白いラブレター by 「音楽の部屋」様

京都市下京区から東山区へ            16年12月18日



五條天神宮
 天神といえば菅原道真と思い浮かべます。しかし、ここ、五條天神の天神は天神地祇の天神で菅原道真とは関係がありません。
天神地祇という言葉をご存知でしょうか?
天神とは天つ神。高天原(たかまがはら)に生まれた神、あるいは葦原の中つ国に天降った神のことで、地祇とはこの国土の神とされる国つ神のことです。
そこで、この五條天神の宮の祭神を見てみますと
     大巳貴命(おおなむちのみこと)
     少彦名命(すくなひこなのみこと)
     天照皇大神(あまてらすうめおおかみ)
となっていました。
少彦名命、天照皇大神は天神で間違いがないのですが、大巳貴命とは「因幡の白兎」で有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)です。

国つ神も祀られているのか?


この神社に置いてあったパンフレットには以下のような説明が書かれていました。


 当社は社伝によると、桓武天皇が京都に都を定められたとき都の平安を守るために、大和の国宇陀郡から天神を迎えて「天子の宮」として建立した神社であります。

当時、洛中では最も古い神社であり、最大の鎮守の森を有する神社でありました。その広大な森を、南北に五丁もある天神様の細道が続いておりました。このことは現在も存在する町名「天使突抜一丁目から四丁目」をみてもわかります。

牛若丸と弁慶の物語について、当社には再々の兵火などによる消失によって資料はありませんが、義経一代記を書いた室町時代の「義経記」などによって伝承されております。

それによりますと、牛若丸は長じて源九郎義経と名乗り、奥州から再び京都に戻ります。
当時、陰陽師の鬼一法眼が「六韜(りくとう)」という兵法書を秘蔵していることが義経の耳に入り手に入れたいと思うのです。
「六韜」には八尺の壁に登って天に昇る力を会得する法が書かれていました。

義経は法眼の娘を通して兵法の書き写しに成功したのですが法眼の怒りにふれ、この五條天神に誘い出されるのです。
義経は信奉する天神に勝利を祈願し、相手の湛海坊を討ち取ります。

一方、弁慶も比叡山の師僧から見放され、この京の町で太刀千本取りを願って五條天神に詣でた夜、当社の森の椋(むく)の木下で弁慶は妙なる笛の音とともに現れた義経と初めて出会うのです。
義経が持つ立派な太刀を奪おうと勝負に挑んだのですが、義経の「六韜」の技に目的を果たせず引き上げます。

翌日、清水寺で再会した二人は互いに激しく打ち合ったのですが、またも弁慶は敗れ、義経の不思議な技に戦うことをあきらめ、その後は主従を誓い、生涯義経を守ったのです。

童謡に「京の五条の橋の上、牛若丸と弁慶は・・・」とありますが、この橋は現在の鴨川の五条大橋ではなく、当時当社の東側を流れていた西洞院川にかかっていた橋のことなのです。
また、当社北川の通りは松原通ですが、かつては五条大路と呼ばれ清水寺につづく参詣道でした。

広大な森は、保元の乱、応仁の乱、蛤御門の変、鳥羽伏見の戦いなどの洛中の兵火で消失し、本殿も消失再建が繰り返されてきました。
境内は明治以後、現在の区画に整理されました。

       以上境内に置いてあったパンフレットから転載しました。


 このパンフレットは明らかに17年のNHKの大河ドラマを意識して作られたものでしょう。
『童謡に「京の五条の橋の上、牛若丸と弁慶は・・・」とありますが、この橋は現在の鴨川の五条大橋ではなく、当時当社の東側を流れていた西洞院川にかかっていた橋のことなのです』という一文ですが、断定しているところが気になりました。
ただし、また下のような案内板もありました。
左から4行目ですが、『西洞院川の橋だという伝説もある』となっています。



