山城古道U 
                                                      19年3月24日

 山城古道Tは19年1月に城陽市から井手町玉水まで歩いたのですが、このページの作者が欠席したものでページが作られていません。
今回は山城古道Uとして玉水から、木津川市の和泉式部の墓までを歩きました。
歩いた行程は左地図の赤線の道です。

玉水駅前
 JR奈良線(京都〜奈良)玉水駅は「みやこ路快速」の停まる駅であるものの、人口密集地というわけでもなく、乗換駅でもない、ただのローカルな駅です。
この駅から今回は出発することにいたします。

駅前は写真の通り玉川商店街で、玉水の駅の近くには玉川が流れています。

この「玉川」は、歌枕としてよく詠まれ、全国で井手町の玉川の他に高野(紀伊)の玉川・調布(武蔵)の玉川(=現在の「多摩川」)・野路(近江)の玉川・野田(陸奥)の玉川・三島(摂津)の玉川と六つが在り、合わせて「六玉川(むたまがわ)」と呼ばれます。

玉藻刈るゐでのしがらみ薄みかも恋の淀める我が心かも
              (万葉集)

玉もかる井手のしがらみ春かけて咲くや川瀬のやまぶきの花
              (源実朝)

玉川
土手には山吹と桜が植えられている

 奈良時代左大臣の地位にあった橘諸兄(たちばなのもろえ)は聖武天皇を20年にもわたり補佐しました。その橘諸兄の別荘(玉井頓宮)が井手にありました。
井手左大臣とも呼ばれた橘諸兄は、この地に井手寺をつくり、庭ばかりでなく玉川の堤にも山吹を植えました。
そのため「井手の玉川」は山吹の名所となっていました。
平安時代には六玉川のなかでも最も有名であったと想像できます。

 それではその橘諸兄について紹介しましょう。
『源平藤橘』という言葉がありました。この言葉は源氏、平氏、藤原、橘の4家だけが摂政関白を出すことができるということを意味する言葉です。
 敏達天皇と春日薬君娘の間の第一皇子が難波皇子。その孫の美努王(みののおおきみ)と県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)の間に葛城王(後の橘諸兄)が生まれまています。
この県犬養三千代は文武天皇の乳母でもあったのですが、694(持統8)年、夫の美努王が大宰帥に任ぜられ筑紫に行っている間に、県犬養三千代は藤原不比等の後妻となりました。

そして生まれた子供が安宿媛(光明子 聖武天皇の皇后)だったのです。
つまり葛城王光明子は異父兄妹だったのです。
県犬養三千代は708(和銅元)年11月、元明天皇より橘宿禰の姓を賜わり県犬養橘宿禰三千代という長ったらしい名前になりますが、736(天平8)年葛城王は母の橘宿禰姓を継ぐことになり橘宿禰諸兄と改名しましたのです。
翌年、流行病で権勢をほしいままにしていた藤原不比等の子の藤原4兄弟が死ぬと橘諸兄は大納言に昇進、さらに翌年、右大臣に就任し、743(天平15)年、国政の最高位である左大臣に登りつめ政界のトップに立ったのでした。

井手(玉井頓宮)には元正天皇(上皇)も行幸し
      橘の とのの橘 やつ代にも 吾は忘れじ この橘を
と歌を詠んでいます。

その由緒ある『橘』からは曾孫に平安時代の三筆である橘逸勢(はやなり)、また逸勢の従妹の嘉智子(かちこ)は檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)となり、橘氏公は仁明天皇のもとで右大臣を務めましたが、やはり橘諸兄が頂点であり、その後は衰微して行ったのでした。

井堤(いで)寺跡


 井手寺は橘諸兄が橘家の氏寺として建立した古代寺院です。創建当初、「井堤寺(いでじ)」でしたが、それが転化して井手寺となりました。
奈良時代には七堂伽藍の偉容を誇った井手寺ではありますが、明治以降に開墾され、現在では、井手寺の建物跡がどこにあったのかわからなくなっています。
井手寺跡の発掘調査は平成15年度から4ヵ年計画で実施することになっていましたから、今は最終の報告書が出来上がったところでしょうか。
平成15年度の調査では壇上積基壇上で4つの礎石据付穴が検出されています。

