明日香村(キトラ、高松塚古墳)              17年9月11日
 今回は、近鉄橿原神宮駅に集合して飛鳥駅で電車を降りることだけが決っていて、そのあとは明日香村を歩くことにしていた。
明日香はこれまで歴遊会の他にも何度も来て、ほとんどの場所は行ったことがあるのに、キトラ古墳はまだ行ったことがない。
それで、我が侭を言ってもう1駅先の壺阪山駅まで行くことにしてた。
勿論、目的はキトラ古墳を見ることだ。

 今日は衆議院選挙の日だから集合時間を遅くして棄権をしないようにした。
そのため、壷坂山駅に着いたのは11時を過ぎていた。これでは今日は多くは回れないと覚悟を決め歩き出しました。
壷坂がくすりの町というのはやはり『壺坂霊験記』のお里・沢市の話があるからなのだろう。

 壷坂に住む座頭、沢市には三才年下の従兄妹でお里という美しい女房がおったそうな。
 盲目の沢市が箏三味線をの稽古をして細々と暮らしているのをお里が賃仕事をして助けておった。
 しかし、沢市は最近お里が毎夜ひそかに床を抜け出し何処かへ行くのを知ったのだった。
 浮気をしているのではないか?(悶々)
 そして、ついにお里に聞いてみた。
 あらぬ疑いを悲しんで泣いて打ち明けた。 (ベンベン!)
 『いかに賎しい私じゃとて、現在お前を振り捨てて、他に男を持つような、そんな女子と思うてか。
  父(トト)さんや母(カカ)さんに別れてから伯父様のお世話になり、お前と一緒に育てられ、
  三つ違いの兄さんと・・・。いうて暮らしているうちに、情けなやこなさんは、生まれもつかぬ疱瘡(ホウソウ)で、
  眼界(メカイ)の見えぬそのうえに、貧苦に迫れどなんのその、たとえ火の中水の底、
  未来までも夫婦(メオト)じゃと、思うばかりかこれ申し、お前のお目を治さんと・・・・・・。』

 実は、お里は夫の目を治さんと、3年もの間、毎夜壷坂の観音様に夜参りをしていたのだった。
 沢市はお里の貞節に心を打たれ、自分の僻みがつくづく情けなく思ったのだった。(死ぬ気になっている)
 そして二人でお参りに行くのである。
 沢市はお堂に籠もると言い出して、お里へ家の片づけをしてくるように言いつけた。
 お里が山を降りると、沢市はお里にしみじみと感謝して谷底に身を投げる。
 お里は山を降りる途中に、不吉な予感を感じ引き返してきたが、沢市の姿はそこにはない。
 悲歎に暮れたお里は、生きる望みを失って同じく谷に身を投げる。
 翌朝、観音様が現れ、二人を生き返らせるとともに、沢市の目も見えるようになったとさ。

ということで目薬がよく売られているし、壷坂寺でも目薬が売られている。





本題に戻ろう。
駅から東に歩いて10分ぐらいでキトラ古墳に着いた。
キトラ古墳のイメージは下の写真のようだと思っていたのだけど、着いてみると何と右の写真のように覆屋が出来上がっていて正面からでは古墳の姿すら見ることができない。
発見されたときからかなり損傷が進んでいると聞いていたのでこれもしかたあるまい。と少なくともこの時は思っていた。
この建屋の左側から微かに土嚢に包まれた古墳を見ることができた。
右側からは左下の写真のように全く古墳を見ることができなかった。
だがしかし本当にこれで壁画が守れるのだろうか。
この建屋については以下のような説明があった。
『1979年に古墳の存在が確認されて以来、石室内部などの調査が慎重に続けられてきました。その結果、壁画の損傷が著しく、剥落の危険性が高いことが懸念されたことから、文化庁は空調設備や防菌設備等を完備した覆屋を設置し、緊急に内部保存処理を行うこととしました。
この覆屋は、本年7月末をもって竣工し、現在、覆屋内の温湿度や空気質データーの精密測定や地中温度設定の調整が行われています。また、石室とつながる小前室及び前室に入った作業員からの発熱の影響を調べるための空調設備の調整運転が行われています。
皆様のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
     文化庁   独立行政法人文化財研究所
     (株)空間文化開発機構  (株)鹿島建設』

