アラベスク2番 ドビッシー by ノクターン様
























































































談山神社、都塚古墳、石舞台古墳、酒船遺跡
談山神社(たんざんじんじゃ)は、多武峯寺(とうのみねじ)と呼ばれ、明治の廃仏毀釈までは寺院であった。
談山の名は藤原鎌足が中大兄(なかのおおえ)皇子と蘇我氏打倒を練った談山(かたらいのやま)からうまれた。
祭神は藤原鎌足で長男、定慧が父を弔うために墓を摂津からこの地に移し、十三重塔を造立し妙楽寺としたのが起こり。
妙楽寺はのち延長4年(926)には醍醐天皇によって談山権現の称号が与えられました。

 藤原鎌足は蘇我入鹿の横暴をよしとしていなかったため、軽皇子(のち孝徳天皇)と葛城皇子(のち天智天皇)をえて、共に蘇我氏打倒を企てることとなった。そのため、姻戚関係にあった蘇我倉山田石川麻呂味方にひきいれ、645年6月12日、三韓揃っての上表(作り事だったらしい)の日に入鹿・蝦夷を討った。
その翌日、皇極譲位にともなう次の天皇に軽皇子を孝徳天皇とし、鎌足は大織冠・内臣に就き冠位十二階の最高位につき、外交と近江令編纂にあったということである。
しかし日本書紀には鎌足の外交、軍事、近江令の編纂の話も何も記述されていないというのももう一方の時事である。

都塚古墳は方墳と見られ横穴式石室を持っている。
入り口は扉があって中には入れないが、覗いて見ることはできる。石室は、長さ12.2メートル、花崗岩を積み上げた両袖式。
玄室の天井が手前から中央に向けて高くなり、奥で下がるドーム状になっている。玄室の長さ5.3メートル、幅は手前が3メートル、奥が2.8メートル高さ3.5メートル。
石棺 石棺は大きい凝灰岩を繰り抜いてつくった家形で、蓋の上面に6つの縄掛突起があり、蓋の長さ2.36メートル、幅1.58メートル、外の長さ2.23メートル、幅1.46メートル、高さ1.08メートル、中の長さ1.74メートル、幅82センチである。

石舞台古墳も方墳で蘇我馬子の墓といわれいる。
石を覆っていた封土(盛土)が失われており、所謂上円下方墳なのかもしれないが決めては何もない。
最も大きな南の天井石は、重さ77トンと推定されているが私の興味は工法でありこれもロマンですね。
因みに石の総重量は2300tだそうで、これもどういうような方法で推計できるのでしょうか?

酒船石遺跡はこれまで酒船石が有名で使途が不明であったが、平成4年に見つかった石垣は天理から奈良市で採集される砂岩を使用し『日本書紀の』斉明二年の条に記されている「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の記述と合致しており、この石積みの下方から最近話題になった亀型石の出土を見て、庭園の水に関係する構造物と考えられる。
いずれにしてもこの辺りは伝飛鳥板蓋宮跡の近くでもあり、これで宮跡の東西北に水に関係する施設(おそらく大庭園があり池・川の水を利用していた)があったことは確実である。
木造の十三重塔
藤原鎌足像
藤原不比等の墓
石舞台古墳
亀型石
第65回(柳生の里)



第67回(東本願寺)
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