四条畷〜寝屋川

JR四条畷駅に10時に集合
駅からから北西200m歩いたところに楠木正行(まさつら)の墓があります。

伝楠木正行墓
 楠木正行を語るに当って先ず楠木正成から始めねばなるまい。
正成は河内の土豪で南北朝時代の武将であった。
1331(元弘一)年後醍醐天皇に応じて挙兵しわずかな軍勢を率いて、鎌倉幕府の大軍を相手に河内千早城に幕府軍をひきつけて奇策をもって孤軍奮闘した。
また各地で討幕の兵が挙がり、1333年5月22日 ついには、源頼朝以来140年続いた鎌倉幕府は滅亡した。
1336年5月、九州から攻め昇って来た足利軍を兵庫の湊川に迎え討ったがここで激戦の末に戦死する。



 この時のことを
『太平記』では『楠木一族十三人、その家来六十余人が並んで座り、念仏を唱えて一斉に腹を切ったという。
最後に上座に坐っていた正成は、弟の正季に向かって
「来世では何を願うか」と問うと、「七生まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。
(日本人てこの手の話に弱いですね。仙道もググッときてます。)



それを聞いた正成は、
「罪業深き悪念なれども、我もかやうに思うなり、いざさらば同じく生を替えてこの本懐を達せん」と約束して、兄弟ともに刀を刺し違えて死んだ』のです。

 
壮絶な最期じゃないですか、こういう話は戦前の教育では忠君のモデルとして教えられたのでしょう。

日本には「忠君」思想はいつから根付いたのだろう。水戸学からでた「尊皇攘夷」もしかり、こういった思想は明治になっても脈々と続き、国定国史教科書の史観となり、陸軍将校の精神的支柱となった。そして、狂信的な流れは昭和維新を信じる妄想グループにひきつがれ大東亜戦争を引き起している。
おっと、いけない司馬遼太郎さんの受売りですが話が脱線してしまいました。
本題に戻します。
楠木正成の長子がここの墓所に眠っている正行です。
年輩の方(55才くらい以上かな)なら皆知っている歌があります。

「♪青葉繁れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ・・・・・・♪」

正成が湊川に向かう途中の桜井宿で、正行 に
「このたびの合戦は、天下の安否を占う合戦となろうし、父がそなたの顔を見ることもこれが最後と思うなり、正成が討ち死にすと知れたならば、天下の権は必ず尊氏が握ると心得よ。
されど他人はどうであれ、そなたはしばしの命を助からんがために、我らが多年の忠義を捨て去って足利に降ってはならぬ。生き残っているうちは、金剛、千早の近辺に引き籠もり、敵の大軍が押し寄せて参ったならば決死の覚悟でこれに当たり、武略をもって敵を欺け。また万が一にも禍が主上の御身に及ぶようならば、身を犠牲にしてもお守りいたせ。そのことが、亡き父に対する第一の孝行となるであろう。」

有名な桜井の別れである。

正行は、父の遺訓を守って足利氏に対抗。11年後の1347(正平2)年8月、北朝方の隅田城を攻めこの合戦を皮切りに北朝軍と戦い、1348年正月楠木正行軍三千余騎は、四条縄手の合戦で高師直(こうのもろなお)を将とする6万人の大軍を前にして奮戦したが、ついに矢折れ、力つき果て弟正時と刺し違えて自刃した。
当時、正行は24歳、弟正時は22歳、家来30余人との最期の場がここ四条畷である。
四条畷の合戦に行く前、楠木正行は一族および兵百四十三人をひきつれて、吉野の後醍醐天皇の御廟に参拝し、今度の合戦で討死すべき覚悟であることを申し上げ、如意輪堂の壁板を過去帳として各自の名字を書きつらね、その奥に

 返らじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる
(仙道訳−自分も戦に出るときは、父と同じようにもう二度と南朝には帰れないと思っている。そのときには歴史に名を残すような武士でありたい。 )

 の歌を書きとめて、生還を期せぬ決意をかため、髪を切って仏殿に投げ入れ、1348年1月5日戦場に臨み討死しました。

楠木正行墓の楠は(府の天然記念物に指定されている。)1929年楠木正行の供養碑が建てられた時、その両側に植えられましたが、成長して碑を包むように2本の木が1本になったと伝えられています。
樹齢560年、幹廻り12m、枝張り径40mを越える大木です。(四条畷市ホームページから)
正行の墓所としてはこの他に、往生院墓所(東大阪市六万寺町)、正行寺首塚(宇治市六地蔵附近)、宝匡院首塚(京都府嵯峨野)、額田首塚(東大阪市山手町)、甑島墓所(鹿児島県上甑島)にもある。









