風のように by 「音楽の部屋」様

京都市東山区                                         17年1月10日(祝)

 本日の出発地点は五条大橋です。
カワイイ牛若丸と弁慶の石像が立っています。
しかし、現在の五条大橋で牛若丸と弁慶が戦ったのではないということは第109回で言った通りです。

 さて、今日は「たばこ」の歴史でもひも解いてみましょうか。

そもそも、タバコというのはコロンブスがアメリカ大陸を発見した時に原住民がタバコを吸っていたと言うのが始まりだそうですね。

日本にタバコが伝えられたのは安土桃山時代でしょう。
いわゆる、南蛮貿易によってトウモロコシ、カボチャ、ジャガイモ、鉄砲、火薬、毛織物、ぶどう酒等と同じように日本に伝えられました。
喫煙の風習は瞬く間に日本全土に広がったのでしょうか?  江戸初期の風俗画には町民の間でタバコが吸われている様子が描かれています。
石川五右衛門が南禅寺の三門の上で「絶景かな、絶景かな・・・」とキセルをもっている大見栄を切る姿も思い浮かびます。
石川五右衛門がタバコを吸ったかどうかは知りませんし、この歌舞伎が演じられたのは江戸中期ですから事実はどうだったか不明です。

キセルで思い出したのですが、江戸時代、タバコの葉を細く細く切ってキセルで吸っていました。このアイデアは日本だけのもので、タバコの味をマイルドにするのだそうです。
若い人はご存じないと思いますので、書いておきますが、その細さたるや箒のフサフサの先より細いぐらいのものもありました。
今の紙巻タバコよりずっと細かく切っていたのでした。 しかも、手で刻んでいたのでした。

 幕末期には紙巻タバコが欧米から持たらされました。明治に入って、紙巻タバコは輸入されるようになりました。
ザンギリ頭に洋服スタイル、それに紙巻タバコ。 ハイカラ志向の明治の人々にとってはカッコいいスタイルに見えたのでしょうね。

 彦根藩の下級武士に土田安五郎という人がいました。この人は江戸時代、内職としてタバコの葉を刻んでいました。明治になって土田は紙巻タバコの製造を始めました。
文明開化、殖産興業を推し進める明治政府は内国勧業博覧会を東京、京都で開催しています。第2回目の内国勧業博覧会(明治14年)では土田が有功賞を受賞しています。
タバコの箱に『あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう』と印刷されている現在と違い、明治時代は殖産興業の担い手として大いに期待されていたのです。
それでも、旧来の刻みタバコの製造業者は全国に5000人はいたとされており、私(昭和中頃生まれ)も実際キセルを使ってタバコを吸っていた人を見た記憶はあります。

 明治中頃になると、タバコ産業もいよいよマニュファクチャの時代に入ってきます。
京都の村井兄弟商会と東京の岩谷商会です。
岩谷商会は「天狗たばこ」で国産の葉タバコを原料としていました。 これに対して村井兄弟商会は「サンライズ」「ヒーロー」といったハイカラさを売り物にした輸入葉タバコを原料としていました。


明治政府も新しい時代を作っていくためにお金が必要です。そこで目を着けたのがタバコだったのです。
明治9年には早くも「煙草税則」を定め、営業税と商品個々の印紙税を徴収し始めたのです。16年には税則改変を行い、さらに、21年にも増税を行っています。
そして、31年には「葉煙草専売法」を施行してついに葉たばこ生産は国の管理になってしまったのです。
この背景には日清戦争後の財政難、葉タバコの密栽培および横流し、欧米の資本が国内のたばこ産業を独占する恐れがある等が懸念されたからだということです。
そして明治37年7月、「煙草専売法」が施行され原料葉たばこの買い上げから製造販売まで国の一括管理(製造専売)で行われることになりました。

