草津から野洲へ
 本日は久しぶりの滋賀県探索です。中山道と東海道の分岐点である草津から中山道を歩いて野洲まで行くことにしました。

さて、中山道ですが、「中山道」か「中仙道」どちらが正しいのか?
中山道は江戸を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の一つで、東海道とともに江戸から京都を結ぶ重要な街道です。
この街道は、江戸日本橋から武蔵国、上野国、信濃国、美濃国、近江国を通り、この草津で東海道と合流して京都に至る69次、約132里の道でした。
中山道とも中仙道とも記されていましたが、1716年、徳川幕府は中山道と名称を統一したと記録があり本ページは中山道の字を採用することにいたします。

 その中山道ですが、東海道に対して東山道と呼ばれていた時期があります。
大化の改新以前から存在する重要な道であったのですが、大和朝廷が日本の支配を進めていく上で地方名も指しているのです。
この「道」という文字については、現在の北海道のように、街道を意味するのでなくて、畿内以外の諸国を大別した行政区画を指していたのです。


19年4月21日
草津宿本陣


 東海道五十三次では、江戸から52番目、中山道では68番目の宿場町が草津宿です。
ここは東海道と中山道の合流点・分岐点であり、五街道のなかで最も重要な交通の要衝でした。
天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒を数える宿場町であり、南北800m、東西500mのL字型の形となっていました。
左写真の本陣は、「田中七郎左衛門本陣」と言い、現存する本陣の中で最大級の規模で、4,700uの屋敷地と表門、座敷、住居台所などの当時の建物のほとんどが保存されています。
近世交通史上の記念物として昭和24年に国の史跡に指定され、平成元年に保全整備工事が始まり、平成8年に工事が完了しました。
この本陣は、寛永12年(1635)に設置されており、大名や幕府役人が宿泊をした他、宿帳には吉良上野介や浅野内匠頭(左写真)、幕末動乱期に公武合体の切り札として政略結婚をさせられた皇女和宮、新選組メンバー(右写真)、変わったところでは医者のシーボルト等が宿泊した記録が残っている。

関礼

         上段の間
広さ八畳の部屋である。天井は格天井で漆塗り、腰障子には松村景文による秋海棠が描かれています。

大名専用の上雪隠

湯殿

        向上段の間
上段の間に次いで、格式の高い座敷広間。一間半の大きな床が印象的です。
間仕切りには江戸時代後期の文人である皆川淇園による襖が用いられているほか、鴨居の上には竹節欄間・菱格子欄間を配するなど格調高く仕上げられています。



  上雪隠の前には小用のトイレも。
下世話な写真もあって申し訳ありません。



これらの写真は現在撮影禁止になっており、以前に撮影したものを掲載しました。
追分(分岐点)

『右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ』
説明板によると
ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中山道との分岐点である。トンネルのできるまではこの上の川を越せば中山道へ、右へ曲がれば 東海道伊勢道へ行けた。しかし、この地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は 追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また、旅の安全を祈って文化13年(1816)江戸大 阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは1丈4尺7寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大灯籠であり、火袋以上は 度々の風害によって取り替えられたが、宿場の名残の少ない中にあって、常夜 灯だけは今もかつての草津叔の名残をとどめている。(昭和48年10月15日 草津市教育委員会)

高札場(右写真)は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では、東海道と中山道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていた。寛政9年の「東海道名所図絵」や「伊勢参宮名所図絵」によると屋根付きで柵に囲まれた高札場が描かれている。高さ約3.9m、幅約4.5mで石垣の上に建てられていた。揚げられていた高札は親子・兄弟の和親を説いた「親子兄弟札」をはじめ荷物の賃銭を定めたもの、社会秩序維持を定めたものなど多いときには十枚揚げられていた。この高札の管理は格別に留意することが申し渡されており、強風洪水で草津川の堤防が決壊する恐れのあるときなどは宿場の南に鎮座する立木神社まで運ぶことなども決められていた。( 草津自治連合会)

道標の解説 「美のぢ」の「美」の字が読めなくて考え込んでいました。これは「美濃路」のことだったのですね。

いよいよ野洲市に向って中山道を歩きます。


 中山道と県道141号下笠大路井線との交差点を右折したところに覚善寺という浄土宗のお寺があり、その門前に左のような写真がありました。
いままでの説明とは食い違う話なので調べてみると以下のようでした。

 1886年(明治19)年に草津川トンネルが出来たのを機会に、中山道と東海道の分岐点がこの交差点に移されました。
そのため、この道標が建てられたのですが、明治時代といえどこの道標の意義は少なく、他府県の者が勝手に言っているだけなので聞き流していただいたらいいのですが、返って現在混乱の元になっているのではないでしょうか?