四条畷神社
 祭神  楠木正行公(まさつら) <別称> 小楠公さん  (楠木正成を大楠公という)
     楠木正時公
     和田賢秀公等
     四条畷の戦いで討死した二十五柱

明治維新を機に、この地の平田神社神職らが正行をはじめ、正時、和田賢秀ら四条畷の戦いで南朝に殉じた楠一族将兵の霊を祀る神社の創建を願い出、明治22年神社創立と社号宣下が勅許され、翌23年4月5日、正行の墓所の東、飯盛山麓に社地を定めて創建しています。
正行の命日に当たる2月12日には、毎年例祭が行われます。
向って左側には大楠公夫人を祭る御姓神社(みおやじんじゃ)があります。(上の青葉茂れるの歌をクリックすれば写真があります)
墓所から東へ1kmけっこう登り道で疲れました。














               
路傍のタンポポ





和田賢秀の墓

南北朝時代の武将楠木正行の家臣和田賢秀(けんしゅう)は勇将としても知られていました。実は正行の従兄だったのです。
1348年1月5日四條畷の戦いで正行が討ち死にした後も一人で敵将高師直の首を討とうとしましたが果たせず、敵に首をはねられました。
この首が敵の喉に噛みついて離れなかったと言われ、以来賢秀は、「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受けました。特に歯の痛みに悩む人々が遠近を問わず参詣したそうです。
お墓なのに神様です。





忍丘古墳

 忍丘古墳(しのぶかおか)は生駒山地から派生した一支丘陵の先端部に営まれた前方後円墳です。

後円部分には式内社忍陵神社が建てられていますが、昭和9年9月の室戸台風により社殿の一部が倒壊し、翌年の修復工事の際石室の一部が発見されたのが契機となり、その存在が明らかになりました。

調査の結果、神社のある位置を後円部とする全長約87m、高さ約6m、後円部の直径約45mの前方後円墳の一部であることが分かりました。



副葬品は既に盗掘されており、残っていたものには碧玉製石釧、鍬形石、紡錘車などの石製品と剣、斧、鎌、鏃、小札(こざね)等の鉄製品です。

築造時期は副葬品から前期後半古墳と見られています。

この頃に古墳を造れる人はかなり力をもった豪族で、この古墳に立てられた埴輪は、円筒埴輪の小さな破片が発見されています。




     本殿右に石室の被い

石室は調査後、復元され保存されていますので見学することができます。
































石宝殿古墳

            左上は正面    右上は右横    左下は左後方    右下は石室内


 実は忍ヶ丘から石宝殿へ行く途中道に迷いました。大凡の感で方向を決め歩いていったのですが、住宅街の中に入ってしまい右に回ったり、左に回ったりしているうちに北へ行くところいつの間にか南に向っていました。
太陽の陰で方向の誤りに気がついたのですが時すでに遅し、迷子状態でした。
やっとの思いで内神公園にたどり着き後は迷わずに行けました。
石宝殿は打上神社の鳥居を通って、拝殿に行くまでのところに石宝殿古墳の説明板があり、その左側を東(右)へ50mの雑木林の中にありました。

寝屋川市東端の打上にある北河内唯一の古墳時代終末期に属する古墳で、古墳は生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれていて、考古学上、横口式石槨と呼ばれる埋葬主体がが露出しています。

横口式石槨は2石を組み合わせたもので、上面を平坦に加工した底石の上に、直径3m 、高さ1.5mで埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねています。

内部は幅0.9m、高さ0.8m、奥行き2.2m、入口部分は幅0.5mです。


入口部分の左側には上下面に丸ホゾ穴があり、片開きの扉石があったものと推測される。このホゾ穴については奈良県橿原市の植山古墳(こちらはずっと大きくホゾ穴だけでも直径20cm)にもあったことを思い出しました。
植山古墳といえば近くに鬼の爼(まないた) 、鬼の雪隠(せっちん)があるのですが、この石宝殿古墳はまさに同一技法の古墳と気がつきます。
つまり、蓋石を刳抜き横口式石槨持つという点です。そうか、爼・雪隠はこういう感じだったんだ。
それにちゃんと玄室部の前面には板状の2石が平行に建てられていて、羨道部を形成しているではないですか。