 長々とタバコについて書きました。というのも下の写真をご覧ください。今日の最初の訪問地です。

たばこ製造工場発祥の地
東山区渋谷通大和大路東入ル

明治33年に村井兄弟商会により建築された日本初の製造工場です。

明治37年「煙草専売法」施行後からは大蔵省(現財務省)の所有に変わり、現在は関西テーラーとなっています。

村井兄弟商会は村井吉兵衛兄弟により明治23年設立し、巨万の富を築き明治37年には村井銀行や京都瓦斯を興しています。

村井吉兵衛は「たばこ王」と呼ばれ、祇園円山公園内に長楽館という私設迎賓館も建てています。


工場跡東南角に立っていた「大蔵省敷地」という石碑。



河井寛次郎記念館
 河井寛次郎という陶芸家をご存知でしょうか?
私は知りませんでした。
ただ、昨年(平成16年)テレビ番組「なんでも鑑定団」に河井寛次郎作の扁壷が登場したことがありました。
その時の鑑定額が確か150万円だったのを覚えています。
私のようなものの価値が分からない人間にとっては金額で表わされると奥深さや貴重さがよく分かります。

河井寛次郎は島根県は「どじょうすくい」でおなじみの安来生まれで、大正3年に京都陶磁器試験場に入所されています。
大正10年からは「第一回創作陶磁展観」を開催され、以後数々の作品を造られました。
この記念館は、昭和12年に師、自らの設計によるもので昭和41年亡くなるまでここで過ごされました。



慈芳院

河井寛次郎記念館を出て北へ、次の角を東に回ると(五条東大路一筋下ル西入ル)とこの寺がありました。
観光案内にも出ていない寺で文献も見当たらず詳細は不明ですが、中に入ってみると不動明王が祀られている本堂が目に付きました。
門を入った左側には下の写真の石仏が祀られていました。

左下の石仏は観音菩薩と不動明王でしょう。新しいもので、高さは60cmぐらいでしょうか。
下の石仏は見応えがありました。
手の形から薬師如来でしょう。蓮華座に舟形光背の2m弱の高さです。
左手に持つ薬壺(やくこ)はよく分かりませんでした。
歴遊会のメンバーが鎌倉中期に造られたものだと言ってました。

この後北に向かい再び五条通に戻って、通りを渡って西に行きます。

途中、清水焼の店がありましたので覗いてみると見事な焼き物がありました。値段はどちらも一組13万円です。
とても庶民が買えるようなものではありません。




若宮八幡宮社  東山区五条通東大路西入北側
祭神は八幡宮でありますから応神天皇、神功皇后、仲哀天皇に後から合祀された椎根津彦命(ねつひこのみこと)それに仲恭天皇。

この神社はもと六条醒ヶ井にあり、源頼義(八幡太郎義家の父)が八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。
当初は六條八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士から信仰厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。
しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし、1605(慶長10)年にこの地に移った。
現在の社殿は1654(承応3)年に再建されたものです。
本殿は三間社流造の庇を取り込んで前室とし、更にその前に向拝一間を付けた前室付き流造です。
京都では珍しい形式の建物であり、京都市指定有形文化財に指定されています。


ここが清水焼発祥の地ということで、毎年8月7日から10日までの間には若宮祭とその協賛行事として陶器祭りが行われます。
孝明天皇胞衣埋納所
孝明天皇とは明治天皇の一代前の幕末の天皇です。
公武合体論者で、鎖国継続、ヒステリックなまでの攘夷を貫いたのでした。

困ったのは江戸幕府でしょう。
欧米列強からの圧力と板挟みで身動きが取れなくなって、なし崩し的に開港をする一方、尊皇攘夷派に対する弾圧を繰り返しました。
こんな不安定な状態が長続きするはずもなく、崩壊への道をひた走ることになったのでした。



胞衣(えな)とは胎盤や卵膜のことで、胞衣埋納とは胞衣を桶や甕、焙烙(ほうらく)などの素焼きの土器に入れて、刻印や墨書して、熨斗結びや小刀の副葬品とともに恵方の土中に埋める風習のことです。
明治時代以降には衛生上の理由から胞衣を埋納することが禁止されましたが、昭和20年くらいまでは瀬戸物屋などで胞衣壷を販売していたといいます。



清閑寺         東山区清閑寺歌の中山町

真言宗智山派に属する802(延暦21)年、紹継法帥の創設による。
管原道真の作と伝えられる本尊十一面千手観世音を安置する本堂。
ここは私の下手な解説文を書くよりは、三重県にお住まいのHidepenさんの文章を借りる事にいたします。
歴史の表舞台にたった男どもを支えた女性、愛と苦悩に生きた女性の生涯を独自の視点と感性でロマンあふれる表現をされているページは魅力的です。

Hidepenさんのページへはこちらから行けます。



☆小督の局・・・想夫恋の調べは切なく(平家物語史跡)

 平清盛は、自分の娘徳子(後の建礼門院、当時17歳)を政略結婚の為、11歳の高倉天皇に嫁がせ7年後に徳子が男子(後の安徳天皇)を出産するが、清盛は皇位継承者に自分の直系がはいったことによりなにかと天皇家に口をはさむようになる。

清盛を疎ましく思い、次第に徳子から離れる高倉天皇は、他に女性を求めるようになり、その目にとまったのが徳子の女官の葵の前であったが、嫉妬深い宮中の女官たちの攻撃の的となり、ストレスで体を壊し、実家へ帰った後、すぐに亡くなってしまう。

高倉天皇の落胆は大きく、自責の念から部屋を一歩も出ず、食事ものどをとおらないありさまに、徳子は高倉天皇を慰めようと自分に仕えている宮中一の美女で琴の名手である小督の局を参内させるが、天皇は小督に夢中になってしまう。

小督には、すでに藤原隆房(清盛の五女の婿)という恋人がいたが、天皇からの寵を受けることになった小督は、すがる隆房を頑なに拒むことになる。
やがて、このことは清盛の耳に入ることになり、自分の娘婿を二人も奪った小督に清盛は怒り狂い、小督を殺すとまで言い出すようになった。

自分の身はさておき、帝に迷惑がかかることを案じた小督は、ひそかに宮中を抜出し、嵯峨野に身を隠すが、高倉天皇は源仲国に行方不明の小督を探す命を出し、あてどなく捜索していると、亀山辺の琴聴橋(左写真)近くから琴の調べが聞こえる。
「想夫恋」の調べは、切なく哀愁があり、かつて小督と笛の名手仲国は幾度も合奏しているので、すぐに小督とわかった。

小督は天皇の命で密かに御所へ連れ戻され、以前以上の寵愛を天皇から受け、女子(後に中宮にまでなる)を出産する。
しかしまたしても清盛の耳に入り、小督は無理やり清閑寺で尼にされてしまうことになり、再び隠楼することになる。

その後高倉天皇は、尼になった小督をあきらめきれず、失意のうちに病没してしまう。
わずか21歳の短い人生であった。
亡がらは、遺言で東山の清閑寺に埋葬され、小督は終生その菩提を弔い天寿をまっとうし、今、清閑寺の高倉天皇陵の傍らに寄り添うように小督の墓はたたずんでいます。。

死して尚、帝は小督の局を求めて、この地に埋葬してほしいとの遺言を残し、清閑寺のほとりに御陵が作られた。きっと小督の局は、誰はばかることなく帝の菩提を弔ったことでしょう。

参道の脇には、小督の局の供養塔があり、更に奥の高倉帝御陵の築地塀の中には、高倉帝の奥津城と並んで小督の局の墓とされる宝篋印塔が並んでたてられている。まるで比翼塚のような中むつまじさなのです。

    以上Hidepenさんのページから引用いたしました。


小督の局の宝筐印塔

暮末に清水寺の住職月照上人と西郷隆盛とが、しばしば勤皇の謀議を行なった「郭公享“茶室”」が鐘楼堂の上にあったが、老朽はげしく平成3年に解体されました。

「要石」
ここからの景色が扇を開いたように眺望され、ちょうどその石のある位置が扇の要にあたることから「要石」と呼ばれる。
要石に誓いを立てると願いがかなうと言われています。

要石から見た京都市の風景


チョッと見にくいですが右の写真が六條天皇陵
下の写真がうわさの?高倉天皇陵です。

平滋子は平清盛の妻時子の妹。 平徳子は平清盛の子供。
前出の小督は徳子に使えていた宮中一の美女でした。

六條天皇について
後白河上皇と二条天皇父子の政争の中、二条天皇が病にかかり、わずか2歳で譲位されて即位。
しかし、1ヶ月後に二条天皇が薨去すると、祖父後白河上皇の意志により、憲仁親王(後ちの高倉天皇)が立太子し、5歳にして叔父にあたる高倉天皇に譲位させられました。
二条天皇親政派と平清盛が推す後白河上皇の院政派との対立に翻弄され、わずか13歳にして「痢病」により生涯を閉じたのでした。

 天皇位は77代後白、78代二条、79代六條、80代高倉、81代安徳、82代後鳥羽、83代土御門、84代順徳と続いて、前出の若宮八幡宮に合祀された仲恭天皇へと続きます。



将軍塚
さて、ここから山道を2Kmほど歩いて将軍塚に向います。
 将軍塚といえば京都では昔から京都市内を一望のもとに見渡せる場所として、また夜景が素晴らしいと言われているところです。

 将軍塚は、桓武天皇の延暦13年(794年)に都を長岡から京都に遷都した際、王城鎮護(この都を守る)の祈りを込めて、高さ2.5m程の武将像を土で作り、これに鎧甲着せ、鉄の弓矢を持たせ、平安京の方角に向かせて埋めたことから名付けられました。
 この将軍とは坂上田村麻呂(758〜811)のことを指していると考えていいでしょう。
桓武天皇の蝦夷征伐において、武将として801年征夷大将軍に任じられ四万の軍を率いて、胆沢の地に赴いていますし、「日本紀略」には、「田村麻呂等申す。夷大墓公阿弖利為(いのたものきみあてりい)、盤具公母禮(いわぐのきみもれ)等、種類五百余人を率いて降(くだ)る」と書かれています。
夷大墓公阿弖利為、盤具公母禮とは陸奥(みちのく)の蝦夷をまとめ、朝廷軍を打ち破ったことがある二人の勇将のことで、田村麻呂はこの戦いを通して二人とは友情で結ばれるようになりました。
そして陸奥とは和平が生まれたのでした。
ですから、「日本紀略」にあるように二人を連れて都に帰って来たのです。それなのに朝廷では戦勝に酔いしれたのか、阿弖利為と母禮を殺してしまったのです。
悲しい歴史の現実です。

また平安末期以後、天下に異変があるときは必ずこの塚が鳴動して前兆を表わすという伝説が生まれ、「源平盛衰記」によると、源酉とも挙兵の前年、治承3年7月には、3度にわたってこの塚が鳴動し、ついで間もなく大地震が起こったという。
 この付近からは、古墳石室や経筒などが発見され、古墳の一つは青蓮院大日堂の枯山水庭園の一部となっています。
(この地は青蓮院の飛地の境内なのです)
なお、大日堂に安置する本尊大日如来像は付近の山中から発見された華頂院の遺仏と伝えられています。





付録
 今月は1月です。例年恒例となってしまった新年会を将軍塚横の東山山頂公園で行いました。


重い荷物を担ぎながらの登山です。特にビールや酒は重いです。

山頂に着き皆ホッと一息の瞬間!

遠く比叡山を見ることが出来ました。

早速、海老入り「うどんすき」の開始です。

女性は料理係、野郎は飲む係り?

出来上がりましたと紙容器で「どうぞ」

汁が少ないのは、おかわりの追加のため。

まだまだ、材料はいっぱいありますよ。

ミズナも入れてハリハリ鍋にも変身します。

ついに箸まで突っ込んで食べ出す輩まで現れて。

最後は雑炊で、溶き卵まで用意しているとは????
こうして冬空の下、豪華な?新年会は進行していきました。
本日の参加者は11人。堪能して山を降りました。

この時期、小春日和とは言いませんが、そんな感じの暖かな一日でした。

善良な私達のために神のお恵みか?
多謝!多謝!





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