉が方広寺に作ったものですが地震によって潰れてしまった。
秀吉の死後、幼い秀頼に代わって政務をとったのが徳川家康だったのです。この事態を不満と思っていた秀吉の部下石田三成であった。
豊臣氏に味方する大名を集めて家康の天下を亡き者にしようとしたのですが、策謀家と純朴派、光成のかなうところではありませんでした。1600年関ヶ原で戦って敗れて、いよいよ江戸時代の始まりの準備が整いました。
1603年徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣氏は地方の大名になってしまいました。
しかし、それでも尚、大名の中では秀吉の時代に蓄えた莫大な財産を保有しており、家康にとっては気になる存在であったことには違いありません。
表向きは徳川家に忠誠を誓った大名といえど元豊臣派の大名もいます。豊臣の財力は脅威ですが、無下に取り上げれば心情豊臣派の抵抗が考えられます。
貴方ならどうします。
頭のいい家康は豊臣の財力を潰すため考えたのが、この大仏の再建計画です。(と思うのです。)
 乗せられて、豊臣氏は莫大な金銀と多大な費用を費やして大仏の再建に取りかかりました。そして3年後怪しげな火災にあって、大仏は完成しないまま焼失しますが、家康はさらに大仏の再々建を豊臣氏に薦めます。再び工事が始められ、4年後に完成しました。
ここまでは、未だよかったのですが、私のような一般人には思いもよらないことを考えつくのが天下を取る人の違いなのでしょう。
なんと、このとき同時に鋳造した大鐘を問題にしたのです。これは有名な話なのでご存じと思いますが、そこに刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘が「家康の名を2分して国安らかに豊臣氏が「君」として繁栄することを楽しむ」意味だと因縁をつけ大阪冬の陣が起きるきっかけとしたのです。
ところで、「国家安康」「君臣豊楽」の文字どこにあるかご存じですか?
大抵の人は鐘の下部と思い探しますが、下部を探してもありません。下の写真の白いところですよ。


下の写真が豊国神社です。ここに秀吉が祀られています。
お墓はここには無く、この東1kmぐらいの東山の山中にありますよ。



下の写真は耳塚です。
秀吉は天下統一を果たすと更に朝鮮半島にも支配に手を伸ばそうとしました。
いわゆる文禄・慶長の役(1592〜1598)です。
朝鮮半島に攻め入った武将は戦功のしるしに朝鮮軍民男女の鼻を削ぎ落とし持ち帰ったということです。
残忍な話ですね。ただ秀吉を弁護するわけではありませんが、戦国時代武将の戦功を認めるのは相手の武将の首を持って帰ることだったことを考えれば取り分け秀吉だけが残忍だったわけではざんにんだったわけではす。






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