公開された当時の石室内部の様子。

石室東壁の白虎
高松塚古墳とは左右方向が逆なのに興味を持った。
このように鮮明に確認できるとは驚きである。

発掘当初の前室手前の発掘状況。
 私が来たことがないというのが今回訪問した最大の理由であったがそれだけではない。キトラ・高松が気になっていたからだ。
最近の新聞記事からその辺のことを拾ってみると。(以下の日付は全て平成17年)

●7月3日 壁画の劣化問題で揺れる明日香村の高松塚、キトラ両古墳を巡り、同村議会が2日に開いた臨時議会で高松塚・キトラ古墳現地保存対策特別委員会を設置した。(朝日)

●7月15日 壁画の修復保存が進められている明日香村のキトラ古墳で、石室南壁の漆喰片から一部だけ見つかっていた獣頭人身十二支像の「午」の絵について。絵は漆喰表側を覆った泥に転写され、左右が反転した状態で、足元を除くほぼ全体像が残っていた。馬の頭は写実的に描かれ、赤い衣装、矛らしきものが見える。国内でこれまで、泥に顔料が付着した状態で古代の壁画が見つかった例はないという。(朝日)

●8月12日 明日香村議会特別委員会の決議は「高松塚古墳壁画は、いまだ劣化の原因が特定できず、有効な手だてを講じるには至っていない」としたうえで、「壁画修復施設を同古墳近くに設けること、壁画修理後に現地に戻して公開すること、壁画の劣化を防げなかった国の責任を明確にすること」などを求めてた。これに対して文化庁次長は「壁画を元に戻すことを大前提に進める」としたものの、議会での説明については「文化庁が謝罪するだけの明らかな落ち度はない。村で説明する法的根拠も明確でない」などとして、謝罪と説明は拒否した。(朝日)

●9月9日 明日香村の高松塚古墳の国宝壁画のうち、石室西壁の白虎の前脚付近と後ろ脚付近で黒いカビが繁殖していることがわかった。01年秋に石室内で新たなカビの発生が確認されて以降、除去しにくい黒いカビが絵の描かれた部分で見つかったのは初めて。同庁はアルコールなどで殺菌する応急処置を施したが、カビを取り除くのは困難といい、壁画の劣化がまた進んだ。
カビなどによる壁画の劣化が抑えられないため、同庁は07年1月にも石室を解体して古墳の外へ運び出し、壁画を修復することを決めている。それまでの緊急措置として今月2日から、墳丘の表面や地中に張り巡らせたパイプに冷却水を通している。来年3月までかけて石室内の温度を10度まで下げる。 (朝日)



ということで状況は薄々知っていた。
しかし、キトラ古墳の覆屋を見て、キトラは大丈夫だと確信して帰って来た。
ところがである。ところがなのである。我々が行った同じ週の木曜日に驚くべき発表があって翌日の新聞には大きな見出しと共にキトラ古墳が記事になっていた。



