恭仁京 海住山寺                               17年11月23日


みかの原 わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ
 新古今集から中納言兼輔の有名な歌ですね。
「みかの原(瓶原)」とは京都府南部の加茂町、木津川沿いの開けた平地(上写真)です。
泉川とは現在の木津川、古くは輪韓川(わがらかわ)、挑川(いどみがわ)といっていたそうですが、飛鳥時代や奈良時代には「泉川(いずみがわ)」、「泉の河(いずみのかわ)」と呼ばれていました。

万葉集 巻1−50  藤原宮の役民の作る歌
『やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤原が上に 食国を 見し給はむと 
 都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてありこそ 磐走り 
 淡路の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを もののふの 八十氏川に 玉藻なす 浮べ流せれ 
 そを取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて 
 わが作る 日の御門に 知らぬ国 寄り巨勢道より わが国は 常世にならむ 図負へる 
 神しき亀も 新代と いづみの河に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず いかだに作り 
 のぼすらむ 勤はく見れば 神ながらならし』

わが皇子日の御子が、荒れ地の藤原の地に、国を治めようと
御殿は荘厳なものを作ろうと、 皇子が神意として思われるに天地も相寄って力を貸しているからこそ、
近江の国の衣手の田上山(たなかみやま)の檜の材を八十宇治川に浮かべて流す。
それを引き上げようと合図しあう役民は家のことも忘れ、自分のことも考えず、鴨のように水に浮かび働く
わが作る都の宮殿に、外国から慶賀の使節が来るという巨勢路より、「御国は常世ならむ」という図を背に負う
神亀が新しい世の到来を告げるように現れる。 泉の川を、運んできた檜の材を百足らず集めて筏に作り、
川をさかのぼらせているのだろう。勤め励んでいるさまを見ると、神の御業そのものだ。

滋賀県田上山から材木を切り出して琵琶湖、瀬田川、宇治川、小椋池、木津川と水路を使い、木津町で陸挙げしたのち、陸路で奈良山を越え、奈良盆地に入ってからは、佐保川、寺川など再び水路を使ったことが窺える。
奈良時代、平城京の造営の際には材木の陸上げ地の中心地となり、木津の地名・川名は木の港=「木津」となり、この名前が生まれたのだろう。

「みかの原」は木津町からは上流にあるためこの檜材は運ばれなかった。しかし、奈良時代聖武天皇の時代にこの地は一大変革を遂げるのである。(後述)





 本日の集合はJR加茂駅だった。JR奈良線木津で乗り換え関西本線で名古屋方面に1駅行ったところだ。

加茂駅

この辺りは駅前に数十戸の民家が建っているだけのところと思っていたが、何と20階建てぐらいのマンションが建っていて駅前(裏?)も整備されていた。






ここでハプニング。
何とこの駅舎の中に下の写真のようにセキレイが飛び込んできた。
野鳥が1階の入口から入ってきて、2階の改札付近で餌を求めていた。
人慣れしているのには驚かされてしまったのである。
 駅前の道を北東方面に歩き出すと、やがて道は北に曲がり、木津川を渡ることになる。
橋を渡りきったところにバス停があったが、1時間に1本もないバスなので利用することは初めから考えていない。
木津川は、三重県の青山高原を源流として伊賀、笠置、木津を通って、淀川に流れ込んでいる。

上の写真は恭仁大橋から上流を撮ったもので、この日は清らかな水がゆったりと流れていた。


山高く 川の瀬清し 百代まで
  神しみ行かむ 大宮處
   (詠み人知らず)


恭仁京
 以下写真を撮ったところは正確に言えば恭仁宮ということになる。恭仁京と恭仁宮の違いは「京」は町全体を指し、「宮」は天皇の住まいや官庁街のようなところで行政立法が行われたところ。


 奈良時代は710(和銅3)年元明天皇によって平城京に都が移ったことに始まりましたが、794年平安遷都まで平城京が都であったわけではない。
 734(天平6)年1月17日、藤原武智麻呂が右大臣に任命され、737(天平9)年には飢饉と疫病の大流行、さらに武智麻呂以下藤原四子が相次いで没するという異常事態に陥った。
740(天平12)年9月3日、橘諸兄政権のとき藤原広嗣の乱が起こり、時の天皇、聖武天皇は大野東人を大将軍に任じこれに当たらせた。
この戦いのさなかというのに10月29日、急遽伊勢、関東(鈴鹿関・不破関以東)に行幸、これは都への内乱波及を恐逃げ出したという話もある。
12月15日、聖武天皇は山背国相楽郡の木津川の河畔の恭仁に新都建設を始めた。翌741(天平13)年正月には恭仁で朝賀の式が行われたというから、既に何らかの建物ができあがっていたのでしょう。
この地に何故、都が造られたかは不明ですが、主に以下の理由ではないかと云われています。
  1.たびたびの疫病の流行(藤原4兄弟の死亡等)から平城宮を離れる必要があった。
  2.740年9月3日光明皇后の甥である藤原広嗣が九州で挙兵した。
    これは聖武天皇のワンマンさで玄ムや吉備真備ら本来貴族でない人物を中央政界で重用し、
    貴族の間に不満が広がった。
  3.橘諸兄は京都府南部の井手に勢力を持っており、藤原4兄弟の死後、不比等の政策を覆し、
    不比等が造った平城京を捨て井手の隣に都を移そうとした。
恭仁京が都であったのは744(天平16)年1月までの3年間だけだった。
聖武天皇はこの間に紫香楽宮を造ったり、難波宮に遷都したり、最後は平城京に戻ったのである。
恭仁宮