たまたま、17年2月6日の説明会の写真がありましたので、下に掲載しておきます。


沢山の丸瓦や平瓦が出土した様子。壊れた建物の瓦がここに捨てられたものと考えられます。



この石敷きは「建物に通じる道」ではないでしょうか。

出土した丸瓦。出土した量からみてその建物の壮大華麗さを示すものでしょう。
小野小町塚




色も香も なつかしきかな 蛙なく
          井手の渡の山吹の花

 小野小町は井提寺別当の妻となり、晩年を井手で過ごしたのでしょうか。
『冷泉家記』には「六十九歳井手寺に於い死す」とあり、また『百人一首抄』には「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」と記されていることから、その信憑性は高い。                  (現地説明板より)

 出羽郡司小野良真(小野篁の息子)の娘といわれており、仁明天皇の更衣だったらしい。
「町」の字は後宮に仕えた女性に用いられる言葉で、彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、出生も死亡地も日本各地に伝わっています。
玉津岡神社
祭神 :下照比賣命 (したてるひめみこと)
配祀 :味耜高彦根命
合祀 :天兒屋根命、少彦名命、素盞嗚男命、菅原道真
由緒 :540(欽明天皇元)年、祭神の下照比売命が玉岡の南峰に降臨し、
     そこに宮社を建ててお祭りしたのが「玉津岡の社」であり、玉津岡神社
     の始まり。731年、橘諸兄が下津磐根に遷座、1260年に現在地
     に移ったとされている。
     1878年に井手村内の他の神社と合祀し1879年より玉津岡神社と
     号し、1890年に天満宮を合祀し、祭神が六柱となった。




 「井手」と「かわづ」は古くから和歌の歌枕として使われてきました。
「古今和歌集」の中で、三十六歌仙全員が井手の蛙を詠んでいることも面白いですが、当社の拝殿の木鼻(左写真)も蛙が彫られていました。
また、蛙股(右写真)も彩色を施された彫刻もあり、これまた珍しいものでしょう。



地蔵院




 地蔵禅院は玉津岡神社参道の横にある曹洞宗の寺で、正式には地蔵禅院という。
明治16年の綴喜郡寺院明細帳によると、創立は不詳としながらも、もと南都東大寺華厳宗の旧跡也とし、1628(寛永5)年に、関東天王院至心孝察和尚が、同じく千葉県東長者外麟応和尚を、開祖として勧請し、曹洞宗に改められたことが記されている。
また、1683(貞享元)年の雍州府志によると、本尊地蔵菩薩は、井手左大臣橘諸兄公の持仏であったと伝えられています。

 地蔵禅院の鐘楼を彩る見事なしだれ桜は、享保12年(1727)に植樹された古木で、京都府の天然記念物に指定されています。
京都市円山公園のしだれ桜は当院桜から株分けをしたものです。

 桜は開花はしていたが、まだ少し早く、しかも雨が降り出す直前で暗く、色鮮やかな姿は撮れませんでした。



井手町まちづくりセンター椿坂








 2002年5月31日の読売新聞に『「南都四大寺」の筆頭寺院で、710年の平城京造営に伴って建立された奈良・大安寺の創建当時(八世紀初頭)の瓦を焼いたとみられる窯跡が、井手町井手の石橋瓦窯(がよう)跡で見つかり、発掘していた町教委が30日、発表した。
747年の財産目録「大安寺資財帳」に記された山背国相楽郡の荘園の「棚倉瓦屋(たなくらのかわらや)」とみられ、記録がある古代寺院の“瓦工房”が確認されたのは、全国で初めて。』

という記事が載っていました。

 大安寺といえば聖徳太子が平群に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)がその草創といわれています。
飛鳥の藤原京で百済大寺、大官大寺となり奈良時代に現在の地に移り大安寺となりました。
現在、寺には大安寺様式といわれる奈良時代の木造十一面観音立像、木造四天王立像、木造不空羂索観音立像、木造楊柳観音立像〔いずれも重文〕など九体の天平仏が安置されています。
本堂は近年再建されたもので、かつての大寺を思わせるのは東西両塔跡のみとなってしまっている。

