滋賀県長浜市


長浜市の概要


   世帯 19,000世帯    人口 58,000人の規模の市
  琵琶湖の北東部に位置し、秀吉の長浜築城以来400余年間、湖北地方の中心。
  明治初期に県下初の小学校や国立銀行を設立、鉄道を開通させるなど、進取の気性に富む。
  近畿・中京・北陸3圏の接点として、独自の文化圏を形成。

  【特産・地酒】浜ちりめん、ビロード、鮒ずし (酒)太湖、濱正宗、長濱浪漫ビール
  【イベント】長浜盆梅展(1〜3月)、長浜曳山まつり(4月)、びわ湖長浜ツーデーマーチ(5月)、
         長浜出世まつり(きもの大園遊会、アート・イン・ナガハマ等、10月)
  【出身者】石田三成(戦国期武将)、小堀遠州(造園家・茶人)、西田天香(宗教家)、国友一貫斎(科学者)
                                             
以上 出典 東洋経済新報社


JR長浜駅


  駅前には秀吉・三成出逢いの像がある。長浜市出身の武将、
 石田三成が出世のきっかけとなった、
 三献(さんこん)の茶をあらわしている像がありました。
 三献の茶とは、秀吉が鷹狩りに出かけたところでお茶を所望した。最初は、大き
 な茶碗に七・八分目のぬるいお茶が出、
 これを飲み干し、もう一杯所望した。
 二杯目は少し熱くしたのを茶碗半分ほど差し出し、さらにもう一杯求めたところ、
 小茶碗に熱くたてた茶をを少量持ってきた。
 この機転の利いた小姓が三成であった。








豊公園、長浜城祉、長浜城歴史博物館

  長浜城の前身は建武三年(1336)近江源氏の一族、
 佐々木高氏が琵琶湖湖畔の今浜に館を構えたのがはじまり
 といわれています。
  豊臣秀吉は天正元年(1573)近江の浅井長政が織田信長
 に滅ぼされると、一旦、小谷城に入りましたが、天正三年
 (1575)に この今浜の地に城を築きました。
 秀吉にとっては初めての築城であり、初めて居城した城でもあ
 るので、今浜を長浜と改めました。
 江戸時代土佐に移った山内一豊らが居城したこともありました
 たが、元和元年(1615)廃城となっっています。
  現在、石垣の一部と太閤井戸が残るのみですが、昭和58年
 復元され天守は郷土資料博物館となっています。



旧国鉄で現存する最古の駅舎
  英国式煉瓦造りの洋館で日本最古の駅舎。中は車両の部品や古い時刻表など貴重な鉄道資料が
 展示されています。



慶雲館
  明治天皇の行在所として長浜の富豪が建てたもので、近代日本庭園の先覚者・7代目小川治兵衛
 による庭園が有名です。
 毎年1月10日から3月10日まで催される
「盆梅展」はこの慶雲館で行われます。
 今回、歴遊会でこの時期に長浜に行ったもので立寄りました。

















豊国神社

  京都の同名の神社と同じく豊臣秀吉を祀った神社で慶長3年
 (1598)に建てられました。
 また秀吉の家臣の加藤清正、木村重成も祀っているほか
 恵比須、出世稲荷もあり、徳川時代の間は表向き商売の神社
 を装っていました。
 しかし、奥殿に秀吉像を祀ってあり、明治31年秀吉の300回忌
 を記に再建、現在の神社に至っています。
 この社の右側に朱色の出世稲荷があります。








北国街道

  見どころは「黒壁ガラス館」の辺りなのでしょう。
 黒壁ガラス館は明治33年、第百三十銀行の建物で倉庫、教会などを
 経て現在に至っています。
 ここは商店街・市街地の再生・活性化モデルとして注目を集めたところで
 あり、今日も盆梅展を見てきた人で大変賑わっていました。
 この写真の50mほど南に北国街道安藤家があります。
 ここは秀吉が選んだ「長浜十人衆」の旧家の一つで町の自治を委ねられ
 ていました。 安藤家は江戸期を通じて代々この地で活躍をしてきたわけ
 です。
 現在の建物は明治38年に建てられてものですが、虫籠窓(むしこまど)、
 紅殻格子などがある長浜らしい近代和風建築で一見の価値があります。
 また、北大路魯山人も度々逗留して離れの「小蘭亭」には直筆の絵を
 残しています。
  しかし、歴遊会として見ておきたいのは武者隠れ道だろう。
 これは戦いの時、身を隠すため家敷と家敷の境界を不規則に出入りさせ
 ていると伝えられているところ
 なのです。