さて、そうなると記憶にある童謡は「♪京の五条の橋の上、大の男の弁慶が・・・♪」なのですが、いったい何処なのだろう?
確かに『義経記』には、武蔵坊弁慶が太刀千本を奪い取ろうと夜ごとに街を駆けめぐり、999本の太刀を手に入れたが、まだ1本足りない。
1千本目となる最後の1本の太刀を「今夜の御利生によからん太刀与えて賜び給へ」と祈願したのはここ「五條天神」であり、そこへ現れたのが牛若丸だったとなっている。
調べてみると、どうも現在の松原通が平安京の五条大路だったようだ。一条大路から九条大路までの道で何故か五条だけが西に200mぐらい移動してしまったようだ。
これは戦国時代京都の町は荒れ放題だった。戦国時代に終止符を打ったのは秀吉です。そして1590(天正18)年、秀吉は京都の大改造に着手した。
正方形の条坊制の町割から短冊形の町割りに改造したのでした。このとき、都市域といえるのは一条以北の上京と三条から五条(現、松原通り)の下京ぐらいだった。
そのため、下京の都市域の南を五条(現、五条通り)としたのではないだろうか?
話を義経と弁慶の出会いの場所に戻すが、そうなると、やっぱりここ西洞院川の橋だったのか。それとも世間で伝えられているように鴨川に架かる五条大橋(現、松原橋)なのか。
更に、大徳寺の東側に流れていた有栖川にかかる橋に「御所ノ橋」というのがある。「御所ノ橋」が訛って「五条の橋」になったという。
この御所ノ橋というのは牛若丸が生まれたという地の近くで、全く根拠のない話でもないらしい。

牛若丸と弁慶の話はこれくらいにして、もう一つおもしろい話がある。
「てんしつきぬけ」 ん???
漢字で「天使突抜」と書く。れっきとした地名である。初めてこの漢字に出会ったとき読み方も分からず、意味不明の言葉だった。
この突拍子もない地名は五條天神の境内を突き抜けて造られた道から誰言うとなしにそういう風に呼ばれたのだろう。
京都の中心街で1〜4丁目と地名を持っているのも珍しいものだ。



菅大臣神社

五條天神社北へ200mほど行ったところに菅大臣神社がある。
菅大臣とは菅原道真の事で祭神として祀られている。

案内板によると『ここは道真の邸のあった旧地で、管家廊下(かんけろうか)という学問所もあったところ。
古くは天神御所、白梅殿などとよばれ、境内には本殿、幣殿のほか多くの社殿が建っている。
また道真の誕生の地と伝えられ、境内には産湯の井戸もある』


ただ、産湯の井戸といってもここから北へ1.5kmほどにある菅原院天満宮にも産湯の井戸というのが、あったし、奈良県菅原町の菅原神社にも産湯の井戸だったか池だったかあるじゃないか。
いったい、道真は何処で産まれたんだろう?

神社は道真没後間もなく創立されたが、度々兵火にかゝり、鎌倉期には南北両社に分かれ、応仁の乱後慶長十九年に、管家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興された。
しかし、天明の大火、禁門の変で再度焼失するが、現本殿は明治2年、下鴨神社の旧殿を移築し、千木や鰹魚木を置かない八棟造(やつむね)である。


「飛梅伝説」

これは道真が藤原時平に無実の罪を着せられ大宰府に左遷されるとき、この邸宅の紅梅殿の梅に
 東風吹かば にほひおこせよ梅の花
   あるじなしとて 春な忘れそ

と歌を詠むと、後にその梅が太宰府の道真のもとに飛んでいったという。

左が
『飛ぶ前梅』
こちらが大宰府の
『飛んだ後梅』
です。(笑)


写真を提供いただいたのは九州のnon様です。
「紅梅殿」、北菅大臣神社(きたかんだいじんじんじゃ)ともいう。
その名の通り菅大臣神社の北側にある。
菅大臣神社の北門を出ると『菅家邸址』の石碑がある。その路地の突き当たりにこの神社はある。
菅大臣神社が白梅殿と言うのに対して紅梅殿と言うのであろう。

ここには道真の父是善(これよし)が祀られている。

「拾芥抄(しゅうかいしょう)」では、綾小路通り、新町通り、仏光寺通り、西洞院通りに囲まれた1町四方に紅梅殿があったということです。
で、上の「東風吹かば・・・」と詠んだのはこの邸のはず。

そうすると、先ほどの菅大臣神社は?
そして飛梅もここ?
管家廊下もこちらにあったはずだ。
分からん事が多すぎる

紅梅殿の横の公園から北へ進むと綾小路通りに出る。ここで、またまた、怪しい?ものを発見した!