 2002年8月29日の朝日新聞には『井手町教委は28日、平城京の大安寺の創建期(716年ごろ)の瓦を焼いた「石橋瓦窯跡」(奈良時代前半)で、新たに窯跡1基を確認、加茂町に聖武天皇が営んだ恭仁宮(740〜744年)の瓦も出土した、と発表した。失敗作の瓦などを捨てた灰原は範囲がさらに広がり、当時官営寺院の筆頭だった大安寺の資財帳にある「棚倉瓦屋」にふさわしい準官営の大規模な瓦工房だったとみている。

 春の調査地の西隣で600uを発掘。春に見つかった窯跡(1号窯)の西1・8mでもう1基窯跡(2号窯)を見つけた。2基はU字形の溝に囲まれていた。その西にも周溝があり、ここにも2基セットの窯があったと推定している。灰原は南北10m以上、東西30m以上に広がる。作業場の可能性のある柱穴を持つ遺構なども確認した。
 今回、出土した遺物は整理箱70箱にのぼる。大安寺創建期の軒瓦のほか、新たに恭仁宮の軒平瓦も見つかった。恭仁宮の瓦と同じ枠で作られた瓦は、有力貴族、橘氏の氏寺の井堤(手)寺や平城宮などに使われており、この地に別荘を営み、「井手の左大臣」と呼ばれた橘諸兄との関係が一層強まったという。

 加藤真二・文化庁記念物課文化財調査官の話 大安寺や恭仁宮などの瓦の供給先で、「大安寺資財帳」にある棚倉瓦屋の可能性が高く、注目している。遺構の保存状態もかなりよく、国の史跡指定の価値は十分ある。』



また同日の読売新聞には『「南都七大寺」の一つ、奈良・大安寺の創建当時(八世紀初頭)の瓦を焼いたとみられる窯跡一基が、京都府井手町井手の石橋瓦窯(がよう)跡で出土したと町教委が28日、発表した。5月の調査でも一基確認されており、町教委は「町南部の丘陵は奈良時代の一大瓦生産地だった可能性がある」としている。
窯跡は幅1.4m、奥行き4.5m、高さ0.7m。前回確認された窯跡から西約2mで、平行に並んでいた。窯の両側面には、補強に使ったとみられる山積みにした瓦が残り、周りの土は焼けたような赤茶色になっていた。さらに周辺の灰原(ゴミ捨て場)からは前回の調査に続き、創建時の大安寺のものと同じ様式の瓦片など数千点も確認された。
 また窯跡そばにある周溝(排水路)からは、奈良時代半ばに一時、都が置かれた恭仁宮(加茂町)造営時に用いられたのと同じ様式の軒平瓦の破片三点も見つかった。
 しかし、前回調査分も含め二基の窯跡の灰原からは、恭仁宮様式の軒平瓦の破片は出土しておらず、町教委は「周溝から恭仁宮様式の瓦片が出土したのは、上の斜面から流れてきたもので、近くに恭仁宮様式の瓦を焼いた別の窯があると考えられる」と話している。』
という記事が出ていました。

 この辺りは段々畑のような水田になっており開墾されたときに瓦窯は潰されたものと思われます。
土の一部が焼けて赤く変色し、焚(た)き口と思われる部分は解りました。
瓦窯の側の灰原(かいばら)(焼き物などで失敗したものを捨てた場所)は50uの広さで見つかっており、12000点もの瓦破片が見つかっていました。


 左の上3枚の写真が2002年5月の発掘現場の写真で、この場所が現在道路と下2枚の写真のようになっていました。

僅かに、写真奥の竹薮が同じ位置であることを示しています。






橘諸兄旧趾

 井手町まちづくりセンターを南に歩くこと10分程で橘諸兄公旧趾に着く。
橘諸兄については上述の通りで説明は省略いたします。

分りにくい場所ですが、写真のような道標さえ見逃さなければ迷うことはないでしょう。













高倉神社
 高倉神社の祭神は以仁王(もちひとおう)ですが、社殿右には以仁王の墓と伝えられる陵墓があります。
それでは以仁王とはどういった人なのでしょうか。
 後白河天皇の皇子で、母は加賀大納言季成の娘成子でした。三条高倉宮に住んでいたことから高倉の宮とも呼ばれていました。
1168年、平清盛は当時5歳の六条天皇を太上天皇として退位させ、自ら妻方の甥に当たる高倉天皇を即位させました。
高倉天皇は病弱で3歳の安徳天皇に皇位を譲ってしまいます。
30歳になっても皇位継承権もない以仁王に対し、源頼政が謀反を起こして平家を滅ぼし皇位につくよう勧めるのでした。