恭仁宮は平城宮や難波宮や長岡宮、平安宮とは違った特色を持っている。
それは左の写真のように天皇が住んでいた内裏が、東西2カ所に分かれていることである。
これは記録に残されていないため確かなことは分からないが、東地区には聖武天皇が、西地区には先代の元正天皇(聖武天皇の叔母)が住んでいたのではないか。

聖武天皇は先々代の元明天皇(聖武天皇の祖母)の皇太子であったが、元明天皇の次は元正天皇となった。
元明天皇は715年9月2日、54歳のとき老いを理由に譲位したのであるが、皇太子がまだ14歳の子供のため娘の氷高(ひたか)皇女が元正天皇として即位した。

元正天皇は44歳(724年)の時聖武天皇に譲位したが、この時聖武天皇は23歳で、その後も聖武天皇の後見役となって朝廷内にとどまっていた。

だから、内裏西地区は元正天皇が住んでいたのだろうと思われる。
恭仁宮は僅か3年余りで役割を終えた。
しかし大極殿は山城国分寺として姿を変えて残ったのである。

1950年代からの平城宮の発掘調査の結果、平城宮には2つの大極殿、朝堂院等が存在したことが分っている。
現在、平城宮跡で復原工事中の第1次大極殿というのは、実はこの恭仁宮の大極殿に移築のため解体されたのだった。


山城国分寺
 山城国分寺というのは恭仁宮から引き継いだものであることは前述の通り。
大極殿が国分寺の金堂になったことは容易に想像できる。朝堂院などは何になったのだろう。
寺観を整えるためにさらに七重塔なども建設された。今は礎石だけをとどめるのみであるが、その大きさから見てかなり立派なものであったことが窺える。
塔跡の礎石群は17個ある塔礎石のうち、南東の2個が見当たらないが、1250年もの間にいつの間にか人為的に移動させられたのであろう。
右の写真のように礎石に施された柱との接合部分のほか壁部分も盛り上がっているのは立派な建造物であった証でしょう。

大極殿跡の南側に今では珍しい木造校舎の小学校があった。なんでも建て替えの話があるそうだが、別の場所に新築してこの校舎は資料館として保存されるらしい。
是非ともそうなることを期待いたします。


 恭仁宮を後にして北へ道をとる。のどかな田園風景が目を楽しませてくれる。
ゆるやかな登りの細い道を歩いていくと、やがて山懐の村にさしかかる。ここからは急に道が険しくなり、息が乱れてくるのが分る。
村を抜けた辺りでオバサンが渋柿を獲っていた。
聞くと吊し柿にするそうです。
自転車も写っていますが、これは柿を運ぶためのもので、この坂道ではとても乗れない場所なのです。



海住山寺(かいじゅうせんじ)
 735(天平7)年、聖武天皇の発願により良弁が開祖したと伝えられている。ということは恭仁宮遷都より5年前に建てられたことになる。
良弁は東大寺の初代別当でもある。
当初、藤尾山観音寺と名づけられ、その後、東大寺の末寺になったが、1137年消失してしまった。
1208年、笠置寺の貞慶上人がここに草庵を作り補陀洛山海住山寺と名づけて復興を果たした。
寺門は大いに栄え、国宝の五重塔をはじめ重要文化財の文殊堂、本坊、鐘楼、奥の院、薬師堂などを現在に伝えている。
宗派は復興後、興福寺末寺となったって明治まで続いたが、真言宗小野随心院に属し、その後、真言宗智山派に転じ今日に至っている。
急な坂を上っていくと、以外と幅の広い自動車道にでる。
これがまた急な坂道である。

しかし、11月23日ともなれば紅葉が鮮やかに色を放ち、都会の喧騒にまみれて生活している我々にとっては脚の疲れも忘れて心休まるひとときである。


左の写真は本坊。
門を入ると左手に国宝の五重塔が見える。
高さは18mというから、かなり小さいと感じた。東寺の五重塔の高さが55mである。
それ故、端正で精巧な木組みが実に美しい。

この季節モミジの鮮やかさは写真の通り素晴らしい。
休日というのに参拝客、観光客もまばらで意外な感じだった。  右下の写真は重要文化財に指定されている文殊堂。
この狛犬君、ユニークでユーモラスだった。
吽さんも口を開けているのかな。


本坊の前には何故か岩風呂が?何処から持ってきたのだろう?
私には石棺のようにも見えたのだったが。
帰りも道も同じ道を歩いた。
登る時は景色は見たものの、写真を撮る余裕もなく、ただひたすら歩いたものだった。 こうしてみてもやはり急な坂道である。



朱雀の井戸(すじゃかのいど)
山から降りてきて木津川に向かう途中で発見しました。
珍しい六角形の井戸。
この辺たりは恭仁京の朱雀(南)にあたり、ここから北に伸びる道がかつての朱雀大路だった。
その傍らにあるため、この名がついたのでは?
また、中世、織田信長の時代、この地の土豪集団の一つである朱雀氏の屋敷跡ともいわれている。
(蓋も六角形だけど、井戸本体が六角形ですよ)

 読み方は「すざく」でなくて
 「すじゃか」だそうです。



 歴史探検のあと、木津川の河川敷でバーベキュー!
ゆったりと流れる川の水を楽しんだだけじゃないです。

ゆったりと流れる時間を、悠久の世界に思いを馳せ、酒を酌み交わす男のロマンを楽しんだ一日でした。
最後に国分寺跡で写した記念撮影を載せてお開きといたします。






               第116回嵯峨野、清滝へ       第118回東寺へ 



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