愛宕さん                                      19年2月24日(土)
 京都市街の北西にそびえる愛宕山は、北東方に立つ比叡山と並び古都の背山として崇められ、また火伏せの神様として山頂の愛宕神社は、「愛宕さん」と呼ばれ、全国に約900社を数える愛宕神社の本社として知られている。

 『愛宕さん』、人は親しみを込めてそう呼ぶのだろうか?京都の人々の生活の中に深く根付いているからなのだろう。
どうも、この「さん付け」は神社仏閣宗教家に付けられていることが多いようだ。
「お稲荷さん」「祇園さん(八坂神社)」「天神さん(北野天満宮または菅原道真)」「弘法さん」「狸谷さん(狸谷不動尊)」
「松尾さん(松尾大社)」「清水さん(清水寺)」「えべっさん(恵美須神社)」「六角さん(頂法寺)」「親鸞さん」「日蓮さん」というように「さん」付けされるところ(人)はかなりあるようだ。

 嵐山から出発して、一路清滝に向う。
現在、天龍寺の向かい側には京福電鉄嵐山駅があるが、1944年までこの駅から清滝まで愛宕山鉄道が走っており、更に清滝からは高低差639mにもおよぶケーブルカーが走っていたそうだ。
嵐山から清滝までの区間は現在、嵐山高架道路となり、北に向う清滝道になっているのです。
全長は3.39kmで、ケーブルカーの方は全長2.13kmで東洋一だったそうである。(尚、日本では現在でもこの長さを凌ぐケーブルカーはない。)

更に驚くことに、清滝には遊園地が設置され、愛宕山にはホテルが建てられ、テニスコートの他にもスキー場があったという。
この鉄道の名残は、下の写真のトンネルが今も自動車用として残っている。

         鳥居本

     元愛宕山鉄道のトンネル

 渡猿橋の橋名は、平安末期文覚上人が修行のため空也滝へ行く途中、この近くで猿が連なって木からぶら下がり、魚を取るのを見たことに由来する。

ここにケーブルカーの清滝川駅があった。



愛宕神社への参拝道から今もケーブルカーの線路跡。
第2に世界大戦のとき、線路も拠出されたと聞いている。


 ケーブルカーの話にそれてしまったが、清滝の話に戻そう。
愛宕山は役行者が開いた修験道の道場として信仰を集めてきた。愛宕さんの参詣道が通る清滝は、参詣の人達が水ごりをとる場所であった。またこの地は渓谷美にすぐれ、古くから歌人達が訪れ、多くの作品を残しているが与謝野晶子もそのうちの一人だ。

 ほととぎす嵯峨へは一里
       京へ三里
        水の清滝 夜の明けやすき


 いよいよ愛宕さんに向けて、登山の開始です。
ここから50丁と書いてあったから、
約4.5Kmの道のりを登ることになる。
現在、標高85m。頂上まで約840mだ。


鳥居の下を通って少し行くと山道らしくなってきた。

道の傍らにはお地蔵様が、登山者の安全を見守っていてくれる。


    あと2.9Km山道はまだまだ続く。



 枯れてしまった杉の巨木。
神が宿っているのか、この杉に神が降臨したのか?




 この辺りから小雪が降りだしてきた。
今年は例年になく暖冬で、東京では1度も雪が降らない状況。しかも昨日までは、14〜18℃とまるで春のような陽気だったので、急な寒さに驚いた。











 雪は激しくなり、京都市内が一望に見渡せると期待していたが、実際にはこの通り。
視界は10Kmぐらいでしょうか。
ところがこの時、京都市では太陽が照っていたそうな。



     七合目休憩所
 七合目の休憩所にあった温度計は既に0℃近くになっていた。
この場所は、愛宕山で「カワラケ投げ」ができた場所で、晴れていれば遠く和歌山や淡路島まで見ることができる。