 1180(治承4)年、ついに源頼政と共謀して平家追討の「令旨(りょうじ)」を全国の源氏に発し、平家打倒の挙兵、武装蜂起をうながしました。
しかしこの令旨が田辺にいた熊野別当湛増の耳に入り計画が露見します。
平氏は三条高倉宮に兵をさしむけようとしたため、頼政は以仁王とともに園城寺(三井寺)に逃れました。
そして延暦寺と興福寺に援助を求めたのですが、延暦寺には拒否されました。
それで興福寺に助けを求めて奈良に向かうことにしました。
ところが平等院についたところで平知盛(清盛の四男)らに追い付かれ、宇治川を挟んで合戦が始まりました。
この合戦となり敗北を悟った頼政は以仁王を逃がして一族と共に自刀します。
その間に以仁王はなんとか逃げ延びる事が出来たのですが、この光明山鳥居の前で流れ矢に当たり落命したのです。







高倉神社





以仁王陵墓



筒井淨妙陪塚

以仁王墓の陪冢として宮内庁が管理しています。





 祇園祭の山鉾の中に淨妙山という山があります。
宇治川の合戦の様子を表わしています。
平氏は知盛を総大将に28,000の軍勢で宇治橋の東側に押し寄せました。

三井寺の一騎当千の僧兵「筒井淨妙坊明秀」は橋上に進み出て名乗りを上げ、まず弓で12人を射抜き、11人に傷を負わせ、次いで長刀で5人をなぎ伏せて6人目で柄が折れた。
今度は太刀を抜き「蜘蛛手かくなわ十文字、とんぼ返り水ぐるま、八方すかさず切ったりける」と暴れ回って8人を切りすて、9人目で太刀も折れ、遂には脇差を抜き、橋桁の上で大奮闘して必死で戦っています。
同じく阿闍梨慶秀に使える僧兵一来(いちらい)法師は前に出て活躍したい。
しかし浄妙坊が邪魔で前へ出られない。
そこで「悪しう候う淨妙坊」と声をかけ、淨妙坊の頭に手を着いて飛び越えたのでした。
(左の写真)
その飛び越える瞬間の両者をとらえた像を御神体としているのが祇園祭の「淨妙山」なのです。




綺原神社(綺原座健伊那太比売神社)

この神社については詳しくは知りません。
右の説明文をご覧ください。

場所は次に行く「蟹満寺」の東側にありました。

地名の「綺田」は「神織」。神に献ずる衣服を織る技術者集団つまり秦氏と関係があったのですね。





蟹満寺

山号は普門山。由来は蟹満寺縁起の娘が称えた観音経の普門品からとされる。






本堂
真言宗の古刹






 国宝釈迦如来像、白鳳時代の名作で 
 八尺八寸(2m67)。
『螺髪と白毫をつけず人間味を帯びた相好で親しみを
覚える。』とリーフレットにありました。
 この寺の名前は、木津川市山城町綺田浜の地名に由来しているということでした。
先ほどの綺原神社の案内板にもあったことを調べてみますと、この「綺田」は「神織」、「苅羽田」、「苅幡」、「加波多」、「加幡」、「加無波多」、「蟹幡」と古書に登場していました。
確かに関連はありそうです。
また、「織」や「幡」の字は「秦」と同じ発音で「秦氏」との関連が考えられます。
この蟹満寺は、「末寺別院記」によると、太秦広隆寺の末寺で秦河勝の弟である秦和賀の建立としるされていることからも秦氏の氏寺の一つだったのでしょう。

観音堂
今昔物語などに出てくる蟹満寺縁起の
観音様がお祀りされている。

観音堂の横に掲げられている
蟹と大蛇の額。



 本日は小雨がパラつく生憎の天気です。
そのため蟹満寺を出てから昼食の為に屋根のあるところ探さねばなりません。
ちょうど、近くに不動川公園がありそこに行けば屋根ぐらいはあるだろう?