 JR草津駅前の道路を越えて進んでいくと道幅も10mもなく、ゆっくりとしたカーブが現れます。
何故でしょうか?このカーブが昔の街道のイメージなのですね。
暫く歩くと光明寺という寺がありました。
当寺は鎌倉前期1232年に天台宗の道場として創建されました。
1235年親鸞が関東より京都へ向かう途中、当寺で法を説いたのです。
室町時代後期に灰燼に帰しましたが1574年本堂を再建となりました。



伊砂砂神社








 草津市を代表する民俗芸能の一つに滋賀県選択無形民俗文化財「渋川の花踊り」というのがあります。
この祭りは、伊砂砂神社の祭礼で、格子地の柄物の上衣に長めの陣羽織、花笠を被って、軍配を手にしたシンボウチを中心に歌い踊られます。
伊砂砂神社は明治2年からこのように呼ばれるようになったのですが、それまでは天大将軍社と呼ばれていました。
草創は明らかではありませんが、社蔵の棟札によって1468(応仁2)年に建立されたとされ、室町時代後期の本殿建築の特徴をよく残すものとして重要文化財の指定を受けています。
 蟇股には宝相華唐草(ほうそうげからくさ)という文様の、透かし彫りが施されています。
説明では「母屋は内部を内外陣の二室に区画し、正面に向拝をつける。組物は三斗組、妻飾りは豕叉首組で三方に縁と高欄をめぐらせ、脇障子が取りつけられている。軸部には建立当初の部材が残っているが、軒廻りや縁、高欄、脇障子などの部材は大正時代の修理によるものである」となっており、一間社流造、檜皮葺の社が美しいです。



大宝神社






 草津市から栗東市に入ってきました。
大宝神社の社伝によれば大宝元年(701)に現在の栗東市小平井から現在の所へ移ったといわれる古社です。明治時代に入るまでは大宝天王宮・今宮応天大神宮とよばれていました。
社宝とされる2対の木造狛犬があり、1対は藤原期の作で国の重要文化財に指定されています。1体は金色、もう1体は銀色という珍しいものです。現在これは京都国立博物館に寄託されています。
残されたもう1対の狛犬は、栗東歴史民俗博物館に展示されています。

 神社の境内には、栗東町の綣(へそ)にちなんだ芭蕉の句碑が立っています。

へそむらの 麦まだ青し 春の暮れ

ずっとあちこちと旅をして歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。
種まきが遅れたのか、寒かったのだろうか。
もう春も暮れようとしているのに。





左のバスの時刻表を見て驚きました。
今まで、1時間に1本とか、1日に4本という時刻表は見たことがあります。
1日に1本というのは見たことがないですが、この時刻表はさらにスゴイ!
1週間に1本だけ、土曜日の19時27分に通るだけなんです。



焔魔堂(十王寺)








 この焔魔堂の辺りでは弥生時代後期から平安時代にかけての集落遺跡が発見されたことがあります。1993年に第1次調査が行われて以来、前方後方型周溝墓を含む方形周溝墓がまとまって検出されてたことは記憶に新しいです。
焔魔堂前には「焔魔法王小野篁御作」の石碑があって、篁が焔魔法王の木像を作ったということでしょうか。
なんと言っても篁は焔魔法王の秘書官?を務めた人ですから。
今宿一里塚



案内板によると
『今宿一里塚は五街道の一つである中山道の一里塚で、江戸日本橋から本県草津宿までに129ヶ所あった一里塚の128番目にあたります。
 一里塚は江戸幕府により慶長九(1604)年に整備されたもので、一里毎に道の両側に五間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。滋賀県内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。
 今宿一里塚は規模は小さくなっていますが南塚のみ残り、榎が植わっています。先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたっています。
 今宿一里塚は、往事を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、近世交通史を知る上で重要な遺跡といえます。』
 (滋賀県教育委員会)
 周りの景色は街道らしい雰囲気が漂ってます。
右の写真のような虫籠窓の家を見ることができました。
樹下神社