このカワラケ投げは大念仏狂言「愛宕詣り」にも取り入れられ、落語にもこんな話がある。

『大阪ミナミでしくじった「たいこもち」の一八と繁八は京都の祇園で働くことになった。
室町の旦那と野駆けをしようということになり、愛宕山へを登ることになる。
 えらそうに言ったものの、流石に愛宕山は険しく根をあげそうになりながらも二十五丁まで登ったところで休憩する。
ここで旦那が「カワラケ投げ」をやってみる。
一八は「カワラケ投げ」がうまくいかないため、大阪では「カワラケ投げ」みたいなしみったれたことはしない。金を投げて遊ぶと負け惜しみを言う。
 そこまで言われてムカッときた旦那はカワラケの代わりに20枚の小判をそこから撒いた。
拾た者にやると言われた一八は、傘をさして谷に向かって飛び降り、小判を拾って目的を達っしたかに思われた。
旦那から「どうやって上る?」と聞かれた一八。一世一代の知恵を絞った挙句、竹の反動を利用して谷底から帰還する。「えらいヤツや。上がってきよった。ところで、金は?」
「ああ、忘れてきた!」 チャンチャン』



      表参道総門(黒門)


 総門まで来れば、もうあと僅か(のはずだが?)
実際、愛宕神社までは、まだ急な階段を登らなければならなかった。





 いよいよ、最後の急階段。これを登りきれば本殿がある。  この辺りが標高900mから920mぐらいだろう。

幣殿と拝殿
 愛宕神社の創祀年代不明であるが、「愛宕山神道縁起」によると大宝年間(701〜704)に修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立。
781(天応元)年、慶俊僧都が鷹ヶ峰にあった阿多古社を山上に移して、愛宕権現と称して鎮護国家の道場としたと伝えられている。
古くより火伏・防火に霊験があり、神仏習合の山岳修業霊場としてさかえた。
 神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していた。
明治の神仏分離、廃仏毀釈で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。
修験者の山、お地蔵様の山として一般大衆から親しみを持って「愛宕さん」と呼ばれている。



気温はほぼマイナス2℃
になってました。


手水鉢も氷を割らなければ水を使えない状態です。



食事は境内の中にある休憩所で
いただきました。(寒〜う!)
【千日詣(せんにちまいり)】

 正式には千日通夜祭(せんにちつうやさい)と言う。
7月31日夜から8月1日早朝にかけて参拝すると千日分の火伏・防火の霊験があるとされている。
この日は数万人の参拝者が列を成して山に登り、境内は人で埋め尽くされる。

7月31日午後9時から夕御饌祭(ゆうみけさい 山伏によるゴマ焚き神事)
8月1日午前2時からは朝御饌祭(あさみけさい 人長の舞奉奏、鎮火神事)が執り行われる。
【火迺要慎】

如何に愛宕さんが京都の人に親しまれているかの客観的尺度になるだろう。
このお札は京都の町家の台所には大抵貼ってあり、飲食店の厨房にも見ることができる。
それは京都のみならず全国に愛宕講が組織されていて、このお札を授かる為の代参が行われたりしているためである。


【本能寺の変】

 明智光秀の亀山城(亀岡市)から愛宕山を登る道を「明智越え」という。
光秀は1582年5月27日、この道を登って愛宕山威徳院に向った。
司馬遼太郎氏の小説『国盗り物語』の重要な場面はこうだ。
威徳院で連歌会が催され、この中で光秀は「ときは今 天が下しる 五月哉」
続く行祐は「水上まさる 庭の夏山」
紹巴は「花落つる 池の流れを せきとめて」
これは愛宕百韻の最初の3句だが、「とき」は「土岐」にかけ、土岐氏出身の自分(光秀)を表すという。
「あめがしたしる」は「雨」が「天」にかけ、「天下を取る」の意味に解釈され、通して解釈すると『今まさに、土岐出身である明智光秀が、天下を取る5月であることよ』となるという。
3句目で紹巴が謀反を打ち止めたのだが・・・。

結局、6月2日(5月は29日まで)明智の軍勢は「明智越え」の道と「老の山(坂)」の道を通って本能寺に向かったのだった。


 ちょっと時計を戻してみよう。
5月17日、明智光秀は織田信長に西国出兵を命じられた。それは備中高松を攻めている秀吉の応援のためだった。
光秀は安土から近江坂本の居城に戻り、26日には丹波亀山城に入った。
27日には愛宕山に参詣し籤を引いたと言う。
これは何んのために、何を期待して占ったのか?