大通寺
正式名称は「真宗大谷派本願寺長浜別院」と言いますが、長浜では「御坊(ごぼう)さん」の名で通っています。
真宗大谷派の名刹で、建物や美術品は国の文化財に指定されています。
下の写真を見て下さい。本当に素晴しい芸術品と呼んでもいいくらいすばらしい名品と思います。
 





































                                ↑木鼻が3段




長浜八幡宮

  長浜八幡宮は千年の歴史を持ち秀吉の保護を受けた
 長浜の氏神さまです。
 長浜の祭りといえば「曳山まつり」でしょう。
 豊臣秀吉は男児誕生をおおいに喜び村人に砂金を
 与えました。
 この砂金を元に山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に
 曳き回しました。これが「曳山まつり」の始まりと云われて
 います。
 この祭は江戸時代に入ると、曳山の舞台で子ども歌舞伎が
 演じられるようになりました。







舎那院(しゃないん)

  もとは長浜八幡宮の神宮寺で、
 この寺も秀吉の保護を受けていま
 した。
 秀吉が家族の息災を祈願した仏
 が今も残っています。
 仏像は鎌倉時代作のものが多く、
 本尊、阿弥陀如来をはじめとして
 多くが重要文化財の指定を受けて
 いる。
 秀吉は神仏を大事にしていたんで
 すね。
  左の写真、鐘楼ですが、その壁の彫りが珍しくカメラを向けてきました。



石田三成出生の地
 長浜の市街地から東へ歩くこと1時間あまり、「三成公グリーンロード」脇に右の写真の
棒(?)が立っていて回りは田圃だけで何もありませんでした。
一同、唖然。
あまりのショックで言葉も出ませんでした。

それでも歴遊会会長さんが更に調査。ついに、以下の写真の場所を発見してきてくれました。





















左上は石田家一族の供養塔。
左は三成とは関係がないのですが石田神社に置いてあった石棺の蓋。
上は三成屋敷跡に建てられた銅像。

この供養塔は昭和16年に隣接する八幡社の地中より出土した五輪塔を安置し直したものです。
五輪塔には永禄・天正年間の銘があり、江戸時代に迫害の
中で、石田一族関連のものを埋めたものであろう。



石棺の蓋はここから約300m東南に行ったところに朽木街道があり、小川に掛っていた橋だったそうです。
唐戸橋と呼ばれていましたが、実は、5、6世紀頃の石棺の蓋だったのです。
ちょっと驚き!





本日の歴遊会の活動はここまでです。
以下は予め調べて置いた史跡で実際には遠くて行っていません。
本日のメンバー





小谷城址
  浅井家三代(亮政、久政、長政)の栄華を誇った小谷城であったが、天正元年(1573)8月、
 織田信長によって落城した。
 浅井氏は南近江の六角氏には1525、1538年と戦い2度とも敗れている。そのため亮政は越前の
 朝倉氏と結びつき失地回復している。
 長政は信長の妹「お市」を妻にしており友好関係にあった。
 1568年織田氏とともに六角氏の観音寺城を陥落させて、ついで高島郡の朽木氏を服属させて湖北
 一体を領有し、戦国大名としての地位を確立していた。
 しかし、1570(元亀元)年、信長が越前に侵攻を始めたため、朝倉との同盟関係にある長政は信長
 と戦うことになり、姉川の戦となった訳である。
 姉川の戦で浅井長政は信長に敗れ、本願寺、武田信玄、比叡山などと結び巻き返しを図ったが、これも
 ならず、前述のように落城、長政は久政とともに自刃した。



国友鉄砲
  あまり銃砲店のことはご存じ無いと思いますが、私の知っている京都や大阪の銃砲店は全て
 国友銃砲店です。
 何故なのか不思議でした。
 足利義晴が将軍の時、管領細川晴元が近江国友村の善兵衛に「その方、刀鍛冶の名手と聞く。
 日本の刀鍛冶が、南蛮人のつくった鉄砲をつくれぬはずはあるまい。」と鉄砲作を命じた。
 1543年のことである。
 初めて見た鉄砲、その威力、そしてこれを作る。善兵衛はさぞや、驚いたことであろう。
 しかし、彼は燃えた。これが匠の魂というものである。
 当時ネジという技術はまだ日本にはなかった。
 もちろん銃身の強度をどの程度にすればよいかなど全く分らないのである。
 それでも1年の歳月を待たずして和製鉄砲が完成したのである。
 この鉄砲がもたらした影響力は測り知ることができないのである。
 この国友村こそ今の長浜市国友町なのです。
                                  以上 史実に基づいての創作です。




      第79回(奈良県五條市)    第81回(大阪府四条畷市)  



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