蟹満寺縁起「蟹の恩返し」 (今昔物語集巻16第16話)

 昔々、その昔、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいました。
娘は幼い頃から特に慈しみ深く、常に観音経の普門品を読誦して観世音菩薩を信仰していました。

ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕らえて食べようとしているのを見て、その蟹を買い求め草むらへ逃がしてやりました。
 そしてまたある日のこと、娘の父が田を耕していると、蛇が蛙を呑もうとしています。
何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向かって「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘の婿にしてやろう」と蛇に約束してしまいました。
すると不思議にも蛇は蛙を放し、何処へともなく姿を消したのでした。
突然のこととはいえ大変なことを言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、ことの次第を娘に語り不本意を悔いたのでした。
 案にたがわずその夜、衣冠(五位)をつけた紳士が門前に現れ昼間の田圃での約束を迫ってきました。
困りはてた父は嫁入りの支度を理由に、三日後に来るようにと男を帰したのですが、どうすることもできません。
遂に約束の日になりました。
男は再び門前に現れました。
雨戸を堅く閉して、約束を守ろうとしない父娘に腹を立てた男は、本性を現し蛇の姿となって荒れ狂います。
 娘は一晩中、ひたすら観音経の普門品を誦えました。
娘の父母は恐ろしさのあまり身を縮めているその時、いかにも麗しい温顔に輝く観音さまが現れ
「決して恐れることなかれ、汝らの娘は慈悲の心深く常に善良なおこないをされ、又我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし」
と告げ姿を消しました。
 間もなくどうしたことか雨戸を打つ爆音は消え、夜が明けてみると戸外にはハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていました。
 親子は観音さまの御守護を感謝し、そして娘の身代わりとなった蟹と蛇の霊を弔うため御堂を建て聖観音菩薩を祀りました。
 こうして、たくさんの蟹が満ち満ち、恐ろしい災難が救われた因縁で建てられたので蟹満寺と名づけられ、観音経の普門品を読誦していたので普門山と号せられたのです。


 渡来人の多かったこの地のでは、それぞれの種族を動物に例えて後世に恨を残さないようにしたというような話もありますので、父娘が自種族で大蛇がどの種族なのか。そして援護に来た蟹は誰なのか、観音さま誰を指しているのかなど想像してみるのも面白いのではないでしょうか。




湧出宮(わきでのみや)






神社名   和伎座天乃夫岐売神社(通称涌出宮)
祭神     天乃夫岐売命(あめのふきめのみこと)
        田凝姫命(たごろひめのみこと
        市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
        端津姫命(たぎつひめのみこと)
例祭     いごもり祭 2月15日  門の儀・大松明の儀
                         (午後7:30)
                  16日  歓請縄奉納の儀
                         (午後2:00)
                  17日  饗応の儀・御田の式
                         (午後2:00〜4:00)
(申し訳ないです。平成19年から2月の第3土曜日を含む金土日に変更になったということですが、確認できていません)    
全国神社祭祀祭礼総合調査 (神社本庁 平成7年)によると

 古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる湧出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である。
創建は今より1200年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭人として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。

社蔵の文書(和伎 座天乃夫伎賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げたとある。
後に田凝姫命 、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。
尚、この三女神は 、天照大神とスサノオ命との誓約によってお生まれになった御子である。(涌き出宮大明神社記)

大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし4町8反余りが、神域と化したので、世の人は恐しく、御神徳を称えて、「涌き出森」と呼称したと言い 伝えられている。
山城の国祈雨神11社の1社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。
清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞い祈願をされえたところ、霊験により降雨があったと記されている。本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社・流れ造り」で屋根には「千木・勝男木」置くとある。

 それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺き変わり、現在の形になった。平成3年には氏子、崇敬者の浄財拠出により、神楽殿・社務所が全面改築新装された。
涌出森境内一帯は、弥生期の居住跡として弥生式土器・石器等が出土した。また、社務所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。