当時、光秀は60万石の大領を有する織田信長の有力家臣であったことを忘れてはいけない。つまり越前北の庄75万石の柴田勝家に次ぎ2番目で、羽柴秀吉の播州播磨56万石よりも大きい。
信長第2の家臣がこのとき抱いた心の中は何だったのだろうか。
世の中には各種の説があり、真実を決定付けることはできないがいくつかの説を紹介しておこう。

@光秀の個人的恨み説。
 信長は気性の激しい人物であった。それ故、衆目の前で光秀を叱責したというのである。
 ところがである、叱責されたのは光秀だけではない。
 秀吉も利家も勝家も同じである。
 光秀の性格上、陰に籠もったとでも言うのだろうか。
 しかし前述のように光秀は2番目の大きさの所領を与えられている。信長が光秀に期待をかけているのは明らかだ。
 光秀のような叩き上げの武将が個人的恨みで軽挙妄動に走るとは思えないのである。
 この説は後世の人間が作り上げた俗説というべきだろう。

A朝廷の陰謀という説
 信長は天下統一を目前にしていた。
 しかし、比叡山の焼き討ち等、その所業を見れば朝廷の好みに合うものではなかった。
 信長も官位で右大臣になっていたがその官位も返上するなど朝廷の支配を好んでいなかったのである。
 こうしてみれば朝廷の意のままにならない新世代の支配者の登場ではないか。
 そこに信長の家来で、自分たちに最も近い位置にいる光秀の存在があった。
 朝廷としては光秀を焚き付けて信長を討てば征夷大将軍の地位を与えるなどと近寄ったのではないか。
 これも尤もらしい話であるが何ぶん証拠が無い。しかし否定する証拠も無いのである。

B単純明解説
 光秀が天下を獲りたかったということである。
 武将ならこういうことを考えるのはごく普通であろう。現代社会においてもワンマン社長解任劇というのはあり得る話で、
 重役会での根回しと株主総会を切り抜ければ、それで事は成せるのである。
 光秀はこの根回しができていなかったのだろう。
 光秀が天下を欲しがっていたところで彼は信長の家臣に過ぎない。
 光秀は信長と争い得る兵力はないが機会さえあれば信長を倒し得ないことはない。
 しかも滝川一益も勝家も秀吉もそれぞれ当面の敵と戦っている。今やその機会が与えられたのである。
 それが下に記した「ときは今・・・・」なのであるということなのか。

Cノイローゼ説
 信長の光秀に対する態度が急に冷たくなったことを感じ始めていた。
 ちょうどその頃、頭角を現して信長に気に入られた秀吉がいた。
 光秀は領国である丹波を取りあげられ、代りに毛利領の出雲と石見の二ヶ国を与えるということで西国出陣を命じられた。
 これでは左遷ではないか。
 戦国乱世では、ふりかかる禍を常に武略・計略をもって福に転じなければ生きて行けないのであるが、
 光秀にはそれができなかった。
 光秀はこの乱世を生き抜く自信を失った武将のノイローゼ的反抗で信長を討ったのだ。

なんとも難解な話だ。
今日はそんなことを思い浮かべながら歩いた一日だった。



偶然にも愛宕神社の境内の休憩所で食事をしていたとき、我々と同じ職場にいる仲間と偶然に出会ったので、敬意を表して写真を載せておきます。




 はじめは、ここから光秀が通ったであろう水尾(みずのお)へ下りようと計画していたのだったが、今日のこの雪。
足元が悪い水尾へ下りるよりは、安全な月輪寺(つきのわでら)経由で再び清滝に向うことにした。
ゴミを各自手分けして持ち、こんな感じで下山。


 ところが月輪寺近くまで下りてきた時、林の中で何かが動く気配がした。
よく見ると、それは野性の雄の大きな鹿だった。

奈良公園や動物園では見ることはあっても、このような山の中で実際に見たのははじめてであった。




月輪寺を過ぎて、こんな景色も美しい。



  山道はなおも続く。 林道から車道に出たところに空也滝への分岐がある。
綺麗な沢水が流れおり、これを上流に向う。
空也滝
 空也滝は月輪寺より山道を下りること約2Km、そこから右の山道を登ること400mのとことににある。
滝は高さ12m、幅2mと、京都市内では最大級の大きさを誇る。
嵐山に居住していた空也上人が開いた霊場と伝えられ、滝の前には「空也」と書かれた扁額のある鳥居が建てられている。
垂直に落ちる水の流れは速く、滝前の石造りの鳥居には水しぶきが飛び散っていて、それが幻想的な雰囲気を醸し出していた。


この鳥居を越えると目の前の視界が開けてくる。
この鳥居が「空也」と書かれている扁額がある。



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