祭神:玉依姫命
比叡山日吉山王社・樹下宮の分霊社であり「十禅師権現社」と説明がありました。
1656(明暦2)年の火災のため古文書などが焼失してしまい、創祀等は不明です。
毎年、旧暦2月24日には、「硫黄夜(いおや)祭」が的張行事・湯立の舞の奉納とともに行われ、「お満さん」の民話として長く伝えられています。

 昔、湖西比良村に容姿・力量共に優れた力士の八紘山がおったとな。
或る日、湖東鏡村で相撲の興行があり、「お満」という娘が八紘山に恋心を燃やし、その切なる想いを打ち明けました。
八紘山は「それ程好きなら百日の願行を成就すれば妻にしてやる」と難題を言うのでした。お満はそんな難題をものともせず、雨の日も風の日も八紘山のもとに通い続けたそうな。
やがて満願成就の百夜目の夜を迎えた時のこと、八紘は娘の一念の恐ろしさのあまり灯明を消してしまったのです。
お満はそれとも知らず、いつもの様に盥(たらい)に乗って暗闇の湖上に想いを馳せて漕ぎ出しました。
いつもの明かりが見えません。いつしか方向を見失い途方に暮れていました。
その時、にわかに突風が吹き荒み、お満は盥諸とも湖中に沈んだのでした。
そしてその暴れ風は止むことがなく続き、今浜のある村人が湖岸に行ってみると、お満が乗った盥が岸に打ち上げられていました。
村人はこれを拾い持ち帰って硫黄夜をつくり、お満の心を哀れんで神社に祀り慰めたところ、やっと大風が静まったという話が残っています。

この話が春を告げる「比良八講荒れじまい」のもとになったとも言われています。

東門院
 「中山道守山宿」と書かれた、将棋の駒の形をした行灯が並ぶ街道を歩いていくと左手に大きな寺が見えてきた。
東門院と言うらしい。

 この寺は正式には、「比叡山東門院守山寺」といいます。
788(延暦7)年に伝教大師最澄が延暦寺を建立した時、四境にそれぞれ門を構えることにしましたが、その一つとして比叡山の東門として設けられたのが始まりです。
 その後794年9月3日に、比叡山の根本中堂開闢供養が行われ、琵琶湖上に舟橋を渡し、この東門まで「善の綱(白布の綱)」を引渡して桓武天皇が湖上を渡って来たと伝えられています。
 このとき、桓武天皇は比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と名付け、ここから地名も守山となったといいます。
本堂には十一面観世音菩薩立像、不動堂には近江で一番大きい不動明坐像(国重文)があります。
 
江戸時代には、この寺が朝鮮通信使特使の宿にもなりました。


東門院のすぐ傍の道標。
説明文も右のように読みやすいです。

道路が折れ曲がっていて見通しも効かず(遠見遮断)、外から攻め込んでくる敵方をここで防ぐ機能を持たせていたと考えられています。



左の説明文のように街道は曲がっています。これを遠見遮断と言うのですね。

野洲川


やっとのことで河川敷に辿りついて昼食タイム(12:30)といたします。

左の写真は近江富士、右の写真は食事の後橋を渡って野洲市へ向かう。



確か、今は地方選挙の期間中だったぞ。

某有名野球選手が出馬か!?

なんてことはないですよね。



         背くらべ地蔵
鎌倉時代のもので、中山道を旅行く人の道中を守っています。
また、子を持つ親たちが「我が子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背比べさせるところから「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになりました。

 江戸時代に朝鮮の外交使節が通った朝鮮人街道と中山道の分岐点です。

この分岐点の東180mのところに右の外和木の標が建てられています。
この外和木とは分岐点の地名です。


(朝鮮人街道は中山道の鳥居本から野洲の行畑までを結ぶ琵琶湖側の約40kmの道をいいます。
徳川家康が関ヶ原の合戦で勝ち、上洛する時に通ったことで吉祥の道といわれ、朝鮮通信使の通行に使われたのでこの名がつきました。)

外和木の標(そとわきのしるべ)



桜生(さくらばさま)

 野洲市街地を越えて、近江富士の三上山も越えて、ほぼ今日の最終地点に近づいてきました。

甲山古墳
 大岩山古墳群は3世紀末から7世紀初めにかけて築造された古墳が点在しています。
これらの古墳はこの地方に大きな勢力を持っていた豪族の安直(やすのあたい)氏の古墳であると言われています。
桜生には甲山古墳、円山古墳、天王山古墳の3基の古墳があります。
甲山古墳は標高110mの丘陵に6世紀前半に造られた直径30m、高さ約10mの円墳です。西側に開口部を持つ横穴式石室があり、羨道は6m、玄室は長さ約6.6m、幅2.9m、高さ3.3mの大きさです。そこには大きな凝灰岩を刳り抜いた長さ2.6mの家型石棺が収められています。
平成7年の発掘当時、傷みも激しく内部には大量の土砂が堆積していました。玄室の床には朱や雲母が散乱しており、副葬品には装身具として冠や装飾太刀に取り付ける飾り金具や金糸、各種の玉類が、また武器・武具としては大刀、小刀、矛、鉄鏃、けい甲などが、さらに馬具として鏡板付きクツワや馬甲などが出土しました。特に金糸は日本最古のものでです。

左は羨道。玄室前にはステンレス製の扉があり中には入れませんでした。

右は扉越しに撮影した石棺。
材質は阿蘇ピンク石と言われる凝灰岩で、熊本県宇土半島産のものです。
阿蘇ピンク石についての考察

 阿蘇ピンク石の石棺は、5世紀末に畿内に出現します。つまり、大阪の河内王朝の衰退期の古市古墳群がそれです。
河内王朝全盛期の石棺は兵庫県産の灰色の竜山石ですから、阿蘇ピンク石の石棺の登場は王権の交代を意味しているという考古学者もいます。

しかし、河内王朝の允恭天皇の近臣の古墳に追葬された石棺が阿蘇ピンク石であったり、左の写真のように次期新王朝の継体天皇陵(今城塚古墳、大田茶臼山古墳でない)で阿蘇ピンク石に混じって竜山石が発見されていることから石棺の材質の変化と政権交代の関連はあまりないように思えるのですが。

いずれにせよ新興の近江、越前、尾張の有力豪族を支持基盤とする継体天皇の出現とこの阿蘇ピンク石の石棺の甲山古墳は関連があると思われます。
天王山古墳

銅鐸博物館



 銅鐸をシンボルとする野洲市では、野洲市歴史民俗博物館を、通称「銅鐸博物館」と呼び、館内には銅鐸の形や文様・製作年代ごとの特色を詳しく解説した展示が常設されています。

レプリカとはいえ、実際に叩いて、銅鐸の音を聞くこともでき、製造方法も学ぶことができます。
 明治14年8月20日、地元辻町村に住む2人の少年、小野田金太郎さん(当時14歳)と森岩松さん(当時16歳)が大岩山へ遊びに行って3個の銅鐸を発見した。
翌日この話を聞いた小篠原村(桜生)の井狩米吉さん、冨田仙吉さん、櫻田八治郎さん、高橋半治郎さんの4人が、更に11個の銅鐸を発見しました。この銅鐸は、入れ子細工のように大型のものから順に小型のものが仕舞い込まれているような状態でした。
これらの銅鐸は唐金古器物(からがねこきぶつ)として草津警察署に運ばれ、戸長と地主と発見者が詳しく発見した状況を書き残しています。
しかし、これらの銅鐸は、東京帝国博物館が購入した2個と知恩院ヘ奉納された1個を除き、一時行方不明となり、後に再び発見されるという結果になりました。
昭和37年、新幹線建設の土砂採掘工事現場となった大岩山から、再び10個の銅鐸を発見されています。
これらの銅鐸には高さ134.7cm、重さ45.47kgという日本一の大きさを誇る巨大な銅鐸もありました。
 この博物館には研究者の方がおられて説明もしていただけます。

また右の写真のように弥生人の格好をして記念撮影もできますが、実際の弥生人はどのような服を着て、どのような生活をしていたのでしょう。






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