参道の赤鳥居



寸胴?の鳥居と拝殿




拝殿の中
恵比須様と大黒様の面が正面に飾られている。







本殿
本殿の前には瓦屋根の幣殿がある。



居籠祭(いごもりまつり)
 居籠祭は南山城地方最古の祭りとして知られ、この祭りを含む宮座行事が国の重要無形民俗文化財に指定されています。「居籠る」とは外出を慎み、心身を清める意味で、かつて、村人たちは居籠り祭神事の間は、家に居籠って一切音を立てなかったといわれています。
この祭りは室町時代中期の農耕儀礼やお田植え行事をよく伝承しているものです。
祭りそのものの発生は農耕がはじまった時代にまでさかのぼると考えられ、起源については諸説ありますが、崇神天皇の御代に、山城地方の豪族、武埴安彦が朝廷に対して反乱を起こした時の戦死者の霊を鎮めるために始まったともいわれています。
 昭和58年に「棚倉の居籠祭」として京都府指定文化財の第1号で指定されました。
更に、後昭和61年には涌出宮(わきでのみや)の他の宮座行事とともに「涌出宮の宮座行事」として国の重要無形文化財に指定されています。

 湧出宮の氏子知己は綺田、平尾地区で、居籠祭は与力座、尾崎座、歩射座(びしゃざ)の4つの宮座によって執り行わる。
神主を補佐して居籠祭をとりしきる役に与力座一老があたる。 その他、饗応を受け持つ「いたもと」と「給仕」、呼び使いの「もりまわし」や「七度半(ひつたはんの使い」の役、「御供(ごく)炊き」の役、「そのいち」と呼ばれるみこ、「ボーヨ」「とも」と呼ぶ幼児の役などに与力座があたる。
 古川座は、古川一族の座で、伊勢から下ってきた神を出迎えた一族だとされる。長老10人が業襟(すおう)姿で式に列席する。
 尾崎座はやはり古川一族の座で、座衆4人が神姿で式に列席する。
 歩射座は、居籠祭にあたって警護を受け持ったとされる座で、年長者10人が式に列席する。


他の神事
女座の祭 
  岡之座・中村座の女衆が大根で作った擬物の前で会食をし、
  後それを神前に供え、神楽を奉納する。 春の彼岸中日 午後三時頃
アーエーの相撲
  大座・殿屋座と岡之座・中村座から夫々男児二名を出し、
  子供相撲を奉納する。  九月三十日 午後二時頃
百味御食(秋祭)
  大座・殿屋座・岡之座・中村座が各戸から、集めた野山の収穫物を
  供物として神に奉納する。  十月十七日 午前九時




椿井大塚山古墳

         後円部の登頂





      後円部から前方部を望む。





       後円部後ろ側の竹薮
 古墳は、前方後円墳で全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、前方部幅約67m、後円部高約20m、前方部墳端高約1Omとなり、後円部4段、前方部2段の段築構造をもちます。

墳丘は、奈良県桜井市箸墓古墳(卑弥呼の墓という説もあり)の構造によく似ており、ほば相似形です。

 築造は4世紀初頭とされていましたが、前方部の祭紀に使われた一括土器資料から、庄内式土器と布留式士器が共存する時期(3世紀後半)と見ることができます。
この時期は、いわゆる邪馬台国の時代に相当します。定型化した前方後円墳の最初期のものとすることができます。
                                                    (平成10年 第7時調査時点)



後円部頂上はこのように高い。


 明治27年に旧国鉄(JR)は京都−奈良間の鉄道敷設工事を行いました。
その工事で古墳は二つに分断され、著しく形状をそこないましたが、明治38年に岩井武俊氏が本墳をはじめて学界に円墳として紹介しています。