●9月16日  極彩色壁画の全面はぎ取りが進められている奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室内にバクテリアが大量に繁殖し、南壁の「朱雀」に透明なゼリー状の斑点が大量に発生したほか、東壁の獣頭人身十二支像「寅」の一部もゼリー状の膜に覆われたと、文化庁が15日、発表した。
バクテリアの大量発生は初めて。また、天井の天文図や北壁には、高松塚古墳と同様の除去しにくい濃い緑色のカビが生えていることが新たに判明した。
朱雀の羽や尾の表面に繁殖したバクテリアは縦約20cm、横約40cmの範囲に広がり、半球状に盛り上がった最大径約2mmの粒が点在。寅像では顔や上半身の服を膜が覆っていた。すぐに除去すると壁画に損傷を与える恐れがあることから、サンプルを採取後、対応策を検討する。
バクテリアは石室を開口した昨年2月以降、石室内に菌が流入して活動し始めたとみられる。同庁は、バクテリアが壁面に発生するたび、消毒薬のエタノールでふき取り、除去していたが、今年7月ごろから目立ち始め、石室内が17度以上になった8〜9月に入って急増したという。人の出入りと温度上昇が繁殖の原因となったとみられ、エタノールがバクテリアの栄養源になったとの見方もある。
文化庁記念物課は「バクテリアを死滅させても、死骸をえさとするカビの大発生を招く恐れがあり、根本的な手だてを考えなければ」としている。 (読売)


  極彩色壁画のはぎ取り作業が昨年夏から行われている奈良県明日香村の国特別史跡キトラ古墳で、南壁に描かれた「朱雀」の表面に、バクテリアによるとみられる膜や無数の白っぽいゲル状の塊が見つかり、文化庁が十五日、発表した。
十二支像「丑」の顔は浮き上がって剥落の危険性が高まり、天井の天文図も緑色のカビが生えるなど、壁画全体の劣化が急激に進んでいる。
今月五日には同様の壁画がある高松塚古墳の白虎や青龍で黒いカビの発生が確認された。国内に二つしかない壁画古墳が相次いで被害を受けた事態を重く見た同庁は16日に、微生物の専門家による両古墳の石室内の直接調査を実施、対応を検討する。(産経)


●9月17日 高松塚、キトラ両古墳の極彩色壁画がカビなどで汚染されている問題で、文化庁は16日、専門家3人を派遣し、内部の状態を調査した。同庁は、年明けに再開予定のキトラ古墳の壁画はぎ取りについて「10月にも始めたい」との見解を示した。
石室に入った杉山純多東京大名誉教授などによると、キトラの朱雀、十二支像・寅を覆っているゲル状の物質は、バクテリアの分泌物の可能性があるという。今後、両古墳で採取したサンプルを分析し、対処法を検討する。またキトラでは、カビ処置用のエタノールを栄養源とするバクテリアも確認されたことから、これに代わる薬剤の選定を急ぐ。
キトラ壁画のはぎ取り作業は、石室内温度が上昇する夏場は中断し、年明けの再開が決まっていた。しかし微生物が増殖したため、担当する東京文化財研究所の三浦定俊・協力調整官は「はぎ取る順序や時期を再検討する必要がある。早ければ10月にも作業を再開したい」と話した。  (毎日)
 


オイ、オイ、オイ、オイ何だったんだ。あの覆屋は!  
テレビでは「管理している文化庁に批判が集まることは避けられそうにない」とまで言っていた。
半分怒りを覚へ 半分 剥落、劣化、細菌、微生物、変色対策の難しさを知らされた思いがする。



ただ、我々考古学ファンにとってはその辺の説明と今後の対応が知りたい。
そして、公開が出来るようにしていただきたいものである。






 もう、お昼ご飯時になってしまった。キトラ古墳をあとにして飛鳥駅前に食料、飲み物を調達に向うことにした。
途中、後で行く高松塚古墳と文武天皇陵を横目で見ながら歩いた。


 歩くこと20分くらいだったか。明日香の駅前で食料、飲み物を仕入れて、飛鳥歴史公園に戻ってきて昼食とした。


 まだまだ暑い日が続いていたが、やはり9月の声を聞くと季節の花が咲いていた。
白の彼岸花は清らで、赤の彼岸花にはアゲハが蜜を吸っていた。
ススキも穂を出し、来週の中秋の名月に備えているようだった。
公園内の歩道を歩いていると蟷螂を踏みそうになった。
この怖ろしい形相は、完全に我々を威嚇している。