     写真は上下のホゾ穴





寝屋古墳

横穴式石室をもつ直径約22m、高さ約5m円墳で、封土(石室を覆う土)はうすくなっている。
築造時期は後期古墳にあたり墳丘上で埴輪(はにわ)・葺石(ふきいし)は確認されていない。
打上川右岸の南東に傾斜する斜面に立地し、南向き(谷側)に開口しており、間口2m、奥行2.5m、玄室(棺を納める部屋)にあたる部が2.5m、羨道の部が2mとなる。








現在、入口の高さはふた石(屋根石)まで1.2m、入口以外の三方は自然石を積んで壁とし、それを2.7mと2.5mの大石2個がふたをしているが、大阪府教育委員会による確認調査でこの石室の前面に羨道または墓道になる落ち込みが見つかっていて、残っているのが玄室部分で、羨道部分の上部が破壊されていることが判明しました。
以上のことから横穴式石室を復元すると、全長10m前後と推定されます。全長10mを超える横穴式石室は府内でも数少なく、北河内では最大規模になります。
人骨・石棺・副葬品の何一つ残していない。



































         桃の花                          畑にあった「みずな」の花 




伝秦河勝の墓
なぜ、秦河勝の墓が寝屋川市にあるのだろう。これが疑問に思った点です。
秦河勝と言えば弥勒菩薩像で有名な広隆寺を建てた人です。

秦氏の出自についてはいろいろ言われています。
私は信じていないのですが、泰氏というのは中近東(シリア地方)の有名なソロモン王の子孫であるという説もあるそうなんです。(まッ事実でもどうでもよいですが)
ソロモンの死後、王国の12部族が2つに分裂して北の「イスラエル王国(10部族)」と南の「ユダ王国(2部族)」とに分割されました。
世界史上での大きな謎の一つに「イスラエル王国」の子孫は「消えたイスラエル十部族」といわれていますが、
仙道は単にアッシリア帝国に滅ぼされただけではないかと思っています。
しかし、秦氏は「消えたイスラエル十部族」の子孫ではないかというのです。
(世界史にまで足を延しませんのでこのくらいにしておきます。あッ!まって「イエス・キリスト」は、この南のユダ王国の子孫とされています。)
仙道の推す話は次の通です。
古代の朝鮮半島には、三韓時代(辰韓・弁韓・馬韓)がありました。この辰韓を倒したのが、新羅なのです。
秦氏はこの新羅の国から日本に渡来してきました。
秦とは新羅語で「海」を意味し、朝鮮半島から海を渡ってきた人というのが本来の意味です。


さて、仙道の「人物研究の聖徳太子」の項に以下の文章があります。
『この時代、渡来文化はどのように受け入れられていたのでしょうか。確かに日本文化より優れたものが沢山あったのですが、これを素直に受け入れるには抵抗があったと思います。仏教のように精神論に基づくものでない場合はもう少し簡単なことだったかも知れないが、やはり従来の伝統技術に対する新技術はなかなか受け入れられるものではなかったと思う。その中にあって聖徳太子は渡来系の文化を進んで受け入れる方針をとった。飛鳥時代には有力な秦(はた)氏と東漢(やまとのあや)氏がいた。秦氏は聖徳太子に近く、東漢氏は蘇我氏に近かった。秦氏は織物に従事していたが、秦大津父は欽明天皇に近持し宮廷の財産を管理する役人になっている。推古朝、聖徳太子摂政の時に秦氏の地位は大幅に向上している。そして秦河勝は603(推古11)年冠位十二階制定では上から3番目の大仁の冠位を与えられ、後、小徳になった。こうして、渡来人は宮廷支配層の3分の1にも達し飛鳥文化の華を咲かしたのである。』

そうです。聖徳太子は進んだ技術をもった渡来人を活用して殖産政策を取っていたのです。
そして冠位十二階を定めたとき秦河勝に仏像を与えています。

諸の大夫に謂りて日く、「我、尊き仏像有てり。誰か是の像を得て恭拝らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝進みて日く、「臣、拝みまつらむ」といふ。便でに仏像を受く。因りて蜂岡寺を造る。」(日本書紀)

この蜂岡寺こそ京都の広隆寺なのです。
だから秦氏の本拠地は京都市の北西(太秦、葛野、嵯峨方面)だったのです。
ところが、大阪府寝屋川市にも秦・太秦といった秦氏に関係する地名があります。これから推測すると秦氏は京都市だけでなく広く北摂(大阪府北東部)、それに山城(京都府と奈良県の間)にも住んでいたことが伺われます。
秦河勝の墓がここの地にあっても何らおかしくありませんね。








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