そのときに、玉類や刀剣が出土したという話が伝えられていますが、発掘そのもへの取り組みがいい加減なもので出土品のほとんどが現存していません。

 その後、この古墳は1953(昭和28)年に、旧国鉄奈良線の法面拡幅工事により後円部の埋葬施設が発見されました。

竪穴式石室内から「三角縁神獣鏡」等38面を含む大量の副葬品が出土しました。その中の33面が「三角縁神獣鏡」だったのです。


 「三角縁神獣鏡」が魏から卑弥呼がもらった100面の鏡とされ、邪馬台国畿内説を大いに勇気づけたものですが、
実際には400枚以上「三角縁神獣鏡」が出土したり、
中国では一面も出土していない、
四世紀の古墳時代の遣跡からのみ出土し、邪馬台国時代の三世紀の墓からはまったく出土していない、
「景初四年」という既に改元されて実在しない中国の年号の銘が記された鏡があるなど下賜された銅鏡でないとの反論もあります。

ということで、この古墳は邪馬台国畿内説、九州説大きく関わってきた、話題性のある古墳であることには確かなのです。





「東神戸」と呼ばれた茶問屋の街
宇治の南に位置する山城町は茶の流通を担った町として繁栄しました。
現在もお茶の卸を商う店が街道沿いに並んでいます。

明治14年の地誌も「茶は神戸に輸出ス」とあります。
これは木津川を船で下り淀川を経て神戸まで運んだのです。
神戸は1868(慶応3)年12月7日に開港され、1859(安政6)年に開港された横浜の総輸出価格の第1位が生糸であったのに対して、神戸港は茶が第1位でした。
そしてその茶はアメリカやイギリスなどへ輸出されました。

 当時の貿易は居留地貿易といって、居留地に住む外国商人が独占しており、日本人が関係したのは、商品をその外国商館に売り込むまででした。
山城町の茶商は、この外国商館に売り込む中間問屋へ茶を納めていたのです。

 当時はこの地では綿業も盛んでしたが、利益のある貿易茶の加工・販売に専念するようになっていきました。
というのは貿易開始とともに、機会で製造された値段の安い綿製品が多量に輸入されて、日本のこれらに関係する産業に大きな打撃をあたえたからです。
この地方の人々は、いち早く茶業は輸出産業として発展すると察知したからなのでしょう。



泉橋寺

 740(天平12)年、高僧行基が開創しました。三代実録には、行基の五畿内に建立せる四十九院の一院であると出ています。
泉橋院(発菩薩院:ほつぼさついん、隆福尼院:りゅうふくにいん)を前身とする寺院で、境内やその周辺からは奈良時代の古瓦が出土しています。
 創立当時の配置図によれば、金堂、講堂、三重塔など七堂伽藍たち並び、盛隆を極めていたことが窺えます。


  その門前にある地蔵石仏は、1295(永仁3)年に石材が切り始められて、その一三年後の1308(徳地3)年に地蔵堂が上棟・供養されたもので、またその願主は般若寺の真円上人でありました。
その時、地蔵石仏の本体はほぼ完成していたとみられますが、台座と光背、その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立がいかに大がかりなものであったかが偲ばれます。
 1470年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、1471(文明3)年に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それイラ地蔵石仏は露座のままとなっています。
現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、1690(元禄3)年に補われたものです。

                                    (現地説明板より)

地蔵堂の礎石



和泉式部の墓
 木津川は昔「いずみ川」と呼ばれていました。
そのイメージからでしょうか、木津川市に和泉式部の墓と伝えられている墓があります。


あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
        いまひとたびの あふこともがな


 平安時代中期の女流歌人和泉式部の歌であることはよく知られています。

和泉式部とはどんな人物だったのでしょう。
中古三十六歌仙の一人ですが、当時の最高権力者藤原道長によって
「浮かれおんな」と酷評されたほどの恋多き人物でした。
生没年不詳ですが974〜978年頃の生まれとされています。
父は越前守の大江雅致(まさむね)、母は越中守の平保衡(やすひら)の娘で、二十代前半で和泉守橘道貞の妻となりました。和泉式部の名前は夫の任国の「和泉」と父の官名「式部」からこのように呼ばれました。
結婚後、和泉式部は一時は道貞と共に和泉に赴いたのですが、その在任期間の後半は何故か京に戻ってきて別居していました。