下の萩はアレチヌスビトハギ。
清楚な感じがして好きな花の一つだが、秋が深まる頃には厄介な引っ付き虫となる。




高松塚古墳
 飛鳥歴史公園の一角に高松塚古墳はある。壁画保護が目的になっているため本日の姿はこのようになっている。
前述のキトラ古墳のところに書いたとおり、白虎の左下の前脚付近と右下の後ろ脚付近に新たに発生したカビに黒いカビが生えてきた。


このような覆屋の姿は見たくない。
でもこれも致しかたないのだろう。


 高松塚古墳はこれまで2週間に1回の割合で定期点検を実施してきた。
これからは毎週1回の点検に変えるそうだ。
だが、点検だけではカビの発生は防げない。





平成19年1月から石室を解体して壁画を修復することになっていたが、こんな悠長なことではとても間に合わないだろう。


夏の間修復のための壁画の剥ぎ取り作業も10月から再開されるようだ。
関係者の方には一刻も早く対策をお願いします。


少なくとも国民的財産である高松塚壁画を一般人の目に触れることも無く、朽ち果てさせてしまうようなことは絶対あってはならないことだろう。


 このページの背景に使ったのは右の写真です。
ふくよかな飛鳥美人とその衣装が飛鳥文化の盛隆を感じさせる。

この墓に眠った人物は余程高貴なお方だったのだろう。


団扇のような形をしたものは(さしば)という。
日除けに用い古代豪族の儀式や行列に使用された。
中国では漢代から使用され、日本では弥生から使用されたとされている。

               西壁の白虎

               東壁の青龍

               北壁の玄武









  ここでの壁画の写真は全てレプリカを写したもので
  本物ではありません。







文武天皇陵
 高松塚古墳を後にして、次に向ったのは歩いて5分のところにある文武天皇陵。
文武天皇(683〜707年)とは如何なる人物であろうか。
天武天皇と持統天皇の間には草壁皇子がいた。持統天皇は腹を痛めた草壁皇子に天皇位を継がせたかったのだろう。
天武天皇の皇后はウ野讃良皇女(持統天皇)の姉である大田皇女(天智天皇の長女)で、その子供は大津皇子だった。
しかし皇后大田皇女は早世したため妹のウ野讃良皇女が皇后となった。
そこで問題となったのが次期天皇を継ぐのは誰なのか?である。
先ずは皇后が持統天皇として即位した。これも大津皇子に譲位させないためなのか?
『懐風藻』によれば大津皇子は身体容貌ともに優れ、博識で詩文を得意とし、武術にも秀でたという。
大津皇子は才能・人気共にあり、持統天皇は焦っていた。天武天皇崩御後僅か1ヶ月で大津皇子は反逆罪で捕えられ、翌日処刑されてしまった。
この余りに性急な事件をどう考えたらいいのだろう。しかもこの謀反に関わったとされる30余名のうち1名だけを流罪にして他のものは罪を許されたのだ。
事実は小説より奇なり。 ここまでした(かも知れない?)のに、持統天皇の次期天皇になるはずの草壁皇子は2年半後の689年4月、27歳で没してしまった。おそらく病弱で天皇位につけなかったのだろう。
このとき草壁皇子の子供の軽皇子は10歳だった。
仕方なく? 持統天皇はそのまま天皇として居残ったが、軽皇子が15歳になったとき立太子させ文武天皇として即位したのである。
 業績としては702(大宝2)年に大宝律令を公布。 また冠位制を改め、新たに官位制を設けた。
藤原不比等の娘・宮子を皇后とし、首皇子(聖武天皇)を儲けている。
また、中断していた遣唐使を派遣し、断絶していた唐との国交を30年ぶりに回復させている。
これは私見であるが、この遣唐使によって藤原京が廃絶となり、平城京遷都のきっかけになったと考えている。
詳細は別掲とするとして、藤原京の皇宮は都城の中心に置かれていた。
しかし、平城京以降の都城は全て北闕型(ホッケツガタ 皇宮が北の端にある)の造りになっていること。しかも地形も北が高く南が低い。
藤原京を造るためにまねた長安でさえこのことは同じなのである。
このことに気付いたのは遣唐使を派遣して30年ぶりの情報がもたらされたからであろう。
各道路の側溝から流れてくる汚物でさえ皇宮に流れ込んだに違いない。
藤原京は都市計画において失敗だったのである。
このはなしはこれくらいにしておこう。
 文武天皇の父は草壁皇子と言った。
それでは母は天智天皇の皇女である阿閉(あへ)皇女である。つまり平城京遷都のときの、奈良時代最初の天皇である元明天皇なのである。
文武天皇は25歳という若さで薨じたこともあり、親子が逆転して天皇になっている。
平城京を計画したのは文武天皇であり、決して元明天皇ではないということをここに言っておきたい。