四条通りから綾小路通りに抜ける細い通りがある。この通りは「膏薬図子(こうやくずし)」という。
その前に図子とは秀吉が区画した町割りを十分に活用できない場合、図子や路地という小道がが自然発生的に出来上がってその道を囲んで民家が建てられた。この内、路地というのは行き止まりになっているもので、図子とは町割り道路ともう一方の町割り道路を繋いでいるものをいう。

さて、「膏薬」であるが、その前に、10世紀に東国では平将門、西国では藤原純友が朝廷にに対して挙兵していた。
世に言う940年の天慶の乱で平将門は藤原秀郷、源経基等によって討たれた。
所は茨城県岩井市である。
将門の首は京都に送られ獄門にかけられ晒し首となった。しかし、その首は三ヶ月たっても色が変わらず、目も閉じず、常に牙をかんで、

  「斬られしわが五体、何れの処にかあるらん。 ここに来れ。首ついで、いま一軍せん」言ったという。

そして、ある夜、この首は白光を放ちながら東方へ飛び去ったという。 落ちたところが東京は大手町、三井物産本社横、被っていた兜が落ちたところが証券取引所で有名な兜町なのである。

話が大分逸れたが、この平将門の霊をを弔うために空也上人が念仏道場を建てた御堂があった。そのため「空也供養(くうやくよう)」と呼ばれていたが、それがいつしか訛って「膏薬」と呼ばれるようになってしまった。



さて、問題の怪しいものの発見であるが、やっぱりあるんですねェ。
膏薬図子の中の、ここが平将門の首が晒されていたところなのだそうです。 この神宮の前で歴遊会メンバーが薀蓄をたれていると、近所のオジサンが話の中に割り込んできて、さも得意そうに
「ここが、東京の神田明神の本家なんや。今でも正月にむこうのエライさんがお参りに遣って来るんや」と話してくれた。
「へぇ〜、うんうん」とその自信ありげな話に、相槌を打ちながら話を聞かせていただきました。 オジサンありがとうございました。
でも・・・・・???




松原道祖神社
 膏薬図子を四条側に出て東に行くと新町通りである。
この道を再び松原通り(旧五条通り)に向うと松原道祖神社がある。「道祖神」つまり「賽の神」が祀られているのである。
平安時代も末頃になると都の形も随分変わってきたようだ。都の中心であった朱雀大路より西は「西京は人家いよいよ稀にして、殆ど幽墟にちかし」と描写されている。
一方東側はというと北の端である一条大路を超えて、更には鴨川も越えて東へと住宅地が広がっていったのである。そして洛中の南も衰退が始まっていった。
こうして、ついには松原通りが都の南端という状況であった。松原道祖神社はそのようなところに位置していたのである。そして松原通りを東に行くと「六道の辻」(後述)、葬地である鳥辺野へと続くのである。


道祖神は『宇治拾遺物語』巻一に「五条の斉」と記されている。

話は道命阿闍梨という高僧ではあるが、エロ坊主ではないかと思われる人物のことで、かの有名な和泉式部を愛人に持つといわれた僧である。

ある夜、道命阿闍梨が式部と夜を過ごした後で、法華経を読んでいると人の気配を感じた。
それが誰かというと「五条の斉の翁」だった。
いつもは道命阿闍梨が読経をしていると梵天様や帝釈天様が聴聞しにくるのであるが、道命阿闍梨は不浄なため本日は来なかった。

そのため斉の翁のような卑しい神でも聴聞することができたのだという。

ん?ここの五条の斉という神様は卑しいと描かれているんだ!

 ここを後にして、松原通りを東に600mぐらい行くと鴨川があって、そこに松原橋がある。
前述のように、ここが牛若丸と弁慶の出会いの場所と思っていたのだけど。 どうも、そうではないのかもしれない。

この橋を写真の左から右へと渡ってさらに東進していきます。
暫く行くと浄土宗の西福寺が見えてくる。その角に「六道の辻」の碑が立っている。

六道とは、 すべての衆生(しゆじよう)が生死を繰り返す六つの世界で、迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道をいう。
前者の三つを三悪道、後者の三つを三善道という。


しかもここは近くに六道珍皇寺があり、小野篁がこの寺の井戸を通って閻魔庁の冥官をしていたという冥土への入り口もある。

この辻を右折すると、これまた鳥辺野という平安時代の葬送の地に入って行くのだ。

「げに恐ろしや、この道は冥土に通うなるものを」


また、こんな話も聞くことがある。
その昔、この地は化野(あだしの)と同じく人骨が沢山出土したため、髑髏(どくろ)原と呼ばれていた。
この髑髏が訛して「ろくどう」(六道)になったのではないかと言われている。
偶然かもしれないが、小野篁の祖先は米餅搗大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)です。名前からも想像できるように小野氏は元は鍛冶師だった。
ところが、鍛冶師も木地師も平安時代では同一の分布をなしており木地師も小野氏から派生して行ったのである。
したがって、小野篁ゆかりのこの地には轆轤(ろくろ)木地師がたくさん住んでいた。
轆轤木地師が多く 住む町が京都所司代の命により縁起の悪い「髑髏町」から「轆轤町」に変更されたという事実もある。
案外「六道」と言い出したのは江戸時代からなのかもしれない。

上の写真の「六道の辻」の石碑の後ろは西福寺である。またの名を子育地蔵とか子育さんと呼ばれている。




西福寺
【宗派名】浄土宗
【本尊】阿弥陀如来
【開山】蓮性和尚
【開基】弘法大師

弘法大師が鳥辺野の入り口に当たるこの地に自作の土仏地蔵尊を安置する地蔵堂を建てたのが開基といわれる。

子育地蔵と言うのは、嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子姫(檀林皇后)が弘法大師に深く帰依し、その子、正良親王(仁明天皇)の病気の平癒を祈願したところ、病が回復し、無事成長したとの由来があるからである。

西福寺には何幅もの絵があり、なかでも有名なのは檀林皇后の遺言で風葬にされたその後の様子を絵にした「檀林皇后九想観図」で、檀林皇后の死後、原野におかれた死体が腐乱し、白骨化して最後は土にかえる様子が描かれている。

何やら、この辺りは「髑髏」だの「風葬」だの「冥土の入口」だの恐ろしいところである。
こういうところを、この世とあの世の結界と言うのだろう。

本堂の前の賽銭箱の前には、この場所にお似合い?の黒猫が昼寝をしていた。

   境内には不動堂があり、末廣不動明王が祀られていた。




六波羅蜜寺
西福寺を後にして南に向うとすぐに六波羅蜜寺がある。
空也上人が951(天暦5)年、京に蔓延した疫病を退散させるため上人は十一面観音を刻み念仏を唱えて祈ったといわれる西光寺を、上人の没後、弟子の中信が977(貞元2)年に天台の別院として寺号を六波羅蜜寺と改めて再建したものである。
空也上人と聞いて浄土宗か天台宗かと思いきや真言宗だった。よく教科書で見る空也上人像(口から六体の阿弥陀の小仏が出ている)はここにある。
空也は、万民救済という信念により、貴族社会の仏教を庶民の間に広めたことで有名です。
行者として諸国を巡り、道路や橋を補修したり、貧しい者や病に苦しむ者への施しを惜しまぬ姿に「阿弥陀聖」、「市聖」と呼ばれていた。こうして、空也は民間浄土教の祖となったのです。

六波羅蜜とは

布 施 布施行にとって最も大事なことは応分の施しをした時、その施しをした事を心に止めず、その対象を求めないことである。
もちろん布施は物質のみではない。

持 戒 道徳・法律・条令等は、時代によって人が作り、現代ますます複雑になっていく。我々は常に高度な常識をもち如何なることにも対処できるよう自らを戒めることである。

忍 辱 仮に辱めをうけても、本当に耐え忍ぶならば、苦の多い現代に生かされている事がわかり、すべての人の心を心とする、仏の慈悲に通ずる。

精 進 不断の努力である。人はそれぞれ立場、立場で努力し誠心誠意を尽くすことである。

禅 定 静かな心で自分自身を客観的に見ることである。

智 慧 助け合い、ルールを守り、耐えしのび、はげみ、自己をみつめ、苦楽を乗り越えて、どちらへもかたよらない中道を、此の岸から彼の岸へ・・・菩薩へ、完成へ。

こんな意味があるんですね。


左の写真
左側が平清盛の塚、右側は阿古屋塚
代官、畠山重忠は阿古屋とは平家の残党、悪七兵衛景清の行方を探すため、愛人の白拍子、阿古屋を捕えた。
彼女が景清の居場所を知っていることは分かっていたが、弾かせた三味線、箏の調べに一点の乱れもないことに感動し釈放したと伝えられる女性だそうです。
何ていうんだろう?庇の下にある雨水受けに小石が沢山置いてあった。
よく見ると何やら字が書いてある。

「これでさいごの恋にしたい!」
「高校うかりますように!!」
「いい人とであえますように」
「恋が実りますように ねがいが叶いますように」

なぁ〜んだ、絵馬の代わりじゃん!
こんなの誰が始めたんだろう?
平安末期には平氏の邸宅が寺の内外に建てられていた。(七条通、東大路、松原通、大和大路で囲まれる地域)
1221(承久3)年、鎌倉幕府成立後も政治の実権を握ろうと企てていた朝廷との間で「承久の乱」が起こり、幕府軍が勝利すると治安維持のため六波羅探題をここに置いたのである。

 六波羅蜜寺から西福寺まで戻って東に向うと何やら怪しげな雰囲気を感じさせる寺(かな?)が現れた。
この異様なる雰囲気はなんなんだ!




六道珍皇寺

 門構えは左の写真の通りです。
石碑が二つありました。
ここも「六道の辻」と言うのか?
拡大写真は下のようでした。

おお!ここが小野篁で有名な六道珍皇寺なのか。
この、ゾクッとする感覚もむべなるかな。

以下写真の右端の立て札の説明文です。
「この寺は大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属している。

平安遷都以前、東山阿弥陀ケ峰山麓一帯に居住した鳥部氏の氏寺(宝皇寺)が前身とも、空海の師、慶俊僧都(けいしゅんそうず)が創建したものと伝えられているが、鎌倉(南北朝)時代の貞治3年(1364)に、建仁寺の僧、良聡によって再興改宗され、現在に至っている。

俗に六道の辻と呼ばれる境内一帯は、毎年8月7日から10日まで『六道詣り』といわれる精霊迎えのため、多くの参詣者で賑わい、この期間、霊を現世に呼び戻すといわれる『迎え鐘』の音が響き渡る。
境内には、小野篁が冥土への入り口としたとしたいわれるいどがあり、閻魔堂には小野篁作の木像閻魔大王像とともに小野篁像も祀られている。

 また、薬師堂には、木像薬師如来坐像(伝教大師作 重要文化財)と毘沙門天(弘法大師作)地蔵菩薩(定朝作)を安置する。」


と書いてあります。

ということは800年前後に東寺の末寺として建てられたのが、いつの日か荒廃してしまったのか。
分かっているのは小野篁(802〜852)のころは存在していたってことぐらいなのか。
多分1200年代には存在していたんだろうけど。



参考用語
六道銭・・・・・・死者の棺の中に入れておく六文の銭。三途(さんず)の川の渡し銭
六道輪廻・・・・衆生が自分の業(ごう)により、六道の間を生まれ変わり
         死に変わりして迷い続けること。

六道能化・・・・仏語。六道の巷(ちまた)に現れて、衆生を教化し
         救う地蔵菩薩のこと。
六道の巷・・・・六道へ通じる道の分岐点、または、六道の迷いの世界


左の写真が本堂の薬師堂です。
この中に木像薬師如来坐像や毘沙門天や地蔵菩薩が安置されている。


迎え鐘
 上記、開基慶俊僧都が遣唐使の一員として唐の国に行く時に造らせた梵鐘を地中に埋めて三年間は掘り出さないように命じていた。
しかし、この鐘は2年足らずで掘り出されてしまった。
その鐘の音は唐の国にいる慶俊僧都のところまで届いた。
慶俊僧都は「あの鐘は三年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして六時(むつどき)になると独りで鳴る霊鐘だったのに」と残念がったという。
この鐘は遥か唐の国までも聞こえるということから、十万億土の冥土にも響くであろうということで「迎え鐘」と呼ばれるようになったのだろう。

この鐘は左の写真のようにお堂のような鐘楼の中に入ってる。
中央の綱を引いて鐘を鳴らすのだ。

毎年8月7日から4日間、ここ珍皇寺ではご先祖の精霊(おしょらい)さんを迎えるためのお参りをする。
参詣客は、高野槇(こうやまき)を購入して、経木に亡き人の戒名を書いて線香の煙をからませて清めます。
次に経木を水槽の水に浸して、水回向(みずえこう)をします。
それから、鐘を撞いて精霊さんを冥界から呼び戻すのです。
冥界で鐘の音を聞きつけた精霊さんは、この高野槇の穂先を伝わって帰ってくるといわれている。
 六道珍皇寺が迎え鐘ならば、送り鐘があるはずと調べてみる。
やっぱりあるのですね。それは、中京区寺町通三条上ル東側にある矢田山金剛寺で、8月16日には「送り鐘」という名目で鐘が撞かれている。



小野篁(802〜852)
平安時代、嵯峨天皇(上皇)に仕えた学者であり、漢詩人であり、歌人としても有名です。

  わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと
        人にはつげよあまのつり舟


 ある日、「無罪善」という立て札が問題になった。嵯峨上皇は篁に何と読むかと命じた。
篁は嫌がったのだが執拗に読めと命じられて「罪(サガ)無くて善からん」と読みました。(ジャーン! 言ってもいいのかな?)
嵯峨上皇は「このようなことが書けるのは篁、お前だろう」ということで篁を罰そうとしたときのこと。
「子子子子子子子子子子子子」を「猫の子、子猫、獅子の子、子獅子」と読んで咎めを免れたという話がある。

その、篁ですが、834年、遣唐副使を任命された時のこと。 乗船のことで遣唐大使藤原常嗣と争って出発しなかった。
さらに西道謡という歌を作って風刺したため嵯峨上皇の逆鱗に触れ隠岐島に流罪となるが、このとき藤原良相(よしみ)がとりなしで罪が軽くなり2年で召還される。
翌年朝廷に復し刑部大輔、陸奥守、東宮学士、蔵人頭等を経て勘解由使の長官に昇進し弾正大弼をも兼ねている。

そして昼間は勘解由使の長官を勤め、夜は地獄の閻魔大王の横に並ぶ冥官もやっていて、あの世とこの世を自由に行き来できたという。 
そのため藤原良相が死んだときも、恩返しに篁が良相を生き返らせたのです。
 前置きが長くなりましたが、篁が冥界地獄に出勤?する時の入り口が六道珍皇寺にあるとされている。

その入り口とは右の写真の右下の方にある竹で蓋がされている井戸なのです。
篁は高野槇(こうやまき)の枝を伝って、その穂先から冥府へ通ったのだそうだ。
この伝説からなのか、先ほどの六道詣りの精霊迎えに高野槇を使うのは。

ここが入り口なら出口もあるはず。
篁は夜に、この井戸から地獄に入り、朝になると嵯峨野の六道町の福生寺の井戸から戻ってきたのだ。
この井戸も、寺も現在では既になくなっているが、福生寺にあったという「生六道地蔵尊」と「小野篁像」は現在、清涼寺の境内にある薬師寺に安置されている。


因みに、六道珍皇寺の六道(鳥辺野)を「死の六道」、福生寺の六道(化野 あだしの)を「生の六道」という。


幽霊子育飴
六道珍皇寺から少し東に行ったところにお茶屋(お菓子屋)があり、看板に「幽霊子育飴」とある。
なにやら、またまた、「怪しい」。
この辺が六道という魔界との結界であるが故の伝説がいっぱいあるのか。
なんでも、昔々の慶長年間のこと。
この飴屋さんに夜な夜な飴を買いにくる女がいたそうな。
不審に思った店主が後を付けてみると、女は鳥辺野の墓地のあたりでスッと消えてしまった。
赤ん坊の泣き声に気づき、翌日、掘り起こしてみると、そこは出産直前で亡くなった女性の墓で、赤ん坊は母親の死後生まれたのだった。
どうやら、この母親が生まれた子供を育てるため、幽霊となって、毎夜この店に飴を買い求めていたらしい。

そんな由来のある飴だったのですね。



このあと、建仁寺を通って忘年会会場に向かった。途中、宮川町で黒ブタちゃんが散歩していましたよ。(笑)





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