 冷泉院の第三皇子で容姿端麗な為尊親王(ためたかしんのう)と出会ったのはその頃でした。それから二人は人目もはばからず激しく燃え上がる恋に陥ったのです。身分違いの恋です。その恋の代償は道貞に離縁され、親からは勘当される形となって現れました。ところが孤独な式部が心の支えとした為尊親王は若くして病死してしまったのです。


 それから一年、「和泉式部日記」は以下の記述から始まります。
夢よりもはかなき世の中を歎きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく・・・
夢よりも儚かった為尊親王との仲を、嘆きわびながら明かし暮らしているうちに初夏の四月十日過ぎにもなったので、葉が茂って木の下がだんだん暗くなっていく。塀になっている築地の上に草が青々としているのも人は特に目もとめない。女はそれをしみじみとした思いに耽りながらぼんやり眺めていると、部屋に間近い透垣のそばに人の気配がするので、「誰だろう」と思ってみれば、為尊親王にお仕えしていた小舎人(ことねり)童だった。

この童、今は為尊親王の弟である敦道親王に仕えています。敦道親王は「兄宮の恋した人はどうしていらっしゃる」と橘の一枝を届けさせたのです。


五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」(古今集)
おもわず口ずさんでしまう和泉式部。返事を言葉だけで伝えては申し訳ない。
弟宮に他愛もない歌を送っても、軽率のそしりも受けないだろうと考え。
薫る香に よそふるよりは ほととぎす 聞かばや同じ 声やしたると
昔の人の香りがするという花橘をいただきました。私も亡き人が偲ばれます。橘の花につきもののほととぎすによそおえて、あなたの声を聞きたいものです。同じ声をしていらっしゃるのかどうか。
使いの童が弟宮の邸に戻って手紙を差し出すと。
おなじ枝に 鳴きつつをりし ほととぎす 声はかはらぬものと 知らずや
同じ枝にとまって鳴いていたほととぎすのように、兄弟ですから声もあなたへの思いも変わらないとお思いになりませんか。
その後、弟宮は度々手紙を書くようになり、和泉式部は時々返事を差し上げていました。
そうしていると、無為の寂しさも少し慰む心地がして日を過ごすことができました。
そしてついにある夜のこと、敦道親王は和泉式部の邸を訪れたのです。兄の思いも忘られぬ中、弟に通じるとは。


 和泉式部日記は、自分がはしたないと戒めながらも弟宮にのめり込んでいく女の性と、弟宮の恋心を百四十首におよぶ和歌を交えて書き綴った日記です。しかしながら「浮かれおんな」と評されて懸命に身の証を立てる女の不幸と、その式部に不信と嫉妬に苦しむ敦道親王の心の機微を見事に描き出した一級の文学作品でもあります。

 和泉式部は出仕した翌年、道長の家司、藤原保昌(やすまさ)と結婚して夫と供に丹後に下っていきます。

橘道貞との子供の小式部内侍の詠んだ
大江山 いく野の道の 遠ければ
      まだふみもみず天の橋立
」(小倉百人一首)
はこの時の歌です。


小式部内侍は25歳たらずで出産の時に亡くなった。
とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ
      子はまさりけり 子はまさるらむ
」(後拾遺和歌集)

和泉式部の晩年はわが娘に先立たれた悲しみのうちに無常をさとり、播州の書写山の上人に「誓願寺へ急ぎ行きて御本尊に帰依すべし」とさとされ、道長によって与えられた誓願寺近くの東北院の小堂に住み、やがてその生涯を終えたとされています。

和泉式部の墓は全国に十数か所ありますが、和泉式部の生まれ故郷との伝承のある京都府木津川市にあるのがこの墓です。
他にも和泉式部に関しては数多くの逸話が残っていますが、このこと自体が自由奔放に生きた彼女の生き様の証であり、彼女の歌が人々の心をひきつけた有名税なのでしょう。






木津駅

新駅
19年3月12日、木津町・加茂町・山城町が合併し「木津川市」が誕生しました。

それに合わせてでしょうか、JR木津駅も改装工事が急ピッチで進められています。
駅前も立ち退きが終わり、広々とした空間に変身中です。

3月末人口   : 66,580人
    世帯数 : 23,059世帯
の都市が誕生したのでした。

旧駅



 第130回愛宕さんへ           第132回中仙道草津宿




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