 9月11日、明日香の季節感をもう一度。彼岸花やアレチヌスビトハギやススキは前掲の通り。文武天皇陵から亀石に向う途中ではこんな草木が目に付いた。



 歴代、歴遊会に参加した子供達はこの亀石の上に登ることになっている???(立て札には禁止となっているのだが)


今年は小学校4年生のM.O.ちゃんが登ってくれました。






鬼の俎 鬼の雪隠
 天皇陵といえば実際、その名の天皇の墓とお思いの方が多いと思いますが、まっ、殆どあてになりません。
正解はそうかも知れないし、そうでないまも知れないというのが正しいのでしょう。
先程の文武天皇陵もすぐ近くにある中尾山古墳という説もありますからね。
そういった中にあってこの天皇陵は紛れもなく天武・持統天皇陵で間違いないと言われている。
惜しむらくは、盗掘にあい、貴重な副葬品は出ていない。

                鬼の俎
もともとこの左右の石で1つの石室をなしていたものだ。
道の上の小高い丘に鬼の俎があり、これが基底部である。
蓋石は地震か雨で道下に転落して右の写真のような姿を残している。扉石は失われたとなっているが、小川の橋として使用されたと云うような例もあることから持ち運ばれたのだろう。

また伝説では、昔、山に鬼がいて、人や獣をとってはこの俎の上で料理して食い、下の雪隠で用を足したとかいう伝説からこの名がついたという。(現地説明文から)

                鬼の雪隠


吉備姫王墓(きびつひめおおきみはか)




欽明天皇陵の南西側の丘陵地にあり、墓名を桧隈墓という。直径8m程の円墳であると考えられている。

吉備姫王は欽明天皇の孫で、孝徳天皇、皇極(斉明)天皇の母、天智天皇、天武天皇の祖母にあたる。

墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側の池(水)田から掘り出されたという石像物4体が移され猿石と呼ばれている。
右から「男」「僧」「山王権現」「女」というそうだが、なかなか表情が面白い。
(僧は僧ではなくて力士という説もある)



山王権現

女と山王権現
ん?「女」なのに前に○○が付いている






欽明天皇陵
日本書紀によれば、612(推古20)年に推古天皇の母である堅塩姫を合葬したとあり、また規模から言って真の欽明天皇陵はここより北800mのところにある見瀬丸山古墳が有力視されている。

欽明天皇とは継体天皇の第三皇子で、安閑、宣化の異母弟。
仏教公伝による物部氏・蘇我氏の対立。九州の磐井の乱の後始末。新羅討伐・任那復興・百済救援の失敗。と古代大和政権としては大変な時期の天皇だった。


飛鳥駅
いよいよ今日の最終地点飛鳥駅に戻ってまいりました。
参加者の皆さん有難うございました。


全行程で10kmぐらいだったでしょうか。距離としては物足りなさがありましたが、次回はもう少し涼しくなると思いますので距離を増やしたいと思います。






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