嵯峨・清滝                               第116回       17年10月30日

JR嵯峨嵐山駅
10時にこの駅に集合。
昔は確か「嵯峨」駅と言っていたはずだったけど、94年9月4日から「嵐山」が追加された。
その名の通り嵯峨野、嵐山方面観光の表玄関だ。
 国鉄時代の山陰本線を利用して走る「トロッコ列車」はここから亀岡まで走っている。

昔は左のような「D51(デゴイチ)」が走っていた。
 駅から北に歩いて丸太町通りに出て一路嵯峨野に向う。
食料品の仕入れはこの辺りでしておかないと、嵯峨野の中のレストランで食べれば、それなりの出費を覚悟しなければならないだろう。

上品な京料理を頂きたい方は食料の仕入れの必要ありませんが。
落柿舎 向井去来
貞享3(1686)年に、松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人、向井去来の草庵で、元禄4年(1691年)4月18日から5月4日まで芭蕉がこの草庵に滞在し、『嵯峨日記』を記したといわれている。
「落柿舎」と名付けられたのは庭に柿の木があり、商人が立木ごと柿を買い取ったが、夜中に風が吹いて多くの実が落ち、駆けつけた商人に去来は代金を返したという話がヒントだろう。
去来の没後は荒廃し、場所もわからなくなっていたが、写真の庵は俳人、井上重厚が1770年に再建したもの。

        柿主や こずえはちかき あらし山

落柿舎の裏に墓がある。ここには遺髪が埋葬されているが、実際の墓は鈴声山(れいしょうざん)真正極楽寺、つまり、左京区吉田山の真如堂にある。
10月では嵯峨野といえど紅葉にはまだまだ早い。
左の写真は二尊院であるが、うっすらとモミジの色付きが始まったところで、まだ拝観料を払ってまで入ることはしなかった。

後亀山天皇陵に向かう途中に綺麗に整備された竹薮があった。











後亀山天皇陵
後亀山天皇とは第99代の天皇手あるが、南朝最後の第4代天皇である。
幕府に対する強硬派の長慶天皇から譲位される。
天皇即位後に幕府との和平交渉が再開され、室町幕府3代将軍足利義満との和平に応じ、1392年10月5日には帰京して北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り退位して上皇となる。

愛宕街道

化野の辺りではモミジも結構色付いてました。
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)


 化野とは平安時代から、鳥辺野、蓮台野とともに京都の葬送の地の一つであった。
多くは風葬で全てが土に帰っていってしまう。
やがて土葬の習慣が根付いてきたが、中には愛しい人のために石仏を作って死者への思いを募らせた人もいただろう。
そんな石仏が化野一帯に数知れず無縁仏として残っていた。
明治中期に化野一帯に埋もれてた無縁仏を集めて作られたのが右上の写真。
宝塔を中心にした配置したのは説法を聴く人々姿を表わしているという。
8月23・24日の地蔵盆の夕刻には石仏・石塔にロウソクを灯す千灯供養が行われる。

古風な町並みの愛宕街道を歩きました。

京都○○殺人事件でお馴染みの鳥居本まであと僅か。

鳥居本 愛宕神社一の鳥居





 一の鳥居の分かれ道を左に進路を取って、今日のメイン?の目的地に向います。
平安京遷都を行ったのは桓武天皇。
その子に平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇がいた。
鳴くよ鶯、平安京とはいうものの、実際、平安遷都後大変だったみたいですね。
弟の早良親王(さわらしんのう)の祟り事件(藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国に配流の途中、抗議のため絶食して河内国高瀬橋付近で死んだ恨みを持って祟った)で平城天皇の病気、桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死、凶作、流行り病に悩ませていた。
嵯峨天皇の時には、平城上皇による薬子の乱など兄弟喧嘩?みたいなものもあった。
その嵯峨天皇の皇后の陵墓が今日の目的地だったのです。

 その名を檀林皇后(橘嘉智子(かちこ))という。
比類なき麗人であり、仏教への信仰が篤く、慈悲深い心の持ち主である。そのため自分の死後、死体を埋葬することを禁じ風葬とするように命じていた。
鳥や獣の飢を救うためという。さらに、自分の体が朽ちて白骨化していく過程を絵師に描かせた。
その絵かどうか定かではないが、六波羅蜜寺の北隣にある西福寺に檀林皇后九想図というのがある。
あまりにも凄惨で悲愴な絵なので写真は掲載しないが、「死、膨張、腐敗、血塗、膿爛、獣の餌食、青?、白骨、土」と変化していく様を描いているのである。


 檀林皇后陵まで行ったら、鳥居本までまた元の道を引き返してきて清滝方面に向う。
鳥居本から数分のところに今日の最後の見学場所である愛宕(おたぎ)念仏寺に到着だ。
初め、愛宕念仏寺は8世紀中頃、称徳天皇により山城国愛宕郡(やましろのくにおたぎごうり)に建立された。
平安時代初期は、真言宗教王護国寺(東寺)に属していたが、鴨川の氾濫のため堂宇が流失した。
醍醐天皇の勅願により、比叡山の僧である千観内供によって再興され、天台宗延暦寺の末寺となる。
 本堂は、平安時代に創建されたが、兵火により焼失した。その後、鎌倉時代中期に再建された。
本尊は「厄除千手観音」で平安時代より厄除けの寺として知られている。
現在でも京都の町家の台所には必ずといっていいほど「火之要慎」のお札が貼られているが、これは、愛宕(あたご)神社のお札で、その愛宕神社の本地仏である「火除地蔵菩薩」がこの寺には祀られている。
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)


このページのトップも愛宕念仏寺の石像とした。
何と強烈なインパクトを与えてくれたことだろう。
この寺の石像は1200体を越える羅漢で、西村公朝住職が昭和の修復費用捻出のために500体の羅漢を募集したところ、応募が殺到して1200体となった。

この羅漢、石工や仏師の彫ったものではない。一般の人がそれぞれ思いを込めて彫ったということが胸を打つのだろう。


 愛宕念仏寺を出て左に向うとトンネルが見えている。
このトンネルを抜けると最終目的地の清滝である。このトンネルは写真のように一車線の狭いトンネルなのである。
歩いて通る訳であるが、車が来ると轟音と共に恐怖感が襲ってくる。

トンネルを抜けると清滝である。
   ほととぎす
       嵯峨へは一里 
           京へ三里
   水の清滝  夜の明けやすき   与謝野 晶子

清滝橋

橋の下では釣り人が

清滝橋から河原へ降りてみる

河原から見た清滝橋



秋ですね。綺麗に色付いてます。

最後はこのバスで